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第一話 王城が家出しました

「君のように、城にしか愛されない女を王妃にはできない」


 春の祝宴の中央で、婚約者だったユリウス殿下はそう言った。


 大広間に集まった貴族たちの視線が、いっせいに私へ向く。銀の皿を持った給仕まで足を止め、壁際の衛兵も、見てはいけないものを見るような顔をした。


 普通なら泣く場面なのだろう。


 けれど私は、殿下の肩越しにある西側の窓を見ていた。


 窓枠が、ほんの少し震えている。


 怒っているのだ。


 王城が。


「聞いているのか、リネア」


「はい。聞いております」


 私は膝を折り、できるだけ静かに礼をした。


 ユリウス殿下は眉を寄せた。泣き崩れもせず、すがりつきもせず、ただ返事をした私が気に入らなかったらしい。


 殿下の隣には、淡い金髪のクラリス様が立っていた。妖精の祝福を受けた男爵令嬢で、春の花のように可憐な方だ。彼女は私を気遣うような顔をしているが、殿下の腕に添えた指は離さない。


「君は昔からそうだ。人の心より、壁のひびや扉の立てつけを気にする。私が話していても天井を見上げる。王妃に必要なのは、人に寄り添う心だ。古い石とばかり話している女ではない」


 笑い声が広間に広がった。


 城と話す令嬢。

 壁に礼を言う婚約者。

 舞踏会より水漏れを気にする娘。


 どれも、ここ十年で何度も聞いた言葉だった。


 私は伯爵家の長女として、十歳で王太子の婚約者になった。王妃教育を受け、礼儀作法を覚え、祝宴では隣に立ち、王族の顔に泥を塗らないよう努めてきた。


 その裏で、王城の世話もしてきた。


 人に言うと笑われるけれど、古い建物にも具合がある。湿った壁は背中を丸めるし、乾ききった梁は喉を鳴らす。長く開けられていない扉は拗ねる。使われすぎた階段は、踏まれた場所だけ薄く痛む。


