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掴み屋ハル ―手のひらひとつの、生存戦線―  作者: SG


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80/80

第80話「二人分の秤、それからの朝」

石畳を踏む音が、いつもの朝と同じ調子で戻ってきていた。


行商の荷車が軋み、パン屋の焼ける匂いが漂い、子供が駆けていく。数日前まで足の裏から突き上げてきた脈動が嘘のように、街はただの街に戻っている。ハルはその当たり前の音を、しばらく黙って聞いていた。


「――コルドーは、中央預かりになったってよ」


ライグが物置の戸口で言った。誰から聞いた話かは相変わらず濁したままだったが、声に嘘の色はなかった。「理事の椅子は剥奪。……ただ、裁かれるっつうより、量られる側に回っただけ、って言い方をする奴もいる」


「それが正しい量り方かどうかは知らねえけどな」ハルは低く呟いた。それから、もう一度呟いた。「……終わりました、いえ、まだでしょうね、か」コルドーが最後に残した一言の意味は、今も分からない。分からないままでいいと、そう思うことにした。


「掴み屋のハルだ」


「そうだ、灰塚を沈めたっていう」


窓の外を通り過ぎる声が、また聞こえた。かつては雑用係を一括りにする蔑称だった呼び名が、今は誰の口からもハル個人を指す名として発せられる。皮肉なことに、ようやくそれが誰かを見下すための言葉ではなくなった時、ハル自身の右手はもう握ることすらできなくなっていた。


「――リードは」


「まだ本調子じゃねえが、動けるようになった」ミラが答えた。「あいつ、師匠の記録を一から掘り起こすってさ。誰にも消させねえ、ってな」


物置の隅で、オルグは天秤の石を布に包んでいた。皺だらけの手が、迷いなくその作業を続けている。


「……そういや」オルグはふと手を止め、独り言のように呟いた。「リードの兄ちゃんが熱にうなされてた時、儂の連れと似たようなことを口走っておったわい。『あの人を選ぶべきだった』とな。……儂の連れも、消える前に、同じような言葉を残した。誰のことかまでは分からんが――たぶん、儂と同じ側の人間のことじゃろうよ」


「じいさん、それどうすんだよ」ハルは聞いた。


「灰塚に、還す」オルグは顔を上げずに言った。「儂の連れも、こいつを持ったまま逝ってしもうた。……ここに置いといたら、また誰かが同じ道を辿るじゃろう」


「――一人で行くのかよ」


「一人でいい」老人はようやく顔を上げ、皺の中の目だけが妙にはっきりしていた。「儂はもう潜らんが、見送るくらいはできる。それに」


言葉を切り、オルグはハルの垂れた右手を一瞥した。


「その手のことは、儂には分からんままじゃ。……分からんままでいいことも、あるんじゃろうよ」


「――言いにくいこと、ありがとよ、じいさん」ハルは低く言った。声が思いのほか掠れた。


戸口に、しゃがれた声が短く落ちた。


「――送ってやる。それくらいは付き合ってやるよ」


監視者だった。オルグは一瞬だけ驚いた顔をして、それから小さく笑った。老人と黒装束の男が連れ立って表へ出ていくのを、ハルとミラは見送った。


「――さて、と」ミラが伸びをした。「あたしらは、これからどうすんだよ」


「知るかよ」ハルは短く答えた。「稼業は稼業だ。飯を食って、寝床を確保する。それだけは変わらねえ」


「二人分でも一つの秤にはなる、だろ」ミラが笑った。


物置を出て、瓦礫の残る通りを歩いていると、路地の暗がりにフードの人影があった。


「掴み屋」


抑揚のない声だった。ハルは足を止めた。


「まだ何か用か」


「これで最後だ」フードの人物は言った。「かつて、似た者を消したのも、あの男だ。――ギルド中央の、先代の監査官もな」一拍、間があった。「量る側にいた者の末路など、大方似たようなものだ」


それだけで、素性の全ては明かされなかった。だが、ハルには十分だった。この観察者もまた、かつて誰かに量られ、名も居場所も奪われた側の生き残りなのだと、それだけは分かった。先代監査官の名を口にしたということは――リードの師の消えた顛末を、この観察者もどこかで見ていたということだ。


「――掴み屋、と呼ばれていた頃のお前を、ずっと見ていた」


フードの人物はそう言い残すと、振り返らずに路地の奥へ消えた。追う気にはならなかった。追ったところで、その先に何があるのか、ハル自身がもう知りたいとは思わなかった。


「……変な奴」ミラが呟いた。「けど、悪い奴じゃなかったんだろうな、多分」


「知るかよ」


二人は並んで歩き出した。通りの先、瓦礫の向こうに灰塚の輪郭が霞んで見える。今はもう脈打ってはいない。ただの、古い迷宮の姿に戻っていた。


「なあ」ミラが横目でハルを見た。「その手、このままかもしれねえけど」


「かもな」


「それでも、稼いでいくんだろ」


ハルは垂れた右手を一度見下ろし、それから隣のミラを見た。


「二人分の重さだ。秤には十分だろうが」


ミラが噴き出すように笑った。「大したもんじゃねえか、掴み屋の坊や」


灰塚を見上げたまま、二人はしばらくそこに立っていた。街の喧騒が、いつもと変わらず二人を通り過ぎていく。蔑称だった名前は、もう誰にも取り上げられることのない、二人分の重さを持つ名前になっていた。


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