第八話 王太子からの迎え
潮見町へ出発する朝、王都から二度目の迎えが来た。
今度は使者一人ではない。王家の紋章を掲げた馬車が二台と、護衛の騎士が六人。灰鴎城の前庭に並んだ姿は、昨日の使者よりずっと正式で、ずっと圧があった。
けれど、灰鴎城の正面扉は落ち着いていた。
昨日までなら客を前にして固く閉じたか、逆に意地を張って誰も通さなかっただろう。今朝の扉は、ゆっくり開いて、相手をよく見るように隙間を作った。
少し成長している。
私は扉の縁を撫でた。
「無理に歓迎しなくていいです。でも、話は聞きましょう」
扉が短く鳴る。
前庭へ出ると、騎士たちの先頭に見知った人物が立っていた。
王城の式典で何度か会ったことがある、近衛隊長のエドヴィン卿だ。四十代半ばの厳しい顔の男性で、王太子殿下の側近というより、王家全体に仕えている人だった。
彼は私を見ると、深く頭を下げた。
「リネア・ファルスター嬢。昨日の無礼な伝達について、近衛隊を代表してお詫びいたします」
私の背後で、アルクが小さく鳴った。
驚いたのだろう。
私も驚いた。
「エドヴィン卿が謝ることではありません」
「王家の紋を掲げて来た者の行いは、王家の責任です。少なくとも、そうでなければ近衛の紋に意味がない」
カイル様が隣に立つ。
「用件は」
「陛下の命により、リネア嬢に王城の調査を依頼したい。強制ではない。条件は、こちらで聞く」
昨日とはまったく違う言い方だった。
けれど、その丁寧さが逆に不穏でもある。王家が体裁を整え始めたということは、王城の中で起きていることが無視できない段階に入ったのだ。
「王太子殿下は、何と」
私が尋ねると、エドヴィン卿の表情がわずかに固くなった。
「殿下は、あなたが王城へ戻るべきだとお考えです」
「謝罪は?」
「まだ、ありません」
正直な答えだった。
私は息を吐く。
期待していなかったのに、少しだけ胸が重くなった。十年も婚約者だった人だ。せめて、言い過ぎた、くらいの言葉はあるかもしれないと、どこかで考えていたのかもしれない。
カイル様が私の横顔を見た。
「戻る必要はない」
「はい」
即答したら、エドヴィン卿が少しだけ眉を上げた。
私は前庭の石畳へ視線を落とし、それから顔を上げた。
「今日は、潮見町へ行きます。王城の傷と同じものが、町に出ています。王都へ戻るより先に、そこを見ます」
「潮見町に?」
「はい。王城の門扉が示しました」
エドヴィン卿の視線が、私の背後のアルクへ向かう。
アルクはいつもより少し大きくなっていた。昨日の鏡ほどの大きさから、今は人が一人くぐれそうな小門になっている。王家の騎士たちを前にして、見栄を張っているらしい。
「それは、王城の正門か」
「本人はアルクと呼んでほしいそうです」
騎士の一人が小さく咳き込んだ。
エドヴィン卿は表情を崩さなかった。
「アルク殿、とお呼びすればよいか」
アルクが満足げに鳴った。
近衛隊長は本当に強い人だと思う。
カイル様が短く言った。
「潮見へ同行するなら、王家の調査としてではなく、人手として働いてもらう」
「承知した」
「命令系統は」
「町での判断はローデン卿に従う。城の不調についてはリネア嬢に従う」
「よろしい」
カイル様とエドヴィン卿の会話は、短くて無駄がなかった。二人とも言葉数が少ないので、隣で聞いていると石同士がぶつかって形を確かめているように見える。
その場に、遅れてニルが駆けてきた。
「旦那様、ぼく、潮見へ」
「連れていかない」
予想通りの即答だった。
ニルの顔が曇る。
私は口を挟まず、ニルを見る。彼は唇を噛んだが、昨日より逃げなかった。
「叔母がいます。宿屋で働いてます。黒い点が町にあるなら、ぼくも知りたいです」
「危険だ」
「危ないことはしません。馬車から勝手に降りません。リネア様の言うことを聞きます」
「私の言うことも聞け」
「聞きます」
カイル様は黙った。
ニルは小さな手を握りしめている。怖いのは分かっている。それでも、心配な人のそばへ行きたいのだ。
私はカイル様の判断を待った。
やがて彼は、短く息を吐いた。
「馬車の中にいる。町に着いたら、私かリネア嬢の許可なく動かない。約束できるか」
「できます」
「破ったら、次から連れていかない」
「はい」
ニルの顔に、少しだけ光が戻る。
こういう小さな選択を認めてもらうことは、子どもにとってどれだけ大きいのだろう。王城で私は、十歳の時点で婚約者としての道を決められた。危ないから、ふさわしいから、家のためだから。理由はいくつもあったが、私がどう思うかは後回しだった。
カイル様は危ないと言った。
それでも、ニルの理由を聞いた。
その違いは、たぶん城にも伝わった。
灰鴎城の前庭の石が、いつもより温かい。
出発の準備が進む中、エドヴィン卿が私のそばへ来た。
「リネア嬢。殿下のことで、一つだけ申し上げておきたい」
「何でしょう」
「殿下は昨夜、寝室に入れず、廊下で夜を明かされました。侍従が毛布を届けようとしても、扉は侍従だけ通し、殿下を通さなかったそうです」
「王城らしいです」
「殿下は激怒された。しかし、今朝になって、初めて王城に向かって『なぜだ』と尋ねた」
私は少し黙った。
なぜだ。
その問いは、遅い。
けれど、何も問わないよりはましなのかもしれない。
「王城は答えましたか」
「分かりません。ただ、廊下の灯りが一つだけ消えたそうです」
私はアルクを見た。
アルクは静かだった。
王城はまだ、殿下に何を伝えればいいか迷っているのだろう。
馬車が動き出す。
灰鴎城の門を出るとき、城壁が低く鳴った。行ってらっしゃい、という音に聞こえた。
私は窓から城を振り返る。
灰色の古い城は、朝の海風の中に立っている。
昨日より少しだけ、背筋を伸ばして。
その姿を見て、胸の奥で静かに決めた。
王城も、灰鴎城も、潮見町の小さな宿も、誰かの都合で黙って壊されていいものではない。
私が戻るのは、王太子の婚約者としてではない。
家を守る者としてだ。




