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第四話 客間は使者を選びました

王都からの使者は、灰鴎城の客間で眠れなかったらしい。


 翌朝、厨房へ降りてきた彼は、髪を乱し、目の下に薄い影を作っていた。高価な上着の襟も少し曲がっている。王城なら侍従が整えてくれるだろうが、灰鴎城の客間は、彼にそこまで親切ではなかったようだ。


 料理長のマルタさんが、皿に焼いたパンと塩漬け肉を乗せる。


「お客人、卵はお好きかい」


「私は王家の使者だぞ」


「では、王家の使者様は卵を召し上がるのかい」


 使者は一瞬言葉に詰まり、結局、食べる、と小さく答えた。


 灰鴎城の朝食は、祝宴のように華やかではない。パンは少し硬く、スープには豆と刻んだ野菜が多い。ただ、暖炉が煙を返さないだけで、厨房には昨日と違う匂いが満ちていた。


 湯気。


 焼けたパン。


 濡れた薪ではなく、乾いた薪の匂い。


 ニルは袖の合わない上着を着たまま、皿を運んでいる。大人の上着に着られているみたいで、歩くたびに裾が揺れた。


「ニル、裾を踏みます」


「踏んでません」


「今、踏みかけました」


「踏みかけただけです」


 隣でカイル様が、静かにパンを割った。


「昼までに仕立て屋を呼ぶ」


「旦那様、本当に大丈夫です」


「私は同じことを二度言うのが苦手だ」


「……はい」


 ニルは耳を赤くしてうつむいた。マルタさんが鍋の蓋を持ったまま、口元だけで笑う。


 私はその光景を見て、胸が少し温まるのを感じた。


 こういう朝を、王城で迎えたことはなかった。王城の朝は、整っていて、正しくて、誰かが失敗するとすぐ空気が固くなる。灰鴎城はまだ不格好だが、不格好なまま人を座らせる力がある。


 使者はその輪の外側で、居心地悪そうに咳払いをした。


「リネア・ファルスター嬢。改めて確認します。殿下はあなたに帰還を命じておられます」


「私は、王太子殿下の婚約者ではなくなりました」


「しかし、王城の不調はあなたの責任です」


「昨夜まで十年、整えておりました。私がいなくなって一晩で不調が見えたのなら、むしろ今まで隠れていただけです」


 使者は私を睨んだ。


 私はスープの匙を置き、ゆっくり息を吸った。怒りで声を荒げると、こちらが悪者に見える。そう教えられてきた。けれど、静かに言えば相手が聞くとも限らない。


 その間を、灰鴎城が埋めた。


 使者の椅子だけが、ぎい、と床を鳴らして一寸ほど後ろへ下がった。


「なっ」


「灰鴎城」


 私が呼ぶと、椅子は止まった。


 カイル様は使者へ目を向けた。


「昨日も言った。彼女を戻したいなら、まず何があったのかを王家が認めるべきだ」


「ローデン卿、あなたは王家に逆らうおつもりか」


「私は王家に仕える。だが、王太子の機嫌に仕えているわけではない」


 その言葉で、厨房の空気が変わった。


 使用人たちが、聞いていないふりをしながら聞いている。城も聞いていた。天井の梁が、少しだけ低く鳴る。


 使者は返す言葉を探し、私の背後に立つ小さな門扉へ視線を向けた。


「それを返してください。王城の一部です。持ち出してよいものではない」


 門扉は、昨日より少し小さくなっていた。大きな荷台ほどだった姿が、今は大きめの鏡くらいになっている。けれど鉄飾りの精巧さはそのままで、朝の光を受けると、王城の正門で見たときより生き生きして見えた。


「返す、というのは、本人に聞いてからにします」


「門に本人などありません」


 使者が言った瞬間、門扉の下の石縁が、彼の靴先を軽く押した。


 強くはない。


 ただ、失礼です、と言うような押し方だった。


 ニルが今度こそ笑い出しそうになり、マルタさんが背中を向けた。カイル様は表情を変えない。こういうとき、あの方は本当に強いと思う。


 私は門扉に触れた。


「あなたは王城へ帰りたい?」


 門扉はしばらく黙っていた。


 やがて鉄飾りの上に、細い線が浮かぶ。昨日見た地下通路の形ではない。王城の正面玄関と、閉ざされたいくつかの部屋。そして、王太子殿下の寝室の扉に、小さな傷が示された。


 傷の周りが、黒い。


「これは、何?」


 指を近づけると、胸の奥がぞわりと冷えた。


 城が痛むときの冷たさではない。もっと空っぽで、何かが中身を吸い取ったあとのような冷たさだ。


 使者が顔をしかめる。


「そのような模様で、私を脅すつもりですか」


「脅しではありません」


 私は顔を上げた。


「王城は、自分の傷を見せています。殿下の寝室に何かが入り込んでいるのかもしれません」


「馬鹿な。王城の奥は、王族と限られた者しか入れない」


「だから、入り込める者が限られているのです」


 使者の顔色がわずかに変わった。


 カイル様が、私の手元を覗き込む。


「王城の地下にも同じ印があったな」


「はい。昨日は赤い灯でした。今は、黒くなっています」


「進んでいるのか」


「たぶん」


 厨房の暖かさの中で、背筋だけが冷えた。


 王城は、扉を閉じて殿下を困らせているだけではない。傷ついた場所へ人を近づけまいとしている。自分の痛みを隠しながら、守ろうとしている。


 王城らしい、と私は思った。


 豪華な外見で、内側の苦しさを見せない。王族の秘密を飲み込むことに慣れすぎて、助けてと言う方法を忘れている。


 灰鴎城と同じだ。


 使者はしばらく黙っていたが、やがて硬い声で言った。


「私は、あなたの返答を持ち帰ります。ただし、殿下がお許しになるとは限りません」


「私も、殿下に許していただくためにここにいるわけではありません」


 言ったあと、手の中の匙が少し震えていることに気づいた。


 強い言葉を使うのは慣れていない。けれど、言わなければならないことはある。


 カイル様が、何も言わず私の前に温かい茶を置いた。


「飲め」


「ありがとうございます」


「声が震えなかった」


「手は震えています」


「なら、手だけ温めればいい」


 そういう励まし方をする人なのだと思うと、少しおかしかった。


 使者はその日の昼前、灰鴎城を出た。


 ただし、客間の扉は最後に小さな包みを吐き出した。中には、使者が落として忘れたらしい手袋と、客間の窓枠から剥がれた黒い粉が入っていた。


 私は粉に触れないよう、布ごしに覗き込む。


 黒い粉は、石の粉ではなかった。


 乾いた穴の匂いがした。


 門扉が、私の足元で低く鳴る。


 王都から来たのは、使者だけではなかった。

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