表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
11/53

第十一話 王都へ戻る馬車/開かない寝室

王都へ戻る道は、来たときより長く感じた。


 私は馬車の窓から、流れていく畑と林を見ていた。春の緑は王都に近づくほど明るくなる。けれど、アルクが示す地図には、街道沿いの家々に小さな影が増えていた。


 すべてが黒い粉に侵されているわけではない。


 屋根の雨漏り、古い橋の軋み、使われなくなった納屋の寂しさ。普通の不調も混じっている。けれど、その中に、記憶だけを薄くする冷たい点がある。


 ヴィクターは王城だけを狙っていない。


 通った場所の家を少しずつ削り、何かへ持ち帰っている。


「リネア嬢」


 向かいに座るエドヴィン卿が、静かに声をかけた。


「王都に入れば、あなたへの視線は厳しくなります。昨夜の祝宴で何があったか、すでに噂になっている」


「でしょうね」


「王太子殿下を袖にした令嬢、王城を連れて逃げた魔女、辺境伯をたぶらかした女。どれも、実際より面白く語られているはずです」


 隣のカイル様が、眉を動かした。


「たぶらかされた覚えはない」


「そこを否定するのですか」


「事実ではない」


 私は思わず笑ってしまった。


 カイル様は不思議そうにこちらを見る。笑う場所だったのか、と本気で考えている顔だ。


 緊張していた肩が少し下りた。


「ありがとうございます。少し楽になりました」


「私は何もしていない」


「それがよかったのです」


 ニルは私の隣で、膝の上に両手を置いて座っている。潮見町から戻るとき、ミラさんに何度も抱きしめられたせいで、髪が少し乱れていた。彼は王都へ行くことを最初は止められたが、王城の中に入らない、馬車で待機する、危険があれば近衛の保護下へ下がる、という条件で同行を許された。


「王都って、怖いですか」


 ニルが小さく尋ねる。


「場所としては怖くありません。石畳は広いし、お店も多いです。怖いのは、人が多い分、誰かの噂もすぐ広がることです」


「噂って、扉より意地悪ですか」


「扉は理由があって閉まります。噂は、理由がなくても広がることがあります」


 ニルは真剣に頷いた。


 カイル様が低く言う。


「噂には、足場を与えないのが一番だ」


「足場?」


「曖昧な態度をしない。あなたは、婚約者として戻るのではない。王城の不調を調べる家守として戻る。その線を崩さない」


 家守。


 自分で口にしたときより、カイル様の声で聞くと、重みが違った。


 王城でその言葉を使えば、笑われるかもしれない。迷信だと切り捨てられるかもしれない。それでも、私はその役目で戻る。捨てられた婚約者として、殿下の機嫌を直すためではない。


「はい」


 私は膝の上で手を重ねた。


「私は、家守として行きます」


 アルクが後ろの荷台で小さく鳴った。


 王都の城壁が見えたころ、道端に人だかりがあった。


 小さな祠の屋根が落ちかけている。旅人が手を合わせるだけの、石造りの古い祠だ。黒い粉の気配は弱いが、屋根の下に集まった人たちは不安そうに見上げていた。


 馬車はそのまま通り過ぎる予定だった。


 けれど、私の指先が少し痛んだ。


「止めてください」


 カイル様は理由を聞く前に、御者へ合図した。


 祠は、誰にも大切にされていないわけではなかった。通りすがりの人が小石を置き、花を差し、雨宿りをした痕がある。ただ、最近誰かが柱に傷をつけたらしい。そこから黒い粉がわずかに入り、屋根の記憶を薄くしていた。


