3
その週末、私はメレンゲクッキーを作った。
私が唯一美味しく作れるお菓子。
卵白をガーっとハンドミキサーで泡立てて、白くもったりしたら、お菓子用の粉になってる砂糖を混ぜて、絞り袋にいれて、天板にちょっとずつ絞って、温めたオーブンで焼くだけ。
味もちゃんと美味しい。
問題は。
「…………なんかお麩みたい。」
焼き上がったそれは、見本写真とはだいぶ違う形をしていた。
味噌汁に入れる前のお麩のよう。とてもおしゃれなスイーツには見えない。
翌日、私はそれをすこしでもましに見えそうな小花の印刷された小さめの袋に詰めて学校へ持っていった。
「はい」
放課後の資料室で鞄から取り出して渡すと、久世くんが受け取らないまま袋を見た。
「なにこれ」
「お礼だから受け取ってよ」
ここでやっと久世くんはハッとして袋を受け取ってくれる。
「何の?」
「耳かき」
「別にいいって言ったのに」
「自分のおやつ用に作ったやつ。唯一美味しく作れるやつだから。」
久世くんが一個取り出した。
「……お麩?」
「メレンゲクッキー!!」
「へえー、お麩とよく似てるお菓子なんだね。」
「見た目はちょっと失敗したの!」
「そうなんだ。初めて食べるな。」
そう言いながら久世くんは、袋を開けるとぱく、と口に入れる。
さくさくさく。
久世くんが黙って噛んでいる。
私は妙に緊張した。
「……どう?」
「美味しいね」
「よかったー!」
「見た目から想像したより甘かった。」
「お麩じゃないってば。」
久世くんが笑った。
また、ほんの少しだけ。
十一月になると、部室は寒くなった。
だから今度は膝掛けを持ってきた。
「…………」
久世くんがそれを見る。
「なに」
「また準備万端だなと思って」
「だって寒いんだもん」
「寒かった?エアコンないからな。」
「普通にしてれば寒くないけど寝落ちするから私。」
「堂々と寝る準備だね。」
私は膝掛けを身体にかけ、いつものタオルを久世くんの膝に敷く。
横になる。
「お願いします」
「はいはい」
久世くんの指が耳に触れた。
「今日、ちょっと乾燥してる」
「耳が?」
「うん。ここ」
綿棒でそっと触れられる。
「乾燥して張り付いてるとこある。無理に取らない方がいいかな」
「えー」
「取ってほしいの?」
「取ってほしい」
「じゃあ今度、オイルと綿棒持ってきてもいい?」
「そんな本格的なの?」
「ふやかした方が痛くないから」
「お願いします、先生」
「先生じゃない」
「耳かき先生」
「嫌だ」
「久世先生」
「やめて」
かり、かり。
静かな音。
外では風が吹いている。
私は膝掛けを顎まで引き上げた。
あったかい。
「ねえ」
「ん」
久世くんの指が、私の耳たぶに触れた。
「ここ、ふにふにしていい?」
「なにそれ」
「妹に耳かきしてたとき、最後によくやってた」
親指と人差し指で、耳たぶを軽くつままれる。
ふに。
ふに、ふに。
「…………」
「嫌?」
「いや」
「じゃあやる」
「……なんか眠くなる」
「もう眠いでしょ」
「まだ寝ない」
ふに。
「……絶対寝ない」
ふに、ふに。
「今日こそ最後まで……」
「うん」
「起きて……」
「うん」
「…………」
意識が沈んだ。
目を覚ます。
窓の外はもう薄暗い。
「…………また寝た」
「うん」
久世くんはいつものように本を読んでいた。
私は膝掛けに包まれたまま、久世くんの膝から顔を上げる。
「……何分?」
「今日は五十分」
「最長記録更新した?」
「たぶん」
「ごめん」
「別に」
久世くんがページをめくった。
「寒くなかった?」
「大丈夫」
「重かった?」
「ちょっと」
「本当に起こしていいよ〜、もう寝落ちは諦めたけど、起こされるのは嫌じゃないから。」
「本読んでたし」
またそれだ。
私は起き上がって、膝掛けを畳んだ。
それから数日後。
放課後の部室に行くと、久世くんが机の上に小さなものを置いた。
「これ」
「なに?」
「妹がいらないって言ってたから」
猫のメモ帳だった。
薄茶色の虎っぽい猫が、眠そうな顔でページの隅から顔を出している。
「なにこれ!かわいい!」
「ならあげる」
私は受け取ってから、ふと久世くんを見た。
「え?くれるの?」
「うん」
「ありがとう」
猫が好きだと言ったのは、何週間か前。
たった一度だけ。
なんかちょっと顔が熱い気がする。気のせい。気のせいだから。
久世くんはもう、いつもの耳かきケースを取り出していた。
「もうはじめる?」
「よろしくお願いします!」
いつものタオルを敷く。
膝掛けをかける。
久世くんの膝に頭を置く。
髪の毛を耳に挟むのを忘れてたら、久世くんの指が耳の線に沿って撫でるように髪の毛をかけてくれた。
