第二話 廃城は、泣き方を忘れていました
王城の正門を連れての移動は、かなり目立った。
当然だと思う。
祝宴用の馬車の後ろを、鉄の門扉が静かについてくるのだから。石畳を削らないよう気を遣っているらしく、進み方は思ったより上品だったが、上品な門扉が夜道を進む光景は、上品であるほど不思議だった。
カイル様はしばらく黙ってそれを見ていた。
「置いていくことはできるか」
「たぶん、無理です」
「分かった。なら、途中で休ませよう」
「門をですか」
「あれはあなたの客だろう」
真面目にそう言われて、私は少し笑ってしまった。
笑ったのは久しぶりだった。胸の奥はまだ痛い。十年分の居場所を失ったのだから、当然だと思う。けれど、隣の人が門扉の休憩を本気で考えていると思うと、悲しみだけで沈むことができなかった。
王都を出る前に、私は門扉へ手を当てた。
「遠くまで行くの。大丈夫?」
門扉は、蝶番を小さく鳴らした。
大丈夫、という返事に聞こえた。
それから不思議なことが起きた。大きかった門扉は、ゆっくりと輪郭を縮め、馬車の後ろにつけられる荷台ほどの大きさになった。古い鉄飾りも、石の縁も、そのまま小さくなっている。
「旅を覚えました」
私が言うと、カイル様は短く息を吐いた。
「王城は器用だな」
「少し見栄っ張りです」
「あなたに似たのか?」
「私は見栄を張るのが下手です」
「それは分かる」
失礼なようで、嫌な言い方ではなかった。
馬車は北西へ進んだ。王都の灯りが後ろに遠ざかり、道はやがて森へ入る。夜明け前、私たちは街道沿いの小さな宿で休んだ。
カイル様は、私に無理に事情を聞こうとはしなかった。
代わりに、温かいスープを二つ頼み、門扉のために馬小屋の空いた場所を借りてくれた。宿の主人は最初ぽかんとしていたが、門扉が礼儀正しく入口の邪魔にならない位置へ収まると、もう何も聞かなかった。
「食べられるか」
「はい」
「なら食べた方がいい。つらい夜ほど、温かいものを胃に入れた方が判断を間違えない」
「カイル様は、いつもそうしているのですか」
「できる日は」
できない日が多いのだろう、と思った。
翌日の昼過ぎ、ローデン辺境伯領に入った。
王都の春とは違い、北西の風は冷たい。遠くに海が見え、丘の上には灰色の城が立っていた。優雅な宮殿ではない。分厚い壁と細い窓を持つ、戦うために作られた古い城だ。
灰鴎城。
かつては海賊から港を守った砦で、今は辺境伯家の本拠になっている、とカイル様は説明した。
「ただ、住み心地が悪い」
「どのくらいですか」
「客間に入った客が、同じ廊下を三周して厨房へ出る。暖炉は火を入れると煙を返す。夜中に寝台が壁際へ寄る。屋根は雨の日だけでなく晴れの日にも水を落とす」
「それは、かなり怒っていますね」
「やはり怒っているのか」
「怒っているというより、話し方を忘れているのかもしれません」
城門の前に着くと、使用人たちが並んでいた。皆、私より後ろの小さくなった王城の門扉を見て、目を丸くしている。
その中に、十歳くらいの少年がいた。使用人の子だろうか。頬が赤く、鼻をすすっている。寒いのに、上着の袖が少し短かった。
私は門をくぐる前に、灰鴎城を見上げた。
硬い城だと思った。
けれど、怖くはなかった。
長い間、誰にも弱っていると言えずに立っていた城だ。壁の奥に湿り気があり、窓の縁が冷たく、玄関の扉はひどく重そうにしている。
私は扉の前へ進み、手袋を外した。
「入ってもいいですか」
カイル様が何か言いかけたが、止めなかった。
私は扉へ手を当てる。
冷たい。
とても冷たい。
王城の石は、疲れていても私に体温を分けてくれた。けれど灰鴎城は、誰かに触れられることを長く諦めたような冷たさをしていた。
「急に元気にならなくて大丈夫です。少しだけ、開けてください」
扉は動かなかった。
使用人たちの間に、やっぱり、という空気が流れる。
私は扉から手を離さず、もう一度言った。
「あなたを直しに来たわけではありません。まず、困っているところを聞きに来ました」
