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第十話 辺境伯は、私を道具にしない

潮見町の宿を救ったあと、町の人々は私を不思議なものを見るように囲んだ。


 怖がる目もあった。ありがたがる目もあった。どちらも慣れている。


 けれど、宿の主人が私の手を両手で包み、「助かりました」と言ったとき、私はどう返せばよいか少し迷った。


 助けたのは私だけではない。宿が思い出した。アルクが火の匂いを運んだ。カイル様が私を支えた。ミラさんやニルの記憶が宿を引き戻した。


 でも、全部を説明すると長くなる。


「宿が、頑張りました」


 結局、私はそう言った。


 宿の主人は最初きょとんとして、それから入口の柱を撫でた。


「そうか。おまえも頑張ったのか」


 柱が、ぎし、と鳴った。


 町の人たちが少し笑う。


 それでよかった。


 建物を笑いものにする笑いではなく、身近なものとして受け入れる笑いだった。


 潮見町には、同じ黒い粉が付着した場所が三つあった。宿の二階、共同井戸の屋根、古い倉庫の扉。どれもヴィクターが通ったあとにおかしくなったらしい。


 井戸の屋根は、自分が何を守っているのか忘れかけていた。


 倉庫の扉は、中に積まれていた塩と干し魚の匂いを思い出せず、閉じる力を失っていた。


 私たちは町の人と一緒に、それぞれを戻した。


 井戸には、朝一番に水を汲む女性たちが集まってくれた。倉庫には、漁師たちが干し魚の籠を持ってきた。私は建物に声をかけたが、戻るきっかけを作ったのは、そこに暮らす人たちだった。


 夕方、町の広場に簡単な席が用意された。


 カイル様は、町長や宿の主人たちから話を聞いている。エドヴィン卿はヴィクターの足取りを記録し、近衛たちに王都へ送る伝令の準備をさせていた。


 ニルはミラさんに抱きしめられ、少し苦しそうにしている。


「大きくなったねえ」


「叔母さん、息が」


「細いよ。もっと食べな」


「灰鴎城で食べてます」


「あの城で? 煙がすごいって聞いてたけど」


「リネア様が直しました」


 ニルは少し誇らしげだった。


 私のことを自分の身内のように話してくれるのが、くすぐったい。


 私は広場の端で、アルクのそばに座った。今日はさすがに疲れた。建物の記憶を引き戻すのは、ただ話しかけるだけではない。相手の失われかけた感覚に、自分の手を差し込むような作業だ。終わると、指先だけでなく胸の奥まで重くなる。


 アルクが小さく鳴る。


「平気です」


 そう言ってから、私は苦笑した。


「嘘です。少し疲れました」


 アルクの鉄飾りが、ゆっくり動いた。門の向こうに見えたのは、灰鴎城の私の部屋だった。ベッドの上に毛布が置かれている。


「帰って寝ろ、ということ?」


 アルクが鳴る。


 私は膝を抱えた。


「まだ帰れません。カイル様が町の話を聞いていますし、私も黒い粉のことを考えないと」


「考えるのは後でいい」


 背後から声がした。


 振り返ると、カイル様が立っていた。手には湯気の立つ木の杯を持っている。


「温かい麦湯だ。飲め」


「ありがとうございます」


「あなたは、疲れているときほど仕事を探す」


 図星だった。


 私は杯を受け取り、両手で包む。


「王城では、疲れたと言う前に、次の不調を見つける方が楽でした」


「なぜ」


「疲れたと言うと、役に立たないと思われそうで」


 言ってから、少し後悔した。


 重い話をするつもりではなかった。けれど、カイル様は急に慰めるような顔をしなかった。ただ、広場の向こうを見た。


「ローデン領では、疲れた人間は休む。休まないと、次に誰かを巻き込む」


「厳しいですね」


「事実だ」


「はい」


 麦湯は少し苦く、でも温かかった。


 しばらく、二人で広場を見ていた。


 潮見町の家々は、完全に元通りではない。傾いた屋根は修理が必要だし、宿の二階も当分使えない。けれど、町は自分を忘れていない。夕方の匂い、足音、誰かが呼ぶ声が戻ってきている。


 カイル様が低く言った。


「王都から正式な返答が来る前に、私はあなたへ確認しておくべきことがある」


「はい」


「私は、あなたの力を必要としている」


 まっすぐな言葉だった。


「灰鴎城にも、領内の町にも、王城にも、おそらくあなたの力が要る。これから先、頼むことは増える」


「分かっています」


「だが、あなたを道具として扱うつもりはない」


 私は杯を持つ手を止めた。


「道具は、壊れるまで使われる。人は、休み、怒り、断り、帰る場所を選ぶ。あなたには断る権利がある。私が忘れたら、言え」


 胸の奥が、静かに痛んだ。


 優しい言葉は、時々痛い。自分がどれだけ優しくない場所に慣れていたか、分かってしまうからだ。


「カイル様は、なぜそこまで言ってくださるのですか」


「私の城があなたを必要としている。私も、あなたを必要としている。だからこそ、必要という言葉だけで縛りたくない」


 言葉数は少ない。


 けれど、十分だった。


 私は麦湯を飲み、ゆっくり息を吐いた。


「では、私も約束します。疲れたら、できるだけ疲れたと言います」


「できるだけか」


「練習中です」


「なら、今日からだ」


「疲れました」


「よろしい」


 カイル様は真面目に頷いた。


 その真面目さに、私は笑った。


 広場の向こうで、エドヴィン卿がこちらへ歩いてくる。彼の表情は硬い。


「ローデン卿、リネア嬢。伝令を出す前に確認したいことがあります」


 彼は小さな黒い袋を差し出した。


「宿の部屋に残っていた粉の中から、王城の礎石(そせき)に使われる結晶片が見つかりました。これは王城の地下から持ち出されたものです」


 カイル様の顔が険しくなる。


 私は袋を見た。


 王城の一部が、潮見町の宿を削る種にされている。


 エドヴィン卿は続けた。


「ヴィクター・カンドルフは、王城の補修責任者です。彼が本当に関わっているなら、王城の中にいる限り、誰も彼を止められません」


 アルクが、強く鳴った。


 その音には、怒りと恐怖が混じっていた。


 私は立ち上がる。


 疲れている。


 けれど、見ないふりはできない。


「王都へ戻ります」


 カイル様が私を見る。


「今夜ではない」


「はい。今夜は休みます」


 約束したばかりだ。


 私は自分の手を見た。震えてはいない。


「明日の朝、家守として王城へ向かいます」


 アルクの門が、夕焼けの中で静かに開いた。


 向こう側に、遠い王都の影が見えた気がした。

お読みいただきありがとうございます。第一章はここで一区切りです。少しでも続きが気になりましたら、ブックマーク・評価で応援していただけると大変励みになります。

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