第十三話 叱られた廊下/王太子の謝れない口
クラリス様の光が薄れると、王城の廊下はまったく違う顔を見せた。
美しい織物の裏、飾り柱の根元、絨毯の端。そこに、黒い粉が細く残っている。今までは光に紛れ、ただの影に見えていたものだ。
王城は、こんなにも長く隠されていた。
私は廊下へ膝をつき、絨毯の端を持ち上げる。
下の床石に、黒い杖の先で引いたような傷があった。
「ヴィクターは、この傷を道にしています」
私が言うと、エドヴィン卿が身をかがめた。
「道?」
「建物の記憶を削って、黒い粉を運ぶ道です。人が歩く廊下とは別に、建物の内側を通る道を作っている」
カイル様が壁へ目を向ける。
「だから見つかりにくいのか」
「はい。人の目では、ただの小さな傷に見えます」
ユリウス殿下は黙っていた。
さっきから、彼は何度も口を開きかけては閉じる。謝罪を求められたときと同じだ。ただし今は怒りより、分からなさが勝っているように見えた。
クラリス様は少し離れた場所で、侍女に支えられている。光を止めたせいか、顔色が悪い。
「クラリス様、座っていてください」
「いいえ。見ます」
彼女は涙を拭いた。
「私が見ないふりをしたものですから」
その言葉に、王城の廊下が少しだけ温かくなった。
見ようとする人を、王城は嫌わない。
黒い痕は、東翼の奥にある古い廊下へ続いていた。
そこは王族でもあまり使わない場所だ。古い肖像画が並び、窓は細く、昼でも薄暗い。私は王妃教育の途中で何度か通ったことがあるが、そのたびに侍女から急かされた。
長く立ち止まる場所ではない、と。
今思えば、王城はそのときから私に何かを知らせようとしていたのかもしれない。
廊下へ入ると、足元の床石がぎしりと鳴った。
石なのに、木の床のような音がする。
「怒っています」
「誰に」
カイル様が尋ねる。
「たぶん、全員に」
エドヴィン卿が近衛たちを止めた。
私は廊下の入口で手をついた。
「ごめんなさい。今まで、ここをちゃんと見ませんでした」
床石がもう一度鳴る。
強い音だった。
叱られている。
私はその場に膝をついたまま、少し待った。
こういうとき、すぐ言い訳をしてはいけない。建物も人も、怒っている理由を聞いてもらう前に説明されると、余計に閉じる。
廊下の奥から、冷たい風が流れてきた。
その風に、昔の声が混じる。
子どもの泣き声。
女性の急ぐ足音。
男の怒鳴り声。
そして、扉が閉まる音。
ユリウス殿下が顔をしかめた。
「何だ、この音は」
「廊下が覚えている声です」
「なぜ、こんなものを」
「叱られたからです」
私は床石に手を置いた。
「ここは、通るたびに叱られてきた廊下です。うるさい、暗い、古い、湿っぽい。早く直せ、早く隠せ。誰も、なぜそうなったのか聞かなかった」
廊下の壁に掛けられた肖像画が、一枚だけ傾いた。
そこには、幼い王子を抱いた女性が描かれていた。顔立ちは今の王家に似ているが、私の知らない時代の人だ。
絵の下にある銘板は、黒く汚れて読みにくい。
クラリス様が震える声で読んだ。
「エリアナ王妃……三百年前の方です。幼い王子とともに病で亡くなったと」
廊下が、強く鳴った。
違う。
そう言っている。
私は肖像画の額に触れた。
冷たい記憶が流れ込む。
病ではない。
地下へ連れていかれた。
幼い王子を守ろうとして、この廊下を走った。
扉が閉じ、声が消えた。
そのあと、王城はこの廊下を暗くした。誰も同じ場所を通らないように。
「ここで、何かが隠されています」
私の声は低くなっていた。
ユリウス殿下が青ざめる。
「王家の記録では、病だ」
「廊下は違うと言っています」
「廊下など」
言いかけた殿下の足元で、床石が強く鳴った。
殿下は黙った。
カイル様が肖像画の裏を調べる。額の裏に、小さな鍵穴のようなものがあった。ただし、鍵を差す場所ではない。石片をはめるための窪みだ。
私はアルクを呼んだ。
アルクは小さな門の姿で廊下へ入り、肖像画の前で止まった。鉄飾りから、灰色の石片が一つ浮かび上がる。
灰鴎城の東棟で見つけた、家守の印の石片と同じ形だった。
窪みにはめると、壁の奥で何かが外れる音がした。
肖像画がゆっくり横へ動く。
奥には、細い階段が下へ続いていた。
王城が長く隠してきた地下への道。
階段の奥から、黒い冷たさが上がってくる。
そして、その冷たさの中に、赤い灯が三つ見えた。
アルクが震える。
家出した門扉が、最初に私へ見せた赤い灯だ。
