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第十二話 王城の食堂/クラリス様は泣いていない

ユリウス殿下は、扉に謝らなかった。


 正確には、謝れなかった。


 彼は何度も口を開き、閉じた。侍従も近衛も、カイル様も、私も、何も言わずに待った。王城の廊下まで息を詰めていた。


 けれど殿下の口から出たのは、謝罪ではなかった。


「……後で考える」


 寝室の扉が、静かに閉まった。


 乱暴ではない。


 ただ、今の答えでは足りない、と言うように。


 殿下の顔が赤くなる。怒りと恥ずかしさが混ざった色だった。


「リネア、君は私を侮辱しているのか」


「いいえ。王城が殿下へ、まだ入れないと言っています」


「城が王太子を拒むなど、あってはならない」


「拒まれることをしたからです」


 言ってから、少し強すぎたかもしれないと思った。


 でも、王城の床が温かくなった。


 聞いてほしかったのだ。


 殿下は怒鳴りそうになったが、エドヴィン卿が一歩前へ出た。


「殿下。今は王城の安全確認が優先です。寝室が使えぬなら、別室を用意いたします」


「別室も開かなかったらどうする」


 その問いに、王城の壁が小さく鳴った。


 私は耳を澄ませる。


「食堂なら、開くそうです」


「なぜ食堂だ」


「お腹が空いている人が多いからです」


 廊下にいた侍従の一人が、はっとした顔をした。


 昨日から、王太子の寝室騒ぎで多くの使用人が働き詰めだった。食事をまともに取っていない者もいるのだろう。王城はそれを覚えている。


 殿下は不満そうだったが、エドヴィン卿が促すと、渋々歩き出した。


 王城の食堂は、王族用の小食堂ではなく、使用人たちが休む大きな食堂だった。私は王太子の婚約者として、そこに入る機会がほとんどなかった。王城の不調を見て回るときも、扉の外から様子を聞くことが多かった。


 扉は、私が近づく前に開いた。


 中には、疲れた顔の侍女や侍従、厨房係、下働きの少年少女が集まっていた。皆、私を見ると一斉に立ち上がろうとする。


「座っていてください」


 私は慌てて言った。


「今日は、王城がここを開けたのです。食べるために」


 厨房の女主人が、目を赤くして礼をした。


「リネア様。昨日から火がうまく入らず、湯も沸かせなくて。けれど先ほど、この食堂の暖炉だけが勝手につきました」


 食堂の暖炉には、確かに小さな火があった。


 王城は疲れている。


 それでも、人を温めようとしている。


 私は暖炉の前へ行き、膝をついた。


「ありがとう。でも、無理をしないで」


 火が少し揺れた。


 殿下が後ろで苛立った声を出す。


「使用人の食堂で何をしている。私の寝室の問題は」


 その瞬間、食堂の火が弱くなった。


 私は立ち上がり、殿下を見た。


「殿下。王城は、殿下の寝室だけを守っているわけではありません。ここで働く人たちも守っています」


「それは当然だ。王城なのだから」


「当然だと思っていることほど、礼を言わなくなります」


 殿下は何か言おうとして、食堂の中の視線に気づいたらしい。


 侍女たちは目を伏せている。侍従たちは姿勢を正している。けれど、空気ははっきり固かった。


 昨日までなら、彼らは王太子の不機嫌を避けるために先回りして動いた。今は、王城が彼らを食堂に座らせている。王太子が命じても、扉は彼らを追い出さないだろう。


 殿下は初めて、自分が王城の中で一人だけ特別に扱われていないことを知った顔をした。


 カイル様が食堂の入口に立ち、低く言った。


「食事を出せるか」


 厨房の女主人が頷く。


「簡単なものなら。パンとスープだけですが」


「十分だ。働いた者から食べろ。王太子殿下も、食べるなら並ばれる」


 食堂が静まり返る。


 ユリウス殿下は信じられない顔でカイル様を見た。


「私に並べと?」


「ここは、食事を取る場所です。先に来て働いていた者が先です」


「私は王太子だ」


「空腹は身分を待ちません」


 あまりにまっすぐな言葉に、誰かが小さく吹き出した。


 殿下の顔がまた赤くなる。


 けれど、食堂の扉は開いたままだ。廊下へ戻る道はある。殿下が出ていくなら、出ていける。


 彼は出ていかなかった。


 ぎこちなく、列の最後に立った。


 その姿を見て、食堂の空気が少しだけ揺れた。王太子が初めて使用人の列に並ぶ。それだけで王城の古い空気が動く。


 私は、食堂の壁に手を当てた。


「よかったね」


 壁が、温かくなった。


 スープが配られ、パンが配られる。殿下は不機嫌な顔で木の椀を受け取ったが、何も言わなかった。侍女の一人が震える手で椀を差し出すと、殿下は一瞬だけためらい、低く言った。


「……ご苦労」


 それだけだった。


 謝罪ではない。


 けれど、食堂の火が少し強くなった。


 小さな変化でも、王城は聞き取る。


 食事の途中、私は暖炉の横の壁に黒い痕を見つけた。


 食堂の火が弱った原因は、そこにあった。


 王城の一部が、ここでも削られている。


 しかも、その痕は厨房へ続く廊下ではなく、王族専用通路の方向から伸びていた。


 ヴィクターは、王城の中を自由に歩いている。


 そして、おそらく一人ではない。


 ◇


王城の食堂で見つけた黒い痕は、王族専用通路へ続いていた。


 その通路は、私も婚約者として何度か使ったことがある。祝宴の準備で大広間へ移動するとき、王妃教育のために資料室へ呼ばれたとき、そしてユリウス殿下の機嫌を損ねないよう、侍女に急かされて歩いたとき。


