第十四話 地下の赤い灯/石守長ヴィクター
王城の地下階段は、長かった。
上から見えた赤い灯は近そうに思えたのに、降りても降りても距離が縮まらない。壁はむき出しの石で、ところどころに古い水の跡がある。王城の華やかな上階とは違い、ここには飾りがほとんどなかった。
先頭はエドヴィン卿と近衛二人。
その後ろに私、カイル様、ユリウス殿下、クラリス様。アルクは小さな門になって、私の背後を静かについてくる。
クラリス様は本来なら上で休むべきだった。けれど、彼女は来ると言った。自分の光が覆っていた傷を、最後まで見たい、と。
殿下は何か言いかけたが、止めなかった。
階段を半分ほど降りたところで、王城の記憶が壁から滲み出した。
小さな足音。
女性の息遣い。
赤子の泣き声。
そして、男たちの低い声。
クラリス様が肩を震わせる。
「これは、三百年前の……」
「おそらく」
私は壁に触れた。
エリアナ王妃と幼い王子。
病で亡くなったとされていた二人は、地下へ連れていかれた。なぜかはまだ分からない。けれど王城は、それを覚えている。
さらに降りると、空気が急に広がった。
地下の大空間に出たのだ。
天井は高く、柱が何本も並んでいる。王城の土台を支える場所だ。中央には巨大な灰色の石があった。石というより、城の心臓のように見える。表面には淡い光が走り、脈打つようにゆっくり明滅していた。
礎石。
王城が立つための中心。
その周りに、赤い灯が三つ浮いていた。
赤い灯は炎ではない。石の表面に穿たれた穴の奥から、血のような光が漏れている。穴の縁には黒い粉が溜まり、そこから細い筋が床へ伸びていた。
私は息をのむ。
「削られている」
カイル様が低く言った。
「これほど大きな石を、誰が」
「ヴィクターです。たぶん、一度に削ったのではありません。少しずつ、王城に気づかれないように」
「城が気づかないこともあるのか」
「痛みが隠されていると、気づくのが遅れます。人と同じです」
ユリウス殿下は礎石を見上げたまま、顔色を失っていた。
王城は、彼にとって権威の器だった。自分を守り、飾り、従うもの。その中心が傷ついている光景は、彼の中の何かを崩したのだろう。
「私は、こんな場所を知らなかった」
「王族でも、入れる人は限られていたのでしょう」
「私は王太子だ」
いつもの言葉だった。
でも、今は言い訳ではなく、悔しさに聞こえた。
私は礎石へ近づいた。
カイル様がすぐ隣に来る。
「触れるか」
「触れないと、分かりません」
「なら、支える」
私は頷き、手袋を外した。
礎石へ手を当てる。
その瞬間、王城の記憶が流れ込んできた。
王たちの戴冠。
王妃たちの祈り。
戦の知らせに震える夜。
飢饉の年に、厨房で薄い粥を作る手。
新しい王子が生まれて、廊下を走る侍女たち。
そして、地下で泣くエリアナ王妃。
彼女は、幼い王子を抱いていた。
周りには、古い衣を着た男たちが立っている。その一人が、礎石へ小さな刃を当てた。
刃の先が黒い。
ヴィクターの杖と同じ色だ。
王妃は叫んだ。
声は聞こえない。
けれど、唇の形だけが見えた。
この子を、城にしないで。
私は手を離した。
息が荒くなる。
カイル様が私の背中を支えた。
「何を見た」
「三百年前、王城の礎石に、人の記憶が入れられました。王族の、幼い子の記憶が」
クラリス様が口元を押さえる。
ユリウス殿下は、信じられない顔をした。
「そんなことが」
「だから王城は、人の心を覚えすぎているのかもしれません。王家を守るために、人の帰りたい気持ちを閉じ込められた」
礎石が震えた。
王城は否定しなかった。
エドヴィン卿が低く言う。
「ヴィクターは、その仕組みを知っているのか」
「知っていると思います」
私は赤い穴を見る。
「そして今、王城からその記憶を削り取って、別の場所へ移している」
その言葉が落ちた瞬間、地下の奥で拍手の音がした。
ゆっくり、乾いた音。
全員が振り返る。
柱の陰から、細身の男が現れた。
黒い杖を持ち、灰色の上着を着た男。穏やかな顔で、まるで王城の案内役のように礼をする。
「見事です、リネア・ファルスター嬢。やはり家守の血は、まだ枯れていなかった」
ヴィクター・カンドルフ。
王城を直すはずの男が、傷口の前で微笑んでいた。
◇
ヴィクター・カンドルフは、逃げようとしなかった。
近衛たちが剣に手をかけ、エドヴィン卿が前に出る。それでも彼は、黒い杖を床についたまま、穏やかに微笑んでいた。
「剣を抜く必要はありません。ここで争えば、王城の礎石に余計な傷がつきます」
その言葉で、近衛たちが一瞬ためらう。
彼は、そのためらいを知っていた。
カイル様が私の前に半歩出る。