王城の本当の傷口は、この下にある。
◇
地下へ続く階段を前にして、ユリウス殿下は動かなかった。
近衛たちは明かりを用意し、エドヴィン卿は人員を絞るよう指示している。カイル様はすでに外套の留め具を外し、動きやすいよう整えていた。
けれど殿下は、肖像画の前に立ったまま、階段を見下ろしていた。
「殿下」
エドヴィン卿が声をかける。
「ここから先は危険です。殿下は上でお待ちください」
「私の城だ」
殿下は低く言った。
「王城の地下へ、私が入れないなど」
「所有の問題ではありません」
私は思わず言った。
殿下が私を見る。
「またそれか」
「はい。またそれです」
言いながら、自分でも少し驚いた。昨日までの私なら、同じことを繰り返すだけで殿下を苛立たせるのではないかと考えただろう。今は、苛立たせても必要なら言うと思っている。
「王城は殿下の住まいで、王家の象徴です。でも、それだけではありません。ここで働く人がいて、ここで亡くなった人がいて、ここに戻りたかった人がいます」
「分かっている」
「いいえ。殿下は、分かっていると言えば終わると思っておられます」
廊下の空気が張った。
カイル様が私の横に立つ。
止めるためではなく、何かあれば支えるために。
殿下は私を睨んだ。
「君は、婚約を破棄された腹いせに私を責めているのか」
胸が少し痛んだ。
その言葉は、まだ効く。
十年分の我慢は、昨夜ひと晩で消えるわけではない。殿下に冷たく言われると、どこかで自分が悪いのではないかと考える癖が残っている。
でも、私はもう一人で廊下に立っていない。
王城が聞いている。
灰鴎城から来たアルクが震えている。
カイル様が隣にいる。
「腹いせなら、私はここへ来ません」
私はゆっくり答えた。
「王城が苦しんでいるから来ました。殿下が謝れないままでも、王城は助けます。ただ、殿下が謝れないなら、王城は殿下を信じるのに時間がかかります」
「扉に謝るなど、馬鹿げている」
「では、私に謝ってください」
言った瞬間、自分の声が廊下に落ちるのが分かった。
殿下は固まった。
私も、少しだけ息が止まった。
扉ではなく、私に。
私はそれを、自分から求めた。
王城が、静かに温かくなる。
「昨日、殿下は私を祝宴の中央で辱めました。城にしか愛されない女だと笑わせました。婚約を破棄することは、殿下の選択です。ですが、その言い方は、私を傷つけました」
殿下の目が揺れる。
「君は、傷ついたように見えなかった」
「見せなかっただけです」
廊下の奥で、誰かが息をのむ。
たぶん、クラリス様だった。
殿下は初めて、困った顔をした。
怒りではなく、どうすればいいか分からない顔。
「私は……」
彼は言葉を探した。
探して、見つけられず、唇を噛んだ。
「私は、君が私を見ていないと思っていた。いつも城ばかり見ていた。私の隣にいても、壁や床に気を取られて」
「殿下の隣にいたから、王城の不調を見ていました」
「それが嫌だった」
声は小さかった。
子どものような言い方だった。
「私は王太子なのに、君は私より城を大事にしているように見えた。クラリスは、私を見てくれた。だから」
「だから、私を辱めてよいとはなりません」
「分かっている」
「分かっている、ではなく」
殿下は目を閉じた。
長い沈黙のあと、彼はぎこちなく頭を下げた。
「……昨日の言葉は、言い過ぎた。すまなかった」
謝罪としては、不器用で、足りないところも多い。
けれど、殿下の口から初めて出た謝罪だった。
王城の廊下が、ふっと息を吐いた。
寝室の方向で、遠く扉が一つ開く音がした。
私は深く息を吸う。
「受け取りました」
許しました、とは言わなかった。
まだそこまでではない。
でも、受け取ることはできる。
殿下は顔を上げ、少し疲れたように笑った。
「君は、そんなに厳しい女だったか」
「たぶん、今まで言わなかっただけです」
「そうか」
彼は階段へ目を向けた。
「私も行く」
エドヴィン卿が口を開きかける。
殿下は先に言った。
「王太子としてではなく、この城に謝った者として。駄目なら、城が止めるだろう」
王城の階段はしばらく黙っていた。
やがて、一段目だけが淡く光る。
入ってよい。
ただし、慎重に。
私は頷いた。
「では、殿下。階段を踏む前に、礼をしてください」
「またか」
「またです」
殿下は不満そうにしながらも、階段へぎこちなく礼をした。
王城の地下へ続く道が、少しだけ明るくなった。