なんかちょっとドキっとした。
そんな私の戸惑いを我関せずな久世くんは、マイペースにリュックをゴソゴソやって
「今日はオイル持ってきた」
とジッパーの袋に入れた赤ちゃん用のベビーオイルと綿棒を取り出した
「本当に持ってきたの?」
「言ったじゃん」
「久世様、神様。」
「耳見せて」
「はい」
目を閉じる。
耳元でかちゃかちゃとポンプを押す音がする。
あーワクワクが止まらない。
「それ持ったままでいいの?」
「え?」
「メモ帳」
私はもらった猫メモ帳を胸に抱くように持ったまま寝転んでいたことに今更気づいた。
「久世くん」
「ん?」
「これありがとう。気に入ったからもう少し持ったままにする。」
少し間があった。
「……どういたしまして」
綿棒が、そっと耳に触れた。
「この前の奥の取れなかったやつ、まだある」
「例の張り付いてるやつ?」
「うん。無理に剥がすと痛そうだったし」
「覚えてたんだ」
「そりゃ覚えてるよ」
机の上に並べられた、オイル、綿棒、耳かき棒、ティッシュ、今日はふわふわの梵天もある。明らかに初回より充実していている。
「……久世くん」
「ん?」
「耳かき楽しい?」
「楽しいよ」
即答だった。
「俺、耳掃除好きだって最初に言ったじゃん」
「そうだけど、楽しそうで、嬉しいです。」
あまりにも私ばかり気持ちいいばかりで、ちゃんと久世くんにも何かしら供給できているか不安になる。
「お願いします」
「はい」
頭を預ける。
もうこの体勢にも、すっかり慣れた。
最初は、男の子の膝に頭を乗せているというだけで身体が固まっていたのに。
今ではむしろ、この位置に頭が収まるとほっとする。
気持ちよくなって深呼吸したら、ついゆるゆるになった頭の中が口からこぼれ落ちる
「はあぁ、いい匂い。」
「何が?」
「うそ、口にでてた。」
私は諦めて、そのまま説明する。
最近久世くんに対する羞恥のハードルが異常なまでに低い。
「実はずっと思ってたんだけど久世くんの膝って、なんかいい匂いする。」
指が止まった。
「…………膝?」
「あ、違う! 膝そのものを嗅いでるわけじゃなくて!」
「うん」
「最初に頭乗せたときから思ってたんだけど、なんか……干してて取り込んだあとの布団みたいな匂い」
久世くんは少し考えた。
「うち、お母さんが香り系の洗剤苦手だから、あんまり匂いしないと思うんだけど」
「そうなんだ」
「その布団の匂い、嫌?」
「ううん!」
思ったより大きな声が出た。
「私も香り系の洗剤、ちょっと苦手だから。なんか、その……この匂い好きで」
そこまで言ってから、ただクラスメイトにする発言としてはかなり飛び越えたものだという事にやっと思い至った。
「……あ! ごめん! 気持ち悪い!? わざと嗅いでるわけじゃなくて! ここにいると普通にするから!」
久世くんの耳かきの手が一瞬止まった。変な汗出る。どうしよう。
「気持ち悪くないよ。臭くないならいい。」
「臭くない。全然」
「じゃ、いいよ」
カリ、カリリ、
いつもの低温な感じの声と、耳を擦る音が再開する。
それだけ。
私は猛烈に恥ずかしくなって目を閉じて黙る。
「じゃ、オイルつけるね。」
ほんの少しオイルがついた綿棒が耳の中に触れて、ヒヤッとする。
「冷たい?」
「ちょっとだけ」
耳の内側に触れる。
いつもの乾いた綿棒とは違った。
しっとりした先端が、耳の内側をゆっくり滑る。
ペトリ、ペトリ、
「……あー」
「気持ちいい?」
「うん。なんかいつもと違う」
「ちょっとぺたぺたするでしょ」
「する」
耳の中を、柔らかいものがゆっくり撫でていく。
ぺた。
くる。
す、と離れる。
それからまた、
ぺた。
くる、くる。
乾いた耳かきの、かりかりとした刺激とは違う。
柔らかくて。
少し湿っていて。
耳の中の皮膚を直接撫でられているみたいだった。
「…………これは、これで、いいね」
「オイル?」
「うん」
「じゃあ、たまにやる?」
「やる」
即答すると、久世くんが少し笑った。
「まだ耳かきしてないけど」
「もう満足しかけてる」
「早いよ」
耳の中で綿棒が止まった。
「ここ前取れなかったとこ」
「ある?」
「ある。ちょっとふやかすね」
そこだけ、何度か優しく押さえられる。
ぺた。
ぺた。
「……取らないの?」
「ちょっと待つ」
「はい」
私は目を閉じたまま待った。
久世くんの膝の匂い。
久世くんの低温な声と静かな息づかい
耳の中に残る、ほんの少しのオイルの感触。
眠い。
「じゃ、取ってみる」
耳かきに持ち替える音がした。
「痛かったらすぐ言って」
「うん」
耳かきの先が入ってくる。
今日は少しだけ音が違った。
かり、ではなく。
こそ。
