瓦礫の中の泥仕合
瓦礫に背中を叩きつけられた瞬間、頭の中で何かが白く弾けた。
――ああ、これは折れたな。肋骨か、それとも運がよくて罅程度か。
考えている場合じゃない。分かってはいるが、体より先に頭が勝手に損得勘定を始めるのは、もう長年の癖だった。
「……上等だ」
血の味のする唾を吐き捨てて、ハルは崩れた瓦礫の隙間から這い出す。目の前には、本来の骨格を無視したように節々が多すぎる四本の脚と、牛よりも一回り大きい図体、そして人の頭ひとつ丸ごと収まりそうな顎を持った獣がいた。大異変がこの世界に置いていった土産のひとつだ。名前などない。ただ喰う。
迷宮の外れ、都市が見捨てた瓦礫地帯。誰も助けには来ない。逃げれば今日の飯代はゼロ、それどころか明日の命もない。勝っても実入りは雀の涙。分かりきった算段だった。
「腹一杯より安い命はねえよなあ、そっちはどうだ」
軽口は獣には届かない。届かせるつもりもない。ただの強がりだ。恐怖で竦む足に、無理やり言葉で芯を入れているだけだった。
獣が突っ込んでくる。ハルは右手を自分の太腿に押し当てた。
――掴む。軽くする。
瞬間、体が羽根のように軽くなる。牙が空を切り、ハルはその横をすり抜けるようにして懐へ飛び込んだ。だが、このままでは駄目だ。軽い拳など、羽根で殴るのと変わらない。質量のない一撃は、ただ触れるだけで終わる。
飛び込みながら、右手を今度は自分の拳に叩きつけるように押し当てる。
――戻せ。今すぐ、重く。
軽さが消え、鉛のような重みが拳に戻る。ほんの一瞬、コンマ何秒かの切り替え。それが全てだった。
拳が獣の横っ腹にめり込む。骨の軋む音と、獣の悲鳮じみた咆哮。だが致命傷には遠い。図体がでかい分、こんな一撃くらい耐えてしまう。しかも――
「っ、があ……!」
暴れる獣の脚が振り抜かれ、ハルの脇腹を掠めた。息が詰まり、意識が一瞬揺らぐ。掴んでいた自分の拳から、ふっと重力の制御が抜け落ちるのが分かった。当然だ。殴られて気を取られれば、それだけで終わる程度の代物なのだ、この力は。
右手の甲から前腕にかけて、焼けるような痺れが走っていた。もう二度、三度と同じ切り替えを使えば、この手は今夜のうちに握力すら失う。
「……知るかよ、こっちだって後がねえんだ」
歯を食いしばり、もう一度距離を詰める。今度は獣の前脚に直接触れた。触れた瞬間に軽くする――抵抗される。生物相手、しかも格上に近いこいつには、効きが浅い。案の定、脚は完全には浮かず、半端に軽くなっただけで獣が体勢を崩す程度に留まった。
だが、それで十分だった。均衡を崩した獣の首筋に、ハルは軽くした体のまま飛びつき、触れる寸前で重さを叩き戻す。
全体重よりなお重い一撃が、喉元に落ちる。
骨が潰れる感触が、掌越しに伝わってきた。
獣は一声も上げずに痙攣し、やがて瓦礫の上に崩れ落ちた。
「はっ……上等だ、こっちの勝ちだよ」
言った傍から膝が笑った。ハルはその場に尻をつき、荒い息を吐く。右手はもう指を握り込むのもやっとで、腕全体がじんじんと痺れて熱を持っている。今夜はこの手、使い物にならないだろう。
もらった分だけでも回収しようと、獣の死骸に近づいて牙や甲殻を検分する。だが、割れている。潰れている。使えそうな部位のほとんどが、自分自身の全力の一撃で駄目になっていた。
「……勝っても負けても飯抜きかよ、笑えねえな」
乾いた笑いが漏れる。稼ぎにもならない勝利。それでも死んで骨になるよりはマシだと、そう自分に言い聞かせるしかない。
痺れた右手を庇いながら立ち上がろうとした、そのときだった。
瓦礫の向こうから、乾いた足音がひとつ、またひとつと近づいてくる。獣のものではない。もっと軽く、もっと確かな――人間の歩き方だ。
握力すら怪しい右手で、ハルは無意識に身構えた。
冗談じゃない。今日はもう十分すぎるほど、割に合わない。




