第三話 帰る場所を、ここにする
「戻らない、とは」
王都からの使者は、私が聞き間違えたのだと信じたかったようだ。
私はもう一度、同じ言葉を返した。
「王城へは戻りません」
「あなたは、ことの重大さを理解しておられない。王太子殿下がご不便を」
「私も昨日、不便でした」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
これまでの私は、王家の人間にそういう言い方をしたことがない。婚約者として、伯爵令嬢として、角が立たないように、場が荒れないように、そればかり考えてきた。
でも、もう婚約者ではない。
王城が家出するほど怒った夜を過ぎたら、私の中のどこかも少し動いたのだと思う。
使者は顔を赤くした。
「殿下は、あなたが戻れば今回の件を不問にすると仰せです」
「私が何をした件でしょうか」
「王城を混乱させた件です」
「王城は物ではありません。嫌なことをされたら、嫌だと示します」
「城が嫌がるなど」
使者が鼻で笑おうとした瞬間、彼の背後で玄関扉が少しだけ開いた。
冷たい風が入り、使者の帽子だけをころりと床へ落とす。
それから扉は、何事もなかったように閉まった。
厨房から見ていた少年が、慌てて口を押さえる。笑うのを我慢しているらしい。
カイル様も、顔は真面目なままだが、目元が少しだけ緩んでいた。
「灰鴎城も同意見のようだ」
「旦那様まで、そのようなことを」
「私の城だからな。意見は聞く」
使者はしばらく言葉を探していたが、結局、明日の朝まで返答を待つと言って客間へ案内された。
もちろん、客間はすぐには開かなかった。
私が扉へ頼むと、しぶしぶ開いた。使者は顔を青くして中へ入っていく。
「すみません。少し意地悪をしています」
私が灰鴎城へ言うと、廊下の壁が冷たくすました。
カイル様が低い声で尋ねる。
「城も人を選ぶのか」
「選ぶというより、覚えます。乱暴に蹴られた場所は、その人の靴を覚えている。優しく開けてもらった扉は、その手を覚えている」
「では、王城はあなたを覚えていた」
「はい」
「私たちは、あなたに覚えてもらえるだろうか」
その言い方がまっすぐだったので、私はすぐ返事ができなかった。
覚える。
帰る。
そういう言葉は、昨日までの私には少し遠かった。王城は大切だったけれど、私の家ではなかった。伯爵家は生まれた場所だったけれど、安心して眠れる場所ではなかった。
灰鴎城は、まだ私を受け入れたばかりだ。
それでも、厨房の暖炉は温かくなった。少年は少し笑った。カイル様は、私の言葉を笑わなかった。
「覚えたいと思います」
私はそう答えた。
カイル様は、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「それなら十分だ」
穏やかな空気は、長く続かなかった。
夕方近く、東棟の方から悲鳴が聞こえた。
厨房にいた少年――ニルが、掃除用の布を取りに行ったまま戻らないという。東棟は長く使われていない区画で、床が弱いから入るなと何度も言われていたらしい。
カイル様と私は、すぐに東棟へ向かった。
灰鴎城は、焦っていた。
廊下の灯りが揺れ、壁の冷たさが手のひらへ伝わる。悪意ではない。人を迷わせたいのでもない。ただ、どこを開ければいいか分からず、うろたえている。
「落ち着いて。ニルはどこ?」
私は壁に手を当てた。
返事のように、奥の細い廊下で扉が半分だけ開く。
中は古い子ども部屋だった。小さな寝台、割れた窓、倒れた棚。床板の一部が抜け、ニルが棚にしがみついている。
「ニル!」
カイル様が駆け寄ろうとする。
「待ってください」
私は彼の袖をつかんだ。
床が、今にも落ちそうだった。
灰鴎城は、私たちを傷つけたくなくて扉を閉ざしていたのだ。けれどニルが入り込んでしまい、どう助ければいいか分からなくなっている。
「ニル、動かないで。今、迎えに行きます」
「奥様、ごめんなさい……!」
「まだ奥様ではありません」
思わずそう返すと、ニルは泣きながら少し笑った。
私は床へ手をついた。
