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第十五話 家守令嬢は、命令を断る/灰鴎城からの悲鳴

ヴィクターが消えたあと、王城の地下には重い沈黙が残った。


 近衛たちは周囲を調べ、エドヴィン卿は地下通路の出口を押さえるよう命じた。けれど、ヴィクターは人の通路を使って逃げたわけではない。建物の内側に作った黒い道を通ったのだ。


 私は礎石の前に座り込んだ。


 手のひらがまだ痺れている。王城の記憶を受けたせいだ。三百年分の痛みは、触れた者の中にも少し残る。


 カイル様が水筒を差し出した。


「飲め」


「ありがとうございます」


「立てるか」


「少ししたら」


「なら、少し座れ」


 その会話を聞いて、ユリウス殿下が複雑そうな顔をした。


 王城で、彼が私に「休め」と言ったことはほとんどなかった。私も、休むと言ったことがなかった。婚約者としての務めと、王城の世話を両方こなして、疲れても当然の顔で立っていた。


 それが正しいと思っていた。


 今は、違うと分かる。


 地下から戻ると、王城ではすでに大騒ぎになっていた。


 ヴィクターが王城を傷つけていたこと。王城の礎石が削られていたこと。空殿という新しい城の計画。どれも、王家にとっては隠したい話だろう。


 けれど隠している余裕はなかった。


 王城そのものが、もう隠したがっていない。


 王は小会議室に私たちを呼んだ。


 陛下は疲れた顔をしていた。昨日の祝宴では威厳ある王として玉座にいた人が、今日は老いた一人の父親のように見える。


「リネア嬢」


 彼は重く口を開いた。


「王城の不調を鎮めてほしい」


「鎮める、とは」


「扉を開かせ、通常の機能を戻す。王城は王国の中心だ。混乱が長引けば、外へ示しがつかぬ」


 私は静かに息を吸った。


 カイル様が隣にいる。エドヴィン卿も、ユリウス殿下も、クラリス様も同席していた。


「陛下。王城は、ただ拗ねているわけではありません。傷ついています。閉じている扉には、理由があります」


「分かっている。だから、そなたが」


「いいえ」


 私は王の言葉を遮った。


 室内の空気が止まる。


 王の言葉を遮るなど、王太子の婚約者だったころなら考えもしなかった。


 でも今、私は家守としてここにいる。


「私は、王城を従わせることはしません」


 陛下の目が細くなる。


「従わせる、ではない。秩序を戻すのだ」


「王城が痛いと言っている場所を塞ぎ、傷を隠し、何事もなかったように扉を開かせるなら、それは従わせることです」


「王城は王家の城だ」


「王家だけの城ではありません」


 その瞬間、小会議室の窓がかすかに震えた。


 陛下は窓を見た。


 王城が聞いている。


 私は続けた。


「ここで働く人々の城でもあります。ここに保護を求める民の城でもあります。三百年前に声を消された人々の記憶も、ここにあります。王城を元に戻すなら、それらを見ないふりはできません」


 陛下は長く黙った。


 その沈黙の中で、ユリウス殿下が小さく言った。


「父上。リネアの言う通りです」


 陛下の視線が、息子へ向かう。


 殿下は肩を強張らせたが、逃げなかった。


「私は、王城が私を拒んだことに腹を立てました。だが、地下を見ました。あれを、なかったことにはできません」


 クラリス様も、膝の上で手を握りしめた