しばらくして、扉の奥で小さな震えが起きた。
鍵が外れる。
扉が、内側へゆっくり開いた。
使用人の一人が、泣きそうな顔で口元を押さえた。
「半年ぶりに、正面から開いた……」
玄関広間に入ると、空気はひんやりしていた。広いのに、どこか息苦しい。古い敷物は湿り、階段の手すりには細かな傷がある。
けれど一番苦しそうなのは、奥の厨房だった。
暖炉が、煙を吐き出している。
「またか」
カイル様が顔をしかめた。
料理人たちが咳き込み、少年が目をこすっている。私は急いで厨房へ向かった。
暖炉の前にしゃがむと、原因はすぐ分かった。
「煙突が詰まっているだけではありません。怖がっています」
「暖炉が?」
「はい。火を入れるたびに叱られてきたので、火が来ると身構えるようになっています」
料理長らしき女性が、申し訳なさそうに手を握った。
「叱ったわけでは……ただ、煙がひどいので、つい」
「分かります。煙いと腹が立ちますもの」
私は暖炉の縁を撫でた。
「大丈夫。今日は少しだけ。上へ逃がす道を思い出して」
カイル様が使用人に指示し、煙突の点検口を開けさせる。中から崩れた鳥の巣と湿った煤が出てきた。掃除をすると、暖炉は小さく息を吸ったように空気を動かした。
新しい薪に火が移る。
今度は煙が戻らなかった。
厨房に、温かさが広がった。
少年が小さくくしゃみをした。私は振り返り、彼の袖を見た。
「寒かったでしょう」
「平気です」
「平気と言う子ほど、だいたい寒いです」
少年は困った顔をした。カイル様が自分の上着を脱ぎ、少年へかける。
「リネア嬢の言う通りだ。後で衣類を用意する」
「旦那様、ぼくは大丈夫です」
「私が寒そうで見ていられない」
少年は耳まで赤くなった。
その様子を見て、私は少しだけ安心した。
この城には、帰る場所を必要としている人がいる。城も、人も、まだ完全に諦めてはいない。
厨房の火が落ち着くと、灰鴎城の空気が少し変わった。
廊下の角から冷たい風が消え、階段の一段目が、ぎし、と短く鳴る。王城が怒るときの震えとは違う。
これは、挨拶だ。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
私がそう返すと、カイル様が静かに笑った。
「本当に会話しているのだな」
「うまくできない日もあります。人と同じです」
「では、今日はうまくいった日か」
「最初の日としては、とても」
そのとき、玄関の方が騒がしくなった。
使用人が駆け込んでくる。
「旦那様、王都から使者が参りました」
カイル様の表情が硬くなった。
私の後ろで、小さくなった王城の門扉が、低く軋む。
玄関広間へ戻ると、赤い顔をした使者が立っていた。旅の疲れより、怒りの方が勝っている顔だ。
彼は私を見つけるなり、声を張り上げた。
「リネア・ファルスター伯爵令嬢。至急、王城へお戻りください」
「戻る理由がありません」
「王城の扉が、王太子殿下の前で一つも開かなくなりました。寝室も、宝物庫も、浴室もです。陛下がお困りです」
私は黙った。
王城の門扉が、私の背後で少しだけ胸を張ったように見えた。
使者は続ける。
「殿下は大変お怒りです。あなたが城に妙なまじないをかけたのなら、今すぐ解いていただきたい」
カイル様が一歩前へ出た。
「彼女は昨夜、あなた方に追い出された。戻れというなら、まず謝罪が先ではないか」
使者は口を引き結んだ。
私は王城の門扉へ手を当てた。
怒っている。傷ついている。それから、少しだけ怖がっている。
王城は、ただ私についてきたわけではないのかもしれない。
遠く離れた王都で、まだ何かが起きている。
けれど今、私の目の前には、やっと火を吸えるようになった暖炉と、上着を借りた少年と、弱っている灰鴎城がある。
「私は、王城へ戻りません」
使者の目が見開かれた。
「今夜は、この城にいます」
その瞬間、灰鴎城の玄関扉が、静かに閉まった。
乱暴ではない。
けれど、はっきりとした意思を持って。
ここから先は、私たちの家の話だと告げるように。