 私は手巾を巻いた指で柱を撫でる。


「ここは、誰かの家ではありません。でも、帰り道を覚えておく場所です。忘れないで」


 カイル様が近くの旅人に声をかけ、落ちかけた屋根を支える板を借りた。エドヴィン卿は近衛に水を運ばせ、ニルは花をまっすぐに差し直した。


 作業は半刻もかからなかった。


 けれど、祠の屋根が落ち着くと、そこにいた人々が自然と頭を下げた。


「ありがとうございました、家守様」


 誰かがそう言った。


 私は振り返った。


 言ったのは、旅商人の年配の女性だった。彼女は私を魔女ではなく、家守と呼んだ。


 胸の奥が、静かに熱くなる。


「こちらこそ、祠を大切にしてくださってありがとうございます」


 馬車へ戻ると、エドヴィン卿が私を見た。


「王都へ入る前に、よい噂が一つできましたな」


「噂は怖いとおっしゃったのに」


「よい噂も、足場になります」


 カイル様が短く頷く。


「悪くない」


 その言葉に、私は少し笑った。


 王城へ戻る前に、私はもう一度、自分の手を見る。


 この手は、王太子にすがるための手ではない。


 扉に触れ、火を戻し、誰かの帰り道を少しだけ支える手だ。


 王都の門が開く。


 アルクが静かに震えた。


 帰ってきたのではない。


 助けに来たのだ。


 ◇


王城は、遠目にはいつもと同じように美しかった。


 白い石壁。青い屋根。春の日差しを受けて輝く高窓。祝宴の翌日に婚約破棄騒ぎと門扉の家出があったとは思えないほど、外側は整っている。


 けれど、正門の前まで来ると、私はすぐに分かった。


 王城は、息を詰めている。


 アルクが荷台から降りる。王城の正門は片扉を失ったまま、残った側だけで不格好に立っていた。門番たちは私とアルクを見て、顔を引きつらせる。


 アルクは、少し気まずそうに鳴った。


「戻りたくなければ、戻らなくていいのよ」


 私が言うと、アルクは一度だけ揺れた。戻る、というより、様子を見るつもりらしい。


 正門の残った扉が、アルクへ向かって小さく軋んだ。


 責める音ではなかった。


 心配していた、と言う音に聞こえた。


 アルクは、照れたように鉄飾りを鳴らす。


 カイル様がそのやり取りを見て、真面目に言った。


「門同士にも事情があるのだな」


「あります」


「邪魔しない方がいいか」


「少しだけ待ちましょう」


 エドヴィン卿は近衛たちに配置を命じながら、門へ深く礼をした。王城の門は驚いたように揺れたが、すぐに私たちを通した。


 中庭には、いつもより人が少なかった。


 使用人たちは窓の奥からこちらを見ている。騎士も侍女も、表情が固い。私が昨日まで婚約者として歩いていた場所なのに、今はまるで裁きの場へ向かうようだった。


 王城の玄関扉は、私が近づくと静かに開いた。


 その瞬間、城の内側から疲れが流れ込んできた。


 湿った空気。


 眠れていない廊下。


 開け閉めを命じられすぎた扉。


 そして、奥の方にある、黒く薄い穴。


 私は足を止めた。


「リネア嬢?」


 エドヴィン卿が尋ねる。


「王城は、かなり無理をしています。人を困らせるために閉じているのではありません。傷を隠すために、閉じています」


「傷は、どこに」


「殿下の寝室から近いです」


 その言葉で、近衛たちの顔が変わった。


 ユリウス殿下は、王城の東翼にある寝室の前で待っていた。


 待っていた、というより、立ち往生していた。


 昨日の祝宴で見た華やかな上着ではなく、簡素な室内着に外套を羽織っている。髪は整えられているが、目元には疲れがある。廊下の長椅子には毛布が置かれていた。


 扉の前には侍従が二人、困り果てた顔で立っている。


 殿下は私を見るなり、顔を険しくした。


「ようやく戻ったか」


 カイル様が一歩前へ出た。


 私はその横で、静かに礼をした。


「家守として参りました。婚約者として戻ったわけではありません」


 殿下の眉が上がる。


「家守? また妙な言葉を」


 王城の廊下の灯りが、一つ消えた。


 殿下が言葉を切る。


 私は扉へ近づいた。殿下の寝室の扉は、いつも磨かれていた。彫刻も美しく、取っ手には金細工がある。けれど今、その取っ手の根元に黒い痕がある。


 黒い粉。


 潮見町の宿で見たものより、ずっと濃い。


「殿下。この扉が閉じているのは、殿下を困らせるためではありません」


「では、なぜだ」


「中に、入れてはいけないものがあるからです」


「私の寝室だぞ」


「だからです」


 殿下の顔が赤くなる。


「リネア。君は昨日から、私に対する態度を」


「殿下」


 私は扉に手を当てたまま言った。


「昨日、私におっしゃったことを覚えておいでですか」


 廊下が静まり返った。


 殿下は唇を引き結ぶ。


「今は、その話をしている場合ではない」


「今、その話をしなければ、この扉は開きません」


「君が開けさせないのか」


「いいえ。扉が、殿下の声を聞きたくないのです」


 殿下の目が見開かれる。


 私は続けた。


「扉は、昨日の広間で殿下の声を聞きました。私だけではありません。王城も聞きました。十年見てきた相手を、祝宴の中央で辱める声を」


「私は王太子だ。婚約を破棄する権利がある」


「婚約を破棄する権利と、人を傷つけてよい権利は違います」


 声は震えていなかった。


 でも、指先は熱かった。


 殿下は何か言い返そうとした。


 その前に、寝室の扉が内側から小さく鳴った。


 痛い。


 そう言っている。


 私は扉へ顔を寄せた。


「分かりました。先に、傷だけ見ます。殿下を入れるかどうかは、そのあとあなたが決めていい」


 扉は、ほんの少しだけ開いた。


 人が一人通れる幅ではない。


 私の手だけを入れられるほどの隙間だ。


 殿下が息をのむ。


 私は隙間から手を差し入れた。


 中から、冷たい空洞が指先を舐めた。


 思わず手を引きそうになる。


 カイル様が、私の肩に手を置いた。


「無理ならやめろ」


「大丈夫です。まだ、手だけです」


 寝室の内側に、黒い粉が溜まっている。寝台の足元、窓枠、そして床の中央。そこに、王城の小さな記憶が削られて積まれている。


 私は扉へささやいた。


「守ってくれてありがとう。もう少しだけ、耐えて」


 扉が震えた。


 その音は、泣き声に近かった。


 私は手を抜き、殿下を見た。


「この部屋を使った最後の人物は、誰ですか」


 殿下は不機嫌に答えた。


「ヴィクターだ。扉の具合を見せた。昨日の祝宴の前だ」


 エドヴィン卿が目を閉じた。


 証拠はそろいつつある。


 私は殿下へ向き直った。


「殿下。王城に謝ってください」


「何?」


「私にではありません。まず、この扉に」


 廊下にいた者たちが、息をのむ。


 王太子に扉へ謝れと言う令嬢など、昨日までなら笑われただろう。


 けれど、今は誰も笑わなかった。


 寝室の扉は、殿下の返事を待っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