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第九話 潮風の町で、家は倒れない

潮見町は、海へ下る街道の途中にある小さな宿場だった。


 王都から港へ向かう商人、ローデン領へ入る旅人、漁に出る前の男たち、灰鴎城へ野菜や干し魚を運ぶ人々。大きな町ではないが、人の流れがある。家々は低く、屋根は潮風に耐えるために重く作られていた。


 けれど、町へ近づくにつれ、馬車の中の空気が重くなった。


 窓から見える家の何軒かが、妙に傾いている。


 古びているのではない。外から押されたわけでもない。家そのものが、自分の立ち方を忘れかけているような傾きだった。


 アルクが馬車の後ろで低く鳴る。


 ニルは窓に張りついていた。


「あの宿です。叔母さんの」


 彼が指したのは、町の中央にある二階建ての宿だった。看板には白い波の絵が描かれている。だが、その看板が斜めに下がり、入口の扉は半分だけ開いたまま固まっていた。


 馬車が止まる前に、ニルが立ち上がりかける。


「約束」


 私が言うと、彼はぎゅっと拳を握って座り直した。


「……はい」


 カイル様が先に降り、町の人々へ声をかける。辺境伯の姿を見て、ざわめきが広がった。エドヴィン卿たち近衛も降りたが、王家の騎士であることを前面に出さず、馬車の脇に控えている。


 私はアルクと一緒に宿の前へ進んだ。


 入口の扉に手を当てた瞬間、指先から力が抜けそうになった。


 冷たいのではない。


 軽い。


 家の記憶が、薄くなっている。


「これは……」


 王城の地図に出ていた黒い点と同じだ。


 宿の中から、女性の声がした。


「ニル? ニルなの?」


 ニルが馬車の中で身を乗り出す。


「叔母さん!」


 扉の隙間から出てきたのは、三十代くらいの女性だった。目元がニルに似ている。彼女はニルを見ると泣きそうな顔になったが、カイル様が手で制した。


「入ってよいか」


「旦那様、どうぞ。でも、二階には上がらないでください。床が急に抜けます」


 宿の中は、掃除されているのに荒れて見えた。


 椅子が倒れ、壁の絵が傾き、階段の三段目が半分消えたように薄くなっている。宿泊客はすでに外へ出されたらしく、一階には宿の主人夫婦と、ニルの叔母のミラさんだけがいた。


「いつからですか」


 私が尋ねると、ミラさんは両手を握りしめた。


「昨日の昼すぎです。王都から来た細い男が泊まって、二階の奥の部屋を使いました。その人が出ていったあとから、部屋の床が変になって」


「細い男?」


「黒い杖を持っていました。宿代は多めに置いていったけど、目を合わせると、何だか寒くて」


 アルクが強く鳴った。


 私が昨夜見た影だ。


 王城の床を消した男。


 カイル様の顔が険しくなる。


「名乗ったか」


「ヴィクター、とだけ。王都の石工だと言っていました」


 エドヴィン卿が低く言った。


「ヴィクター・カンドルフ。王城の補修を任されている石守長です」


 王城を直すはずの人が、王城を傷つけている。


 私は階段を見上げた。


 二階の奥から、何かがこちらを見ている気配がする。人ではない。部屋でもない。部屋の形をした空白だ。


「二階へ行きます」


「危険だ」


 カイル様が言う。


「行かないと、宿が自分を忘れます」


「私も行く」


「床が抜けます」


「あなた一人よりはましだ」


 その言い方に、胸が少し痛くなった。


 心配されることに慣れていないせいだろう。私はすぐに、大丈夫です、と言いたくなる。けれど、ここで大丈夫と言えば、また一人で背負うことになる。


「では、私の足元だけ見てください。冷たいところは踏まないで」


「分かった」


 アルクも一緒に来ようとしたが、階段の幅が足りなかった。すると、アルクはまた小さくなり、腰ほどの門になって私の後ろへついてくる。


 エドヴィン卿がそれを見て、額に手を当てた。


「王城の正門とは、こんなに器用だったのか」


「王城は見栄っ張りなので、人前ではあまり見せません」


「なるほど」


 納得していいのか分からない顔だった。


 二階へ上がると、空気が薄くなった。


 奥の部屋の扉は開いている。中には何もない。寝台も机も椅子も、あるはずなのに、見た瞬間に忘れてしまうような曖昧な形をしていた。


 私は扉の前で止まった。


「入らないでください」


 カイル様が私の隣で足を止める。


 部屋の中央に、黒い粉が円を描いていた。円の中には、宿の木片や壁土が少しずつ集められている。まるで、この宿の一部を食べて、別の何かの種にしているようだった。


 私は布を取り出し、手に巻く。


「リネア」


 初めて、カイル様が私の名だけを呼んだ。


 私は振り返る。


「危ないなら、やめろ」


「やめたら、この宿がなくなります」


「あなたがなくなる方が困る」


 言葉が、まっすぐ胸に当たった。


 私は少しだけ笑った。


「では、なくならないように手伝ってください」


「ああ」


 私は部屋の柱へ手を当てた。


 軽い。


 宿が、自分が宿であることを忘れかけている。誰が泊まり、誰が笑い、どの雨の日に屋根が鳴ったのか。そういう小さな記憶が、黒い粉に削られている。


「思い出して」


 私は声を低くした。


「昨日の夕食の匂い。濡れた靴を乾かした暖炉。ニルが小さいころ、階段で転んだこと。ミラさんが初めてここで働いた日。宿の主人が看板をかけた朝」


 下の階で、ミラさんが息をのむ気配がした。


 宿の柱が、震える。


 黒い円がゆっくり崩れ始めた。


 カイル様が私の肩を支える。足元の床が薄くなっているのに、彼は動かなかった。


「もう少し」


 私は柱に額を寄せる。


「あなたは、通り過ぎる人を休ませる家です。誰かが帰る場所へ向かう途中、少しだけ帰る場所になる家です。だから、消えないで」


 床が、強く鳴った。


 黒い粉が弾ける。


 アルクが門を開いた。門の向こうに、灰鴎城の暖炉の火が一瞬だけ見える。火の匂いが流れ込み、黒い粉を押し返した。


 部屋の輪郭が戻る。


 寝台、机、椅子、窓。


 そして、窓辺に置かれていた小さな木馬。


 ミラさんが階段の下で泣き出した。


「それ、ニルが昔なくしたって……」


 ニルは馬車にいるはずなのに、外から大声で叫んだ。


「本当にあったの!?」


 宿の中に、久しぶりの笑い声が広がった。


 黒い粉は完全には消えていなかった。布に包んで集めた小さな塊が、まだかすかに震えている。


 私はそれを見つめる。


 ヴィクター・カンドルフ。


 王城を直すはずの石守長が、宿場の小さな家まで削っている。


 これは王城だけの問題ではない。


 誰かが、建物の記憶を集めている。

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