表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/53

第二話 廃城は、泣き方を忘れていました

王城の正門を連れての移動は、かなり目立った。


 当然だと思う。


 祝宴用の馬車の後ろを、鉄の門扉が静かについてくるのだから。石畳を削らないよう気を遣っているらしく、進み方は思ったより上品だったが、上品な門扉が夜道を進む光景は、上品であるほど不思議だった。


 カイル様はしばらく黙ってそれを見ていた。


「置いていくことはできるか」


「たぶん、無理です」


「分かった。なら、途中で休ませよう」


「門をですか」


「あれはあなたの客だろう」


 真面目にそう言われて、私は少し笑ってしまった。


 笑ったのは久しぶりだった。胸の奥はまだ痛い。十年分の居場所を失ったのだから、当然だと思う。けれど、隣の人が門扉の休憩を本気で考えていると思うと、悲しみだけで沈むことができなかった。


 王都を出る前に、私は門扉へ手を当てた。


「遠くまで行くの。大丈夫?」


 門扉は、蝶番を小さく鳴らした。


 大丈夫、という返事に聞こえた。


 それから不思議なことが起きた。大きかった門扉は、ゆっくりと輪郭を縮め、馬車の後ろにつけられる荷台ほどの大きさになった。古い鉄飾りも、石の縁も、そのまま小さくなっている。


「旅を覚えました」


 私が言うと、カイル様は短く息を吐いた。


「王城は器用だな」


「少し見栄っ張りです」


「あなたに似たのか?」


「私は見栄を張るのが下手です」


「それは分かる」


 失礼なようで、嫌な言い方ではなかった。


 馬車は北西へ進んだ。王都の灯りが後ろに遠ざかり、道はやがて森へ入る。夜明け前、私たちは街道沿いの小さな宿で休んだ。


 カイル様は、私に無理に事情を聞こうとはしなかった。


 代わりに、温かいスープを二つ頼み、門扉のために馬小屋の空いた場所を借りてくれた。宿の主人は最初ぽかんとしていたが、門扉が礼儀正しく入口の邪魔にならない位置へ収まると、もう何も聞かなかった。