 壁には美しい織物が掛けられ、窓には薄い布が揺れている。


 だが今は、その華やかさの下に黒い筋が走っていた。


 私は指先を近づける。


 空っぽの冷たさ。


 潮見町の宿より深い。王城は大きいから、削られてもすぐには崩れない。けれど、その分だけ長く我慢してしまう。


「ここを通った者は限られる」


 エドヴィン卿が言った。


「王族、王族付きの侍従、許可を受けた職人、そしてクラリス嬢」


 その名が出たとき、ユリウス殿下が顔を上げた。


「クラリスを疑うのか」


「事実を確認するだけです」


「彼女は優しい女性だ。君たちのように、城を脅しに使う女ではない」


 殿下の言葉に、王城の壁が冷たくなる。


 私は一瞬だけ目を閉じた。


 まただ。


 殿下は、誰かを褒めるために誰かを傷つける。たぶん悪意だけではない。彼にとって人は、自分にとって心地よい役割で見えている。優しいクラリス。奇妙なリネア。仕える使用人。従う城。


 その枠から外れたとき、どう扱えばいいのか分からないのだ。


「殿下。私はクラリス様を疑っているわけではありません」


「では」


「クラリス様が何を見て、何を見なかったことにしたのかを聞きたいのです」


 殿下は不満そうだったが、エドヴィン卿がすでに人を呼んでいた。


 クラリス様は、東翼の小部屋にいた。


 昨日の祝宴のような華やかなドレスではなく、淡い青の簡素な衣を着ている。金髪はきちんと結われていたが、顔色は悪かった。


 彼女は私を見ると、椅子から立ち上がった。


「リネア様……」


「お話を伺いに来ました」


 私はできるだけ穏やかに言った。


 クラリス様は、ユリウス殿下の腕に添えていた昨日の勝ち誇った指を、今は自分の袖の中に隠していた。


 部屋の中には、甘い光が満ちている。


 香りではない。


 妖精の祝福と呼ばれる、彼女の力だ。人の心を少し和らげ、不安を薄くする。祝宴では、その光が彼女を可憐に見せていた。


 けれど今見ると、その光は壁の黒い痕を覆い隠す膜のようにも見えた。


「クラリス様。ヴィクター・カンドルフと会いましたか」


 彼女の肩が震える。


「はい」


 ユリウス殿下が声を荒げた。


「クラリス、なぜ黙っていた」


「殿下が、お忙しそうだったので」


「私に言えばよかった」


 クラリス様は笑おうとした。


 けれど、笑みの形が崩れた。


「言えませんでした。ヴィクター様は、王城がリネア様に甘やかされているから、殿下を軽んじているのだと仰いました。王太子が本当の主であることを、城に思い出させる必要があると」


「それは」


「私も、そうなのかもしれないと思いました」


 部屋が静かになる。


 クラリス様は涙を流していなかった。


 ただ、泣くことを許されていない人の顔をしていた。


「私は男爵家の娘です。殿下に選ばれたと言われても、皆が私を見る目は分かっていました。リネア様から奪った女だと。王妃になるには足りない女だと。だから、ヴィクター様に言われたとき、少し安心してしまったのです」


「何を」


「リネア様が悪いのだと。城がリネア様に懐きすぎているのだと。そう思えば、私がここにいる理由ができる気がしたのです」


 ユリウス殿下は言葉を失っていた。


 彼にとってクラリス様は、優しく、自分を慕い、責めない女性だった。その彼女が、安心したかったから見ないふりをした、と言っている。


 私は彼女の責任を軽くするつもりはなかった。


 けれど、彼女だけを悪者にすれば、また同じことになる。


「ヴィクターは、何をしましたか」


「この光を使うように、と」


 クラリス様は自分の手を見た。


「廊下や扉が騒いでも、皆が不安にならないように。殿下が落ち着いて判断できるように。私は、王城を傷つけるつもりではありませんでした。ただ、皆の不安を薄くするだけだと」


 私は部屋の壁に触れる。


 黒い痕の上に、甘い光が薄くかかっている。


 傷を癒やすのではなく、見えにくくしている。


「不安は、悪いものではありません」


 私が言うと、クラリス様は顔を上げた。


「不安だから、人は危ない場所から離れます。痛いから、建物は助けを求めます。それを全部薄くしてしまうと、壊れていることに気づけません」


 クラリス様の唇が震えた。


「私は、また余計なことをしたのですね」


「余計なことではありません。けれど、使い方を間違えたのだと思います」


 彼女は初めて、目に涙を浮かべた。


 でも、その涙は落ちなかった。


 ユリウス殿下が一歩近づこうとする。


 クラリス様は、反射的に下がった。


 殿下の足が止まる。


 その小さな距離に、二人の関係の今が見えた。


 クラリス様は私を見た。


「リネア様。私は、どうすれば」


「まず、光を止めてください。王城が痛がっている場所を、見えるようにしたいのです」


「止めると、皆が不安になります」


「不安になっても、ここには人がいます。扉も、壁も、見捨てません」


 クラリス様は長く息を吸い、手を胸の前で重ねた。


 部屋を包んでいた甘い光が、ゆっくり薄くなる。


 その瞬間、王城の壁が震えた。


 隠されていた黒い痕が、通路の奥まで一気に浮かび上がる。


 ユリウス殿下が青ざめた。


 黒い筋は、王族専用通路を越え、地下へ向かっている。


 クラリス様は、それを見てようやく涙を落とした。


「こんなに、傷ついていたの……?」


 王城の壁が、小さく鳴った。


 責めている音ではなかった。


 やっと見てくれた、という音だった。

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