……こそ。
ふやけたところを、そっと端から持ち上げている感じ。
「痛くない?」
「全然」
「じゃ、もうちょっと」
こそ。
少しだけ、引っ張られる。
「……あ」
久世くんが小さく言った。
「なに?」
「取れそう」
「ほんと?」
「動かないで」
私は息まで止めた。
こそ。
す。
「取れた」
「おお……!」
「見る?」
「見る!」
起き上がろうとしたら、額を軽く押さえられた。
「いきなり動かない」
「あ、ごめん」
耳かきの先を見せてもらう。
「うわー!すぐ捨ててください。」
「すぐそれ言うね。さっきまで本多さんの一部だったのに」
『本多さんの一部ってやめてよー」
久世くんが少し笑った。
「もう一回見たい?」
「もういい!」
「じゃ、仕上げ」
「まだあるの?」
「今日はある」
耳かきがケースに戻される。
代わりに、ふわふわした白いものが視界の端に見えた。
「梵天?」
「うん」
「憧れてたー!」
「なら良かった。俺も初めて。妹昔から絶対それくすぐったいってやらせてくれなかったから」
「2人とも初めてだね」
「2人で初めてやってみよう」
耳元に、ふわ、とした感触。
「…………!」
思わず肩が上がった。
「くすぐったい?」
「気持ちいい!」
梵天が、耳の入口を柔らかく撫でる。
わさ。
わさわさ。
「うわ……」
「くすぐったい?」
「いや、いがいとそうでもない。けど、なんだろう。耳にケサランパサランが入っちゃったみたいな」
「何それ」
「たぶん毛玉のUMAみたいな。わたしもよく知らん。」
わさ、わさ。
細かい毛先が触れるたび、ぞわぞわする。
でも嫌じゃない。
むしろ。
「……眠い」
「やっぱり」
「今日こそ寝ないつもりだったのに」
「毎回言ってる」
梵天が離れた。
それから久世くんの指が、耳たぶをつまむ。
ふに。
ふに、ふに。
「…………」
「これもやる?」
「やる……」
「もう寝そうじゃん」
「起きてる……」
「はいはい」
声が遠くなる。
ふに。
ふに。
ああ。
やっぱり好きだな。
そう思ったところで、意識が途切れた。
どのくらい眠ったんだろう。
ぼんやりと意識が浮かんだ。
でもまだ、目を開けるほどではない。
身体が温かい。
頬の下にはタオルと、久世くんの膝。
今日は本をめくる音がしない。
代わりに。
髪が、ほんの少し動いた。
……?
頭の近くに、何かの気配がある。
そして。
私の髪に、ほんの微かに。
久世くんの鼻先が触れた気がする。
体温が近くて、小さく息を吸う気配。
「…………」
目を開けた。
すぐ近くに久世くんの顔があった。
「あ」
久世くんが真顔のまま離れる。
私はまだ眠い頭で久世くんを見る。
不思議と、嫌ではなかった。
普通なら。
寝ている間に異性から髪の匂いを嗅がれていたら、もっと驚くと思う。
「何してたの?」
寝起きの声で聞いた。
「本多さんの髪の匂い嗅いでた。」
「え?なんで?」
久世くんは黙ったまま、一瞬だけなんとも言えない複雑な表情をした。
罰が悪そうな、イラついてそうな、でもちょっと恥ずかしそうな。
でもすぐスンってなる。
いつもの細い目で私を見下ろす。
それから。
「俺も」
「ん?」
「初めて膝に頭乗ったときから、いい匂いだなって思ってたから」
「…………」
「確認した」
「確認」
「うん」
久世くんは、まるで耳の中を確認したときと同じくらい普通の声で言った。
「やっぱり好きな匂い」
「…………」
今度は。
眠気が、一瞬で消えた。
「…………そっか」
それしか言えなかった。
久世くんも、それ以上何も言わなかった。
「帰ろっか。」
「うん。」
駅までの帰り道は一緒に歩いていたけどお互いほとんど話さなかった。
駅に着いて、お互いのホームに行く前に立ち止まる。
「……久世くん」
「なに?」
「来週もオイルやって」
「毎週はやらないよ」
「えー」
「耳の状態見てから」
「じゃあ梵天」
「それはいいよ」
「ふにふにも」
「はいはい」
いつもの久世くんだった。
私は向かい合った久世くんに一歩近づいて、目の前の久世くんのシャツに顔を近づけて、少しだけ深く息を吸った。
『…今、また嗅いだ?』
頭の上から声がした。
久世くんは男子の中では背は高い方じゃないけど、女子の中でも小柄な私よりは頭半分くらい高い。
「嗅いでない」
「嗅いだでしょ」
久世くんの手が軽い力で私の首の後ろを掴んで自分の方に引き寄せた。
私はよろけて頭ごと久世くんの顔に突っ込んだ。一瞬頭の上に何か柔らかい物が触れて、スンと息を吸う音がした。
「バイバイ」
体勢を戻して見上げた時にはもう久世くんは背中を向けて歩いていて、私はしばらく呆然とその背中を見つめていた。