「食べられるか」


「はい」


「なら食べた方がいい。つらい夜ほど、温かいものを胃に入れた方が判断を間違えない」


「カイル様は、いつもそうしているのですか」


「できる日は」


 できない日が多いのだろう、と思った。


 翌日の昼過ぎ、ローデン辺境伯領に入った。


 王都の春とは違い、北西の風は冷たい。遠くに海が見え、丘の上には灰色の城が立っていた。優雅な宮殿ではない。分厚い壁と細い窓を持つ、戦うために作られた古い城だ。


 灰鴎城。


 かつては海賊から港を守った砦で、今は辺境伯家の本拠になっている、とカイル様は説明した。


「ただ、住み心地が悪い」


「どのくらいですか」


「客間に入った客が、同じ廊下を三周して厨房へ出る。暖炉は火を入れると煙を返す。夜中に寝台が壁際へ寄る。屋根は雨の日だけでなく晴れの日にも水を落とす」


「それは、かなり怒っていますね」


「やはり怒っているのか」


「怒っているというより、話し方を忘れているのかもしれません」


 城門の前に着くと、使用人たちが並んでいた。皆、私より後ろの小さくなった王城の門扉を見て、目を丸くしている。


 その中に、十歳くらいの少年がいた。使用人の子だろうか。頬が赤く、鼻をすすっている。寒いのに、上着の袖が少し短かった。


 私は門をくぐる前に、灰鴎城を見上げた。


 硬い城だと思った。


 けれど、怖くはなかった。


 長い間、誰にも弱っていると言えずに立っていた城だ。壁の奥に湿り気があり、窓の縁が冷たく、玄関の扉はひどく重そうにしている。


 私は扉の前へ進み、手袋を外した。


「入ってもいいですか」


 カイル様が何か言いかけたが、止めなかった。


 私は扉へ手を当てる。


 冷たい。


 とても冷たい。


 王城の石は、疲れていても私に体温を分けてくれた。けれど灰鴎城は、誰かに触れられることを長く諦めたような冷たさをしていた。


「急に元気にならなくて大丈夫です。少しだけ、開けてください」


 扉は動かなかった。


 使用人たちの間に、やっぱり、という空気が流れる。


 私は扉から手を離さず、もう一度言った。


「あなたを直しに来たわけではありません。まず、困っているところを聞きに来ました」


 しばらくして、扉の奥で小さな震えが起きた。


 鍵が外れる。


 扉が、内側へゆっくり開いた。


 使用人の一人が、泣きそうな顔で口元を押さえた。


「半年ぶりに、正面から開いた……」


 玄関広間に入ると、空気はひんやりしていた。広いのに、どこか息苦しい。古い敷物は湿り、階段の手すりには細かな傷がある。


 けれど一番苦しそうなのは、奥の厨房だった。


 暖炉が、煙を吐き出している。


「またか」


 カイル様が顔をしかめた。


 料理人たちが咳き込み、少年が目をこすっている。私は急いで厨房へ向かった。


 暖炉の前にしゃがむと、原因はすぐ分かった。


「煙突が詰まっているだけではありません。怖がっています」


「暖炉が?」


「はい。火を入れるたびに叱られてきたので、火が来ると身構えるようになっています」


 料理長らしき女性が、申し訳なさそうに手を握った。


「叱ったわけでは……ただ、煙がひどいので、つい」


「分かります。煙いと腹が立ちますもの」


 私は暖炉の縁を撫でた。


「大丈夫。今日は少しだけ。上へ逃がす道を思い出して」


 カイル様が使用人に指示し、煙突の点検口を開けさせる。中から崩れた鳥の巣と湿った煤が出てきた。掃除をすると、暖炉は小さく息を吸ったように空気を動かした。


 新しい薪に火が移る。


 今度は煙が戻らなかった。


 厨房に、温かさが広がった。


 少年が小さくくしゃみをした。私は振り返り、彼の袖を見た。


「寒かったでしょう」


「平気です」


「平気と言う子ほど、だいたい寒いです」


 少年は困った顔をした。カイル様が自分の上着を脱ぎ、少年へかける。


「リネア嬢の言う通りだ。後で衣類を用意する」


「旦那様、ぼくは大丈夫です」


「私が寒そうで見ていられない」


 少年は耳まで赤くなった。


 その様子を見て、私は少しだけ安心した。


 この城には、帰る場所を必要としている人がいる。城も、人も、まだ完全に諦めてはいない。


 厨房の火が落ち着くと、灰鴎城の空気が少し変わった。


 廊下の角から冷たい風が消え、階段の一段目が、ぎし、と短く鳴る。王城が怒るときの震えとは違う。


 これは、挨拶だ。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 私がそう返すと、カイル様が静かに笑った。


「本当に会話しているのだな」


「うまくできない日もあります。人と同じです」


「では、今日はうまくいった日か」


「最初の日としては、とても」


 そのとき、玄関の方が騒がしくなった。


 使用人が駆け込んでくる。


「旦那様、王都から使者が参りました」


 カイル様の表情が硬くなった。


 私の後ろで、小さくなった王城の門扉が、低く軋む。


 玄関広間へ戻ると、赤い顔をした使者が立っていた。旅の疲れより、怒りの方が勝っている顔だ。


 彼は私を見つけるなり、声を張り上げた。


「リネア・ファルスター伯爵令嬢。至急、王城へお戻りください」


「戻る理由がありません」


「王城の扉が、王太子殿下の前で一つも開かなくなりました。寝室も、宝物庫も、浴室もです。陛下がお困りです」


 私は黙った。


 王城の門扉が、私の背後で少しだけ胸を張ったように見えた。


 使者は続ける。


「殿下は大変お怒りです。あなたが城に妙なまじないをかけたのなら、今すぐ解いていただきたい」


 カイル様が一歩前へ出た。


「彼女は昨夜、あなた方に追い出された。戻れというなら、まず謝罪が先ではないか」


 使者は口を引き結んだ。


 私は王城の門扉へ手を当てた。


 怒っている。傷ついている。それから、少しだけ怖がっている。


 王城は、ただ私についてきたわけではないのかもしれない。


 遠く離れた王都で、まだ何かが起きている。


 けれど今、私の目の前には、やっと火を吸えるようになった暖炉と、上着を借りた少年と、弱っている灰鴎城がある。


「私は、王城へ戻りません」


 使者の目が見開かれた。


「今夜は、この城にいます」


 その瞬間、灰鴎城の玄関扉が、静かに閉まった。


 乱暴ではない。


 けれど、はっきりとした意思を持って。


 ここから先は、私たちの家の話だと告げるように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