「なら、杖を置け」
「これは石守の道具です。置くわけにはいきません」
「石を守る者が、石を削ったのか」
「守るためです」
ヴィクターは平然と答えた。
私は彼を見た。
痩せた顔、細い指、黒い杖。目は冷たいが、狂っているようには見えない。それがかえって怖かった。
「王城は苦しんでいます」
「ええ。だから、苦しみを終わらせようとしている」
「削って?」
「古い城は、余計なものを覚えすぎる。誰が泣いた、誰が帰りたかった、誰が扉を叩いた。そんなものを抱え込むから、王を拒み、使用人に同情し、婚約を破棄された令嬢についていく」
アルクが低く鳴った。
ヴィクターは面白そうに目を細める。
「正門の片扉が家出するなど、王城の威厳に関わる。けれど、実に貴重な現象です」
「アルクを物のように言わないでください」
「門は物です」
その言葉に、王城の地下が冷える。
ヴィクターは気にしない。
「物は、人に仕えるためにある。城は王に従うためにある。家は住む者を守るためにある。そこに余計な意思があれば、かえって人を傷つける」
「あなたは、潮見町の宿を傷つけました」
「一時的な採取です。あの程度なら、あなたが戻せると見込んでいました」
私は手を握った。
怒りで指先が熱くなる。
人が暮らす宿を、試しのように削った。ニルの叔母が怯え、宿の記憶が薄れ、町の人が不安になった。それを「あの程度」と言う。
カイル様の声が低くなる。
「領内の町を使ったな」
「王国全体のためです、ローデン卿。北西の小さな宿一つより、王城の安定が重い」
「王城を壊しておいて、安定か」
「今の王城は安定していません。王族の感情、使用人の不満、古い死者の記憶、家守の娘への執着。あまりに雑多です。私は、それらを整理している」
整理。
その言葉が、ひどく冷たかった。
人の生活を、建物の記憶を、痛みを、便利な材料のように並べ替える。彼にとって城は、美しく従う器でなければならないのだ。
ユリウス殿下が一歩前へ出た。
「ヴィクター。君は私に、王城を従わせる方法だと言った」
「そうです。王太子殿下が王となるには、城の忠誠が必要です」
「これは、忠誠ではない」
ヴィクターの微笑がわずかに変わった。
殿下の声は震えていたが、逃げてはいなかった。
「私は、王城が私を拒んだことに腹を立てた。だが、王城を傷つけろとは命じていない」
「命じる必要はありません。殿下の望みを、私が先に整えたまで」
「勝手なことをするな」
短い言葉だった。
けれど、王城の礎石が少し明るくなった。
ヴィクターは殿下を見た。
「殿下は、まだお若い。情に揺れるのは当然です。ですが、王は揺れてはいけない。城もまた、揺れてはいけない」
「揺れないものは、生きていません」
私が言うと、彼は初めて私へ強い視線を向けた。
「生きていないからこそ、城は美しいのです」
「いいえ。生きているから、帰る場所になります」
地下の空気が震える。
王城の壁、柱、礎石。すべてが、私たちの言葉を聞いている。
ヴィクターは静かに笑った。
「家守らしい言い分です。三百年前も、そういう女がいました。エリアナ王妃です。彼女は、城に心を与えれば王家は守られると信じた。結果、王城は王族にさえ逆らう怪物になった」
「違います。エリアナ様は、子どもを城にしないでと言っていました」
ヴィクターの目が細くなる。
「そこまで見ましたか」
私は息を整える。
「あなたは、何を作ろうとしているのですか」
「王国にふさわしい新しい城です」
彼は黒い杖で床を軽く叩いた。
地下の黒い筋が赤く光る。
「人の感情に振り回されず、王だけに従い、古い記憶を抱え込まない空の城。私はそれを、空殿と呼んでいます」
空殿。
その名を聞いた瞬間、王城の礎石が強く震えた。
アルクが私の足元へ寄る。
ヴィクターは礼儀正しく頭を下げた。
「材料は、もう十分に集まりつつあります。王城の一部、宿場の家、祠、使われない納屋、忘れられた部屋。帰る場所としての記憶を抜けば、建物は従順になる」
「そんなものは、城ではありません」
「あなたにはそうでしょう。ですが王国には必要です」
彼の杖が、もう一度床を叩く。
黒い筋が壁を走った。
近衛が動こうとした瞬間、地下の奥から無数の扉が閉まる音が響いた。
ヴィクターの姿が、柱の影に溶けるように薄くなる。
「またお会いしましょう、家守令嬢。あなたが城を慰めるほど、私はその記憶の価値を確信します」
「待ちなさい!」
私は叫んだが、彼は消えた。
残ったのは、赤く光る三つの穴と、王城の震えだけだった。
空殿。
帰る場所を持たない、空の城。
それを作るために、彼は王国中の家を削っている。