 王城は大きく、美しく、そして少し無理をしている城だった。


 豪華な祝宴の裏で雨水を飲み込み、王族の秘密を抱え、誰にも気づかれない場所で疲れていた。


 だから私は、できる範囲でなだめてきた。窓を開け、暖炉に灰を残し、床板の浮いた場所を避けるよう人を誘導し、夜更けに石壁へ手を当てて眠るよう頼んだ。


 それは王妃の務めではないと、殿下は言うのだろう。


「申し訳ございません」


 私がそう答えると、クラリス様がほっとしたように微笑んだ。


「リネア様は悪い方ではありません。ただ、少し変わっていらっしゃるだけですもの。殿下、あまり強くおっしゃらないでくださいませ」


「クラリスは優しいな」


 殿下が彼女の手を取る。


 その瞬間、広間の床が、低く震えた。


 私は心の中で、だめ、と言った。


 客人を転ばせてはいけない。怒るなら私にだけ分かる形にして。


 けれど王城は、今夜ばかりは聞き分けが悪かった。


 殿下の足元の絨毯が、くるりと丸まる。


「うわっ」


 殿下は大きくよろめいた。隣のクラリス様が小さく悲鳴を上げ、給仕が慌てて皿を支える。皿の上の果物だけが床へ転がった。


 私は一歩前へ出て、絨毯の端にそっと指を置いた。


「大丈夫。私は平気だから」


 広間が静まり返った。


 殿下は顔を赤くした。


「何をした、リネア」


「何もしておりません」


「嘘をつくな。絨毯が勝手に動くはずがない」


 その言葉に、今度は大広間の扉がばたんと閉まった。


 重い扉が勝手に閉じると、広間の空気は一気に冷えた。客人たちがざわめく。衛兵が扉に駆け寄り、取っ手を引いたが、開かない。


「開けろ!」


 ユリウス殿下が叫ぶ。


 扉は、動かなかった。


 ただし、私が近づくと少しだけ隙間を作った。廊下の冷たい空気が、細く流れ込んでくる。


 私は扉の縁を撫でた。


「ありがとう。でも、みんなを閉じ込めないで」


 扉はしぶしぶ開いた。


 客人たちは、私と扉を交互に見ている。さっきまでの嘲笑は消えていた。代わりに、気味悪がる視線と、何かまずいものを見たという沈黙がある。


 私はその両方に慣れていた。


「殿下」


「……何だ」


「婚約破棄の件、承知いたしました。これまでお世話になりました」


 指にはめていた婚約の指輪を外し、近くの卓へ置く。殿下が何か言う前に、私は広間の奥を見上げた。


 高い天井。磨かれた窓。大理石の柱。私が十年、少しずつ親しくなった王城。


「あなたにも、お世話になりました」


 そう言って、私は王城に向かって礼をした。


 誰かが息をのむ。


 今度は笑い声が起きなかった。


 出ていこうとした私に、低い声がかかった。


「リネア嬢」


 振り返ると、壁際にいた長身の男性が一歩前へ出た。灰色の上着を着た、黒髪の方だ。祝宴の華やかさの中では地味に見えるが、背筋がまっすぐで、目がよく通っている。


 カイル・ローデン辺境伯。


 北西の海沿いに領地を持つ方だと記憶している。何度か祝宴で見かけたことはあるが、話したことはほとんどない。


「馬車はあるか」


「実家の迎えがあるはずです」


「その迎えが、今の広間を見てもあなたを乗せるとは限らない」


 言い方は冷たいようで、こちらを責めてはいなかった。


 彼は自分の外套を外し、私へ差し出した。


「触れても?」


 私は少し驚いて、それから頷いた。カイル様は私の肩へ外套をかける。厚手の布が、祝宴の薄いドレスの上で温かかった。


「私の馬車を使えばいい。行き先がないなら、うちへ来るといい」


 広間がまたざわめいた。


 ユリウス殿下が険しい顔で言う。


「ローデン卿。彼女は今、王家との婚約を解かれたばかりだ。軽率なことをするな」


「軽率なのは、祝宴の中央で十年の婚約者を辱める方でしょう」


 カイル様の声は大きくなかった。


 それでも、広間の奥まで届いた。


 殿下が口を閉ざす。


 カイル様は私へ視線を戻した。


「私の領地に、誰も帰りたがらない古い城がある。暖炉は煙を吐き、客間は鍵を飲み込み、廊下は人を迷わせる。呪われていると噂されているが、今のあなたを見て考えが変わった」


「呪いではないかもしれない、と?」


「ああ。誰かに痛いところを分かってほしいだけかもしれない」


 その言葉に、胸の奥が少しだけ緩んだ。


 この人は、私を便利な力として見ているのかもしれない。けれど、王城を化け物とは言わなかった。


「お役に立てるかは分かりません」


「それでも構わない。今夜、あなたをここに置いていくよりはましだ」


 私は頷いた。


 広間を出るとき、王城は廊下の灯りを一つずつともしてくれた。私の足元だけ、影が薄くなる。まるで転ばないように見送ってくれているみたいだった。


「ありがとう」


 小さく言うと、壁がかすかに温かくなった。


 王城の正面玄関を出る。夜気は冷たく、馬車寄せには霧が下りていた。カイル様の馬車が用意され、私は外套を握ったまま乗り込む。


 そのとき、背後で重いものがずれた。


 ぎぎ、と石と鉄が擦れる。


 振り返ると、王城の正門の片扉が、壁から外れていた。


 大きな鉄の扉は、誰に押されたわけでもないのに、ゆっくり馬車の後ろへ近づいてくる。そして、ぴたりと止まった。


 まるで、一緒に行くと言っているように。


「リネア嬢」


 カイル様が、真面目な顔で尋ねた。


「王城は、馬車酔いをするか?」


 私は答えに困った。


 門扉は、どこか得意げに夜風を受けている。


 どうやら王城は、私が思っていたよりずっと本気で家出するつもりらしかった。

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