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第六話 泣く部屋には床板がない

潮見町へ向かう前に、灰鴎城の東棟を片づけることになった。


 床が抜けた子ども部屋を放置すれば、また誰かが怪我をする。黒い粉のことは急ぎだが、足元の穴を見ないふりをして遠くの危機へ走るのは、城に対して失礼だと私は思った。


 カイル様はすぐ職人を呼んだ。


 城下町から来た棟梁のトマさんは、腕の太い中年の男性で、部屋に入るなり床の穴を見下ろした。


「こいつは、よく落ちなかったな」


「少し支えてくれました」


「誰が?」


「床が」


 トマさんは私を見て、次にカイル様を見た。カイル様は真顔で頷く。


「床が支えた」


「……旦那様がそう言うなら、そうなんでしょうな」


 トマさんは納得したというより、納得しないことを諦めた顔をした。


 私はその顔が嫌いではなかった。何でもすぐ信じる人より、分からないまま手を動かす人の方が、壊れた場所には向いている。


 東棟の子ども部屋は、朝の光で見ると、昨夕よりはっきり傷んでいた。壁紙の鳥は色あせ、船の絵は半分剥がれている。窓枠には潮風が残した白い筋があり、床板は何枚も反っていた。


 けれど、部屋そのものは悪い部屋ではない。


 ここで眠った子どもは、海を見ただろう。波の音を聞きながら、壁紙の船がどこへ行くのか考えただろう。


 私は床のそばにしゃがんだ。


「昨日はありがとう。ニルを守ってくれて」


 床板が、かすかに鳴る。


 その音に、ニルが私の後ろで肩をすくめた。


「ぼくも、ありがとうございます」


 部屋の空気が少し柔らかくなった。


 トマさんが工具箱を置く。


「で、どこから剥がせば怒られないんです?」


「怒るというより、痛がります。先に、ここを外してください。釘が錆びているので、無理に引くと周りも割れます」


「へえ。釘まで分かるのかい」


「痛がり方が違います」


 トマさんは短く笑った。


「便利だな。いや、便利と言うと怒るか」


「怒りません。でも、便利だけではありません」


「分かった。じゃあ、助かる」


 助かる、という言い方がよかった。


 私は自分の力を、役に立つものとして扱われることに慣れている。役に立たなければ価値がないという目も、役に立つなら近くに置いておこうという態度も知っている。


 でも、助かる、は少し違う。


 相手の作業があって、そこへ私の力が加わる。私だけが背負うわけでも、私がいなければ全員が止まるわけでもない。


 トマさんたちは床板を外し始めた。


 私は板の声を聞き、残せるものと替えるものを選ぶ。ニルは剥がした釘を集め、マルタさんは昼のスープを運んできた。カイル様は城の北壁の補修状況を確認しながら、ときどき東棟へ戻ってくる。


 作業は思ったより穏やかに進んだ。


 けれど、床下から出てきたものを見て、皆が黙った。


 小さな木箱だった。


 海水で傷み、蓋の一部が黒ずんでいる。私は直接触れず、布を使って持ち上げた。箱の側面に、古い焼き印がある。


 王城の正門と同じ、弧を描く門の紋。


 王家の印ではない。


 もっと古い、家を守る者たちの印だ。


「これは?」


 カイル様が尋ねる。


「たぶん、家守(いえもり)の印です」


「家守?」


「建物の不調を聞き、火や水や扉の扱いを整える役目が、昔はあったと聞いています。今は、迷信として扱われていますが」


「あなたの家が、その家守なのか」


「祖母はそう言っていました。父は嫌がって、その話をほとんどしませんでした」


 私の実家、ファルスター伯爵家は、今では王都の端にある中堅貴族だ。けれど祖母は、家守の血筋だとよく言っていた。家は、人に仕えるものではなく、人と一緒に暮らすものだと。


 父はその話を嫌った。


 王城と話す娘など、王家に差し出すには都合がよくても、家名を飾るには不気味だったのだろう。


 箱を開けると、中には薄い石片が入っていた。


 手のひらほどの灰色の石で、真ん中に小さな穴がある。穴の周りには、黒い粉と似た痕がついていた。


 ただし、こちらはずっと古い。


 トマさんが顔をしかめる。


「床下にこんなものを入れたら、湿るに決まってる」


「湿らせるためだったのかもしれません」


「どういうことだい」


 私は石片を布の上に置いた。


「この部屋は、泣けなかったのだと思います」


 誰もすぐには笑わなかった。


 ありがたいことだった。


「建物は、水が多すぎると傷みます。でも、乾きすぎても割れます。人も同じです。悲しいことがあったのに泣けないと、内側で割れます」


 ニルが小さな声で言った。


「この部屋で、誰かが悲しかったんですか」


「たぶん」


 私は壁紙の小さな船を見た。


「この部屋で眠っていた子が、もう帰ってこなかったのかもしれません」


 灰鴎城の壁が、深く沈むように冷えた。


 カイル様の表情が変わる。


「先々代の時代、海賊との戦で、城に預けられていた子どもたちが港へ逃げる途中に流されたと記録がある。私は、詳しく読んだことがなかった」


 彼の声に、わずかな悔いが混じった。


「城は、その子たちを待っていたのでしょうか」


「待って、床を閉じて、誰も入れなくしたのかもしれない」


 私は壁に手を当てた。


 冷たい。


 けれど昨日とは違う。今は、冷たいことを知られても逃げない冷たさだった。


「もう隠さなくていいです。ここは、泣いてもよい部屋にしましょう」


 窓の外で、海鳥が鳴いた。


 トマさんは黙って帽子を取った。マルタさんは袖で目元を押さえ、ニルは木箱のそばにしゃがんだ。


 そのあと、作業は少し変わった。


 ただ床を直すのではなく、窓枠を磨き、壁紙の残せる部分を残し、小さな棚を直した。戻らない子どもたちのために部屋を封じるのではなく、戻ってきた誰かが休めるように整える。


 夕方、床に新しい板が入ると、部屋は初めて小さく息を吐いた。


 床板が軋む。


 それは痛みではなかった。


 泣き終わったあと、鼻をすするような音だった。


 私は窓辺に立ち、王城の門扉を見る。


 門扉の鉄飾りには、また地図が浮かんでいた。潮見町の黒点は、昨日より少し広がっている。


 灰鴎城の泣く部屋を直した手で、今度は知らない町へ向かわなければならない。


 カイル様が私の隣に立った。


「明日の朝、潮見へ行く」


「はい」


「今日、あなたは休め」


「でも」


「城も泣いた。あなたも疲れている」


 反論しようとして、私はやめた。


 窓硝子に映る自分の顔は、確かに少し青い。


「では、休みます。灰鴎城が眠ってくれるなら」


 壁が、ぽん、と軽く鳴った。


 まるで、先にあなたが寝なさい、と言われたようだった。

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