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第五話 灰鴎城の朝食

黒い粉を見つけてから、灰鴎城の朝は忙しくなった。


 カイル様は使者を追わせなかった。追っても、本人は何も知らない可能性が高い。それより城の中に同じものがないか確かめるべきだ、と短く言った。


 私はその判断に賛成した。


 王城の門扉が怖がっているものを、灰鴎城の中に入れたくない。


 まず、玄関広間、客間、厨房、東棟への廊下を順に見る。私は壁や床へ手を当て、冷たさの種類を確かめた。冬の冷たさ、湿り気の冷たさ、使われていない部屋の冷たさ。それぞれ違う。


 黒い粉が触れた場所は、それらと違った。


 熱も冷たさもない。


 そこだけ、建物の記憶が抜け落ちている。


「痛いのではなく、何も感じない場所です」


 私が説明すると、カイル様は壁の傷を見た。


「それは悪いのか」


「とても。痛い場所なら、まだ助けを求められます。何も感じない場所は、助けを求めることも忘れています」


 カイル様は黙って頷いた。


 理解したふりをしないところが、私は少し好きだった。分からないときは分からない顔をする。そのうえで、必要なら動いてくれる。


 調べていくと、客間の窓枠と、玄関扉の下にわずかな黒い粉があった。使者の靴についてきたのだろう。幸い、灰鴎城の奥までは入り込んでいない。


 私は濡らした布で粉を包み、暖炉の前で焼くことにした。


 マルタさんは眉を上げた。


「変なものを厨房で焼くのは嫌なんだけどね」


「ごもっともです」


「でも城が嫌がってるなら、外の火鉢でやりな。鍋に入れるんじゃないよ」


「はい」


 マルタさんは怖い顔をしているが、私が火鉢を運ぼうとすると、さっさと手伝ってくれた。怖い顔の親切は、受け取る側が少し迷う。けれど、迷っている間に仕事が終わるのでありがたい。


 黒い粉を火へ近づけると、かすかに嫌な音がした。


 虫の羽が擦れるような、小さな音。


 ニルが私の後ろに隠れる。


「それ、生きてるんですか」


「分かりません。でも、食べ物ではありません」


「それは分かります」


 火に触れた黒い粉は、煙にならなかった。逆に、火の色を薄くしようとする。火鉢の中で、炭が一瞬白く沈んだ。


 灰鴎城の窓が、ばたんと開く。


 冷たい海風が吹き込んだ。


 火は勢いを取り戻し、黒い粉はようやく小さく弾けて消えた。


「風をくれたのね。ありがとう」


 私が窓へ礼を言うと、窓は少し得意げに揺れた。


 カイル様が外套を私の肩にかける。


「風邪を引く」


「少しだけです」


「少しずつ冷えるのが悪い」


 また正論だった。


 粉を焼いたあと、私は灰鴎城に頼んで、今日の朝食に人を集めてもらうことにした。


 城の不調は、人が散らばっていると余計に分かりにくい。誰がどこで寒い思いをしているのか、どの扉が誰を怖がっているのか、建物だけを見ても足りない。灰鴎城の傷は、人の生活の中にある。


 使用人たち、兵士たち、補修を任されている職人、厨房の手伝いに来る町の女性たち。全員が一度に厨房へ入ると狭いので、隣の食堂も使う。


 問題は、食堂の扉が半年ほど開いていないことだった。


「ここも拗ねています」


 私は扉の前で言った。


 カイル様は、腕を組んで扉を見た。


「理由は?」


「最後にここを使ったとき、誰かがひどく怒鳴ったようです。扉が、開けるとまた怒鳴り声が来ると思っています」


 マルタさんが顔をしかめた。


「ああ、前の執事だよ。皿が一枚割れただけで、若い子を半日責めた。あたしも止めたんだけどね」


 ニルが視線を落とす。


 その若い子は、彼だったのかもしれない。


 私は扉へ手を置いた。


「今日は、怒鳴りません。皿が割れたら、片づけます。食べ物をこぼしたら、拭きます。寒い人がいたら、席を替えます」


 扉は沈黙した。


 私は続けた。


「開けるのは怖いでしょう。でも、閉じたままだと、楽しい声も入れません」


 ゆっくり、取っ手が下がった。


 中は、思ったより傷んでいなかった。窓は曇っているが、長卓はまだ使える。壁際の棚には空の皿が並び、天井の梁には古い飾り布が残っていた。


 マルタさんが鼻をすすった。


「昔は、ここで冬至の食事をしたんだよ。先代様のころは、兵も職人も一緒に座った」


「また、できます」


 私が言うと、灰鴎城の床が小さく鳴った。


 その音を聞いて、カイル様が私を見る。


「今のは?」


「照れています」


「城も照れるのか」


「褒められ慣れていないと、だいたい照れます」


 カイル様は何か考えるように黙った。


 やがて、食堂に人が集まった。


 最初は皆、遠慮していた。貴族の城で、主人と同じ場に座ることに慣れていないのだろう。けれどカイル様が当然のように長卓の端に座り、私がその隣ではなく少し離れた席を選ぶと、空気が少し緩んだ。


 ニルは上着の裾を何度も気にしながら、マルタさんの隣に座った。


 パンとスープとゆで卵。


 それだけの朝食なのに、部屋は少しずつ温まっていく。


 人が同じ場所で食べると、建物は安心する。食器の音、椅子を引く音、誰かが小さく笑う音。そういうものが、部屋に「ここは使われている」と教える。


 灰鴎城の食堂は、ゆっくり息をし始めた。


 窓の曇りが薄くなる。


 閉じていた棚の扉が、ひとつだけ開いた。


 中には、古い木の杯が並んでいた。銀ではない。飾り気のない、手になじむ杯だ。


 カイル様が一つ取り上げる。


「先代のころのものだ」


「使ってもよいと、言っているのだと思います」


「そうか」


 彼はその杯に水を注ぎ、食堂へ軽く掲げた。


「今日から、この部屋を戻す。嫌なことがあれば言え。扉にも、私にも」


 兵士の一人が、冗談めかして言った。


「旦那様、扉の方が聞いてくれそうです」


「なら、私も聞く練習をする」


 笑いが起きた。


 大きすぎない、温かい笑いだった。


 そのとき、王城の門扉が食堂の入口で小さく鳴った。


 鉄飾りがまた動いている。


 今度は王城の地図ではない。灰鴎城と王都を結ぶ街道、その途中にある小さな町。そして、町の一角に黒い点が一つ。


 カイル様の顔が険しくなった。


「潮見町だ。港へ出る前の宿場だ」


 私は食堂の温かさから、地図の黒点へ目を移した。


 黒い粉は、王都からだけ来たのではない。


 街道の途中にも、同じ空洞が生まれ始めている。

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