第七話 小さな門の約束
その夜、私は灰鴎城で初めて自分の部屋を与えられた。
客間ではなく、東棟に近い小さな部屋だった。窓は海に向いていて、ベッドは少し古いけれど清潔な布がかけられている。壁には何も飾られていないが、暖炉には新しい薪が用意されていた。
「ここでよろしいでしょうか」
案内してくれた老執事のセルムさんが、少し心配そうに尋ねる。
彼は白髪の細い男性で、前の執事が辞めたあと、急に呼び戻されたらしい。腰は低いが、目はよく動く。城の不調で一番苦労してきた人の一人だろう。
「はい。とても落ち着きます」
「王都の客室と比べると、質素でございますが」
「質素な部屋は、息がしやすいです」
セルムさんは驚いたように私を見て、それから深く礼をした。
「では、何かございましたらお呼びください」
扉が閉まる。
私はしばらく、その扉を見ていた。
王城では、私の部屋は豪華だった。王太子の婚約者にふさわしい調度、季節ごとの花、磨かれた銀の鏡。けれど、扉の外にはいつも誰かの期待があった。正しくあれ、目立ちすぎるな、変なことを言うな、殿下を怒らせるな。
この部屋の扉の外には、海の音しかない。
それが、少し怖いくらい自由だった。
ベッドに腰掛けると、王城の門扉が部屋の隅で小さく鳴った。勝手についてきて、当然のように部屋へ収まっている。
「あなたも、ここで寝るの?」
門扉は答えない。
代わりに、鉄飾りの端を少し揺らした。
私は笑ってしまった。
「寝ないのね。見張りをするつもり?」
今度は蝶番が小さく鳴った。
王城の門扉は、どうやら私を守る気でいるらしい。
私が王城にいたころ、この門扉はいつも遠くにあった。祝宴で正門を通るとき、馬車で出入りするとき、石と鉄の大きな姿を見上げるだけだった。それが今は、ベッドの近くで小さくなっている。
少し変な友人を得たような気持ちだった。
「呼びにくいですね。王城の門扉、と言うと長いし」
鉄飾りが止まる。
「あ、嫌ならいいの。勝手に呼び名をつけるのも失礼ですものね」
門扉はしばらく黙っていた。
やがて、鉄の表面に細い弧が浮かぶ。王城の正門に刻まれていた古い意匠。弧、というより、通り抜けるための空間。
「アーチ?」
門扉が小さく鳴る。
「アルク、でいい?」
もう一度、鳴る。
今度は嬉しそうだった。
「では、アルク。よろしくお願いします」
私は門扉――アルクに礼をした。
名を与えたというより、向こうが教えてくれたのだと思う。人も建物も、こちらが決めつけると拗ねる。待っていると、ほんの少しだけ自分の輪郭を見せてくれる。
そのとき、部屋の扉が遠慮がちに叩かれた。
「リネア様。ニルです」
「どうぞ」
ニルは腕に毛布を抱えて入ってきた。昨日までの短い袖ではなく、仮に直した上着を着ている。まだ少し大きいが、手首は出ていない。
「マルタさんが、寒いと困るからって」
「ありがとう。助かります」
彼は毛布を椅子に置き、部屋の隅のアルクを見た。
「その門、呼び名がついたんですか」
「アルクです」
「アルク様?」
門扉が少し得意げに鳴る。
「様をつけると喜ぶようです」
「じゃあ、アルク様。あの、昨日は怖がってすみません」
ニルが真面目に頭を下げると、アルクは鉄飾りを小さく揺らした。謝罪を受け取ったらしい。
ニルはほっとした顔をしたが、すぐに表情を曇らせた。
「リネア様は、潮見町へ行くんですよね」
「はい。明日の朝に」
「ぼくも行けますか」
「危ないかもしれません」
「でも、潮見にはぼくの叔母がいます。宿屋で働いていて、冬になると灰鴎城へ野菜を届けてくれます。黒い点が町にあるなら、心配で」
私はすぐには答えなかった。
子どもを危ない場所へ連れていくべきではない。けれど、心配する権利まで奪うのも違う。王城で私は、危ないからと何度も遠ざけられた。遠ざけられた場所で、結局、誰かが私のことを勝手に決めていた。
「カイル様に相談しましょう」
「だめって言われますか」
「たぶん、最初は」
「最初は?」
「理由を聞いて、それでも危ないと判断したら、代わりにできることを考えてくれる方です」
ニルは少し考えた。
「旦那様は、怖いけど、ちゃんと聞いてくれます」
「はい」
「王太子殿下は、聞いてくれなかったんですか」
まっすぐな質問だった。
私は毛布の端を指で撫でる。
「聞いているように見える日もありました。でも、私の言葉が自分の望む形でなければ、聞かなかったことにしていたのだと思います」
「それは、聞いてないです」
「そうですね」
子どもの言葉は、ときどき大人より容赦がない。
けれど、その容赦のなさに救われることもある。
ニルが出ていったあと、私は毛布を膝にかけ、アルクの前に座った。
「王城では、あなたも聞いてもらえなかったの?」
アルクはすぐには返事をしなかった。
鉄の表面に、淡い線が浮かぶ。
王城の大広間。
王太子の寝室。
地下へ続く閉ざされた階段。
そして、その階段の入口に立つ細身の男の影。
顔は分からない。けれど、手に持っている細い杖の先だけが黒く塗られていた。
その杖が、王城の床へ触れる。
床の線が、すう、と消える。
消えた場所は、アルクの地図で見た黒い傷と同じだった。
「この人が、王城を傷つけているの?」
アルクが低く鳴る。
怖い、という音だった。
私は門扉に手を当てた。
「大丈夫。怖いなら、怖いと言っていいの」
鉄の冷たさが、少しだけ和らいだ。
私はそのまま、長いことアルクのそばに座っていた。
眠る直前、灰鴎城の壁が小さく鳴った。
まるで、ここにいる者は私が守る、と言っているようだった。
王城から来た小さな門と、北西の古い城。
二つの建物が、私の眠る部屋を挟んで静かに見張っている。
城にしか愛されない女だと笑われた。
でも、城に愛されることは、そんなに寂しいことではないのかもしれない。