「少しだけ支えて。痛いところは踏まない。約束します」
床板が、小さく震えた。
私は靴を脱いだ。足裏で、板の弱い場所と強い場所を探る。王城で何度もやったことだ。踏んではいけない場所は、冷たい。踏んでもいい場所は、かすかに温かい。
一歩。
もう一歩。
カイル様が後ろで息を詰めているのが分かった。
私は棚にしがみつくニルの手を取り、ゆっくりこちらへ引いた。彼は軽かった。薄い肩が震えている。
「大丈夫。上手です」
「ぼく、何も」
「動かないでいてくれたでしょう」
床板が、ぎし、と鳴る。
最後の一歩で、カイル様が私とニルを支えた。三人が廊下へ出た瞬間、子ども部屋の床が静かに崩れ落ちる。
誰も怪我をしなかった。
ニルはカイル様に抱き上げられ、泣きながら何度も謝った。カイル様は叱らなかった。ただ、次からは必ず大人に言え、と短く言った。
私は崩れた床を見つめた。
部屋の奥、割れた窓から夕日が差している。古い壁紙は剥がれているが、そこには小さな鳥や船が描かれていた。昔は、ここで子どもが眠っていたのだろう。
「この部屋、もう一度使えます」
私が言うと、カイル様がこちらを見た。
「床が落ちたのに?」
「落ちたからです。悪いところを隠していた床が、やっと痛いと言えました。直せます」
灰鴎城の壁が、ほんの少し温かくなった。
その夜、厨房では簡単な夕食が用意された。
豆の煮込みと黒パン、温め直した鶏肉。祝宴の料理とは比べものにならない質素な食事だったが、煙の戻らない暖炉の前で食べると、とてもおいしかった。
ニルはカイル様の上着を返そうとしたが、カイル様は首を横に振った。
「明日、君の分を仕立てる。それまでは着ていろ」
「でも」
「私が寒そうで見ていられないと言った」
ニルはまた赤くなった。
私は、そのやり取りを見ながら思った。
ここは、荒れている。冷たい。傷も多い。
けれど、人が人を見ている。
王城では、私はずっと城の不調を見ていた。ここでは、城の不調の先にいる人たちも見える。
食後、カイル様は私を玄関広間へ連れていった。
小さくなった王城の門扉は、広間の壁際に立っている。灰鴎城とまだ仲良くはなっていないようで、互いに少し距離を置いていた。
「リネア嬢」
「はい」
「王都へ戻りたいなら、護衛をつける。実家へ戻りたいなら、それも手配する。ここに残るなら、客人として部屋を用意する」
彼は一度、言葉を切った。
「ただし、あなたを追い出した場所と同じ扱いはしない。力だけを求めて置くつもりはない。嫌になったら、いつでも出ていける」
胸の奥が、ゆっくり熱くなった。
必要とされるのは嬉しい。
でも、それ以上に、選ばせてくれることが嬉しかった。
「今夜は、ここにいます」
「ああ」
「明日の朝も、たぶんここにいます」
「たぶんか」
「灰鴎城が朝食を出してくれるなら」
カイル様が少し笑った。
「厨房に頼んでおく」
「城にも頼んでおきます」
私は王城の門扉へ手を当てた。
「あなたも、しばらくここで休みましょう。王都のことは、明日考えます」
門扉は、すぐには返事をしなかった。
代わりに、鉄飾りの一部がゆっくり浮かび上がる。細い線がつながり、見慣れた形を作った。
王城の地下通路だ。
私は息を止めた。
地下の中心に、赤い点が三つ灯っている。
王城が閉ざしていた場所。王族でも滅多に入れない古い地下。その奥で、何かが動いている。
カイル様が低く言った。
「これは、助けを求めているのか」
「たぶん」
王城の門扉は、小さく震えた。
家出したのは、私についてきたかったからだけではない。
王城は、怖かったのだ。
王都の地下で、何かが城を食べている。
私は灰鴎城の温かくなった壁に背を向けず、王城の門扉を見つめた。
昨日、私は婚約者に捨てられた。
今日、帰る場所になるかもしれない城を見つけた。
そして明日から、二つの城と一緒に、王家が隠しているものを探すことになるらしい。
できれば最初に、朝食を食べてから。
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