第9話:地獄
地下五層、『キル・ゾーン』と化した大広間。
空気を満たすのは、
焼け焦げた肉の匂いと、
生臭い鉄の匂い――鮮血の香りだった。
「ひぐっ……あぁぁ……っ、痛い……痛いよぉ……ッ!!」
エレノアの掠れた悲鳴が、
無機質な石造りの天井に空しく響き渡る。
かつて王立アカデミーの誇る「天才魔法使い」と称えられた面影は、
そこには微塵もなかった。
右腕の骨は複雑骨折を起こし、
皮膚は裂け、砕けた金剛石の破片が肉の深くまで刺さっている。
彼女の握っていた最上級の魔導杖は半ばからへし折れて転がっていた。
「クラリス……! 早く……早くエレノアを治療しろ! 腕が……腕がくっつかなくなるぞ!!」
ルークが狂乱したように叫ぶ。
自身のミスリル甲冑も爆風で歪み、
胸元から血を流しながら、
膝をついてエレノアの頭を抱きかかえていた。
「やってます……! やってますけど、傷が深すぎて……っ! 『聖なる光よ、傷を癒せ――ヒール! ヒール!』……なんで……なんで塞がらないのぉっ!?」
クラリスの放つ治癒の光は、あまりにも微弱だった。
極度の精神的困憊と魔力枯渇により、
彼女の治癒魔法は本来の性能の数分の一も発揮されていない。
傷口から溢れ出る血を、
僅かに押しとどめるのが精一杯だった。
「ぐ……あああああッ! 足が……足が抜けない……っ!!」
少し離れた場所では、ライアンが太ももを貫いた針を掴み、
激痛に顔を歪めて血の涙を流していた。
俺が「弾き飛ばした」針の一本が、
運悪く彼の太ももを石畳ごと深く突き刺し、
身動きを完全に封じていたのだ。
そんな惨状の中心で――俺は、ただ棒立ちになっていた。
自分の手を見つめる。
皮も剥けていない。血もついていない。
傷一つない、平穏そのものの両手。
(どうして……?)
俺の頭の中は、激しい困惑とパニックで満たされていた。
みんなを助けようとしただけだった。
飛んできた針を払って、
爆石を蹴り飛ばして、
襲ってきた大きな石の固まりを叩いて壊しただけだ。
俺なら、痛くも痒くもない。
針が当たったって弾けるだけだし、
爆風だって服が汚れるくらいだ。
ゴーレムの破片だって、
カチンと跳ね返る程度のものだった。
俺が平気だったから、
みんなだって平気なはずだと……勝手にそう思い込んでいた。
でも違った。
皮膚が裂けて、肉が削れて、骨が折れてしまうほどの激痛だったんだ。
俺は心配になり、助けようと一歩踏み出した。
「み、みんな……大丈夫か……? 俺、手伝うよ――」
「来るなあああああああああッッッ!!!!」
地獄の底から響くような絶叫が、俺の言葉を遮った。
ルークだった。
金髪を血と泥で汚し、血走った瞳で俺を睨みつけるルークの顔には、
生々しい「恐怖」と「激怒」が貼り付いていた。
「触るな! 近寄るな! 化け物!!」
「ルーク……?」
「お前だ……! お前が全部壊したんだ!!」
ルークは吐き捨てるように叫び、血まみれの聖剣を俺に向けた。手が激しく震えている。
「お前が……お前が無駄に暴れ回ったせいで! 爆風が弾け、石の破片が飛んできて、エレノアの腕が破壊されたんだ! お前が……お前が罠を余計に刺激したんだろうがぁっ!!」
俺は驚いて目を丸くした。
「ち、違う……! 俺はみんなに当たりそうだったものを弾いて――」
「うるさい! 黙れ! 言い訳をするな!」
ルークは俺の言葉を聞こうともしなかった。
彼の肥大化した自尊心は、
この惨劇の責任が「自分たちの判断ミスと過信」にあることを認めることを、
断固として拒絶していた。
もし自分たちの実力不足を認めれば、
自分たちは「未熟な愚か者」になってしまう。
だからこそ、すべての原因を、
この常識外れで不気味な「教育係」になすりつけるしかなかったのだ。
「お前は……お前は最初から俺たちを陥れるつもりだったんだろ!? ギルドマスターに頼まれて、俺たちの手柄を奪い、失敗させるために送られた刺客なんだろ!?」
「そんなこと、するわけないじゃないか! 俺はギルドマスターから『みんなを守れ』って言われて――」
「うるさいと言っている!!」
ルークの金切り声が響く。
「お前のような……戦術も理解できず、力任せに暴れて仲間を傷つける奴なんて、冒険者じゃない! ただの害悪だ! 人間の皮をかぶった災害だ!!」
ライアンも激痛に耐えながら、怨嗟の声を上げた。
「そうだ……っ! こいつのせいで……俺の足が……! クラリス……ルーク……こいつを……こいつを追い出せ……っ! こいつがいたら……俺たち全員……殺されるぞ……っ!」
クラリスも、血に濡れた手でエレノアを抱きしめながら、怯えきった瞳で俺を見上げた。
「お願いです……イリスさん……もう……どこかへ行ってください……! 私たちの前に……姿を現さないで……っ!」
『姿を現さないで』。
聖女と呼ばれた少女の、真心のこもった拒絶。
俺はその言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷たく冷え切っていくのを感じた。
彼らの瞳の中にあったのは、俺に対する感謝でも、信頼でもなかった。
(俺は……ここにいてはいけないんだ……)
俺は静かに察した。
どれだけ言葉を重ねても、彼らには届かない。
自分が「良かれ」と思って差し出す力は、
彼らにとっては命を脅かす暴力でしかないのだから。
俺は小さく息を吐き、静かに頭を下げた。
「……………」
「二度と面を見せるな! 帰ったらギルドマスターに報告して、お前のライセンスを永久剥奪させてやるからな!!」
ルークの罵声を背中に受けながら、
俺は一人、静かに暗闇の奥へと足を進めた。
◇
俺は地下五層の薄暗い通路を、あてもなく歩いていた。
足音すら立てず、静かに、ただ淡々と。
(……失敗しちゃったな)
俺は自分の胸に手を当てた。
痛みはない。疲労もない。だが、胸の奥がどこか重く、空っぽな感覚が広がっていた。
エレナやギルバードさんは「外の世界に行って、いろんな人とお話ししてくるといい」と言ってくれた。
だが、外の世界の人間たちは、俺の思うようには動いてくれなかった。
彼らは俺よりも遥かに小さく、遥かに弱く、そして複雑なプライドや恐怖を抱えて生きていた。
(俺の手は……人を助けるのには、大きすぎるのかな)
俺は自分の両手を見つめた。
力を込めれば、山を砕き、地表を割ることができる。
だが、その力で傷ついた少女の腕を繋ぎ止めることはできない。細やかな魔法を唱えることもできない。
「助ける」ということは、ただ敵を叩き潰せばいいという単純な話ではなかった。
俺は通路の壁に背を預け、ゆっくりと腰を下ろした。
(みんなは……ちゃんと帰れるだろうか?)
いくら拒絶されたとはいえ、俺は彼らの身を案じていた。
エレノアの腕の傷、ライアンの足の怪我、そして全体の重度な魔力枯渇。
この深遠な地下宮殿の五層から地上へ戻るには、数々の罠と魔物の徘徊するエリアを再び突破しなければならない。
だが、俺が戻れば、彼らはパニックを起こしてさらに酷い怪我をするかもしれない。
(俺にできるのは……ここから出ずに、静かにしていることくらいか)
リュックから、ギルバードさんに持たされた干し肉を小さく引きちぎり、口に運んだ。
味はよく分からない。
「……静かだな」
暗闇の中、古代の魔導灯が微かに明滅する音だけが響いている。
俺は一人、静かに膝を抱えた。
世界から切り離されたような孤立感。
だが、それもまた、自分という「異常者」が受け入れなければならない現実なのかもしれないと、俺はどこか諦めにも似た穏やかさで受け入れていた。
一方――。
俺を追い出した大広間では、残された『暁の光』の面々が、地獄のような状況に直面していた。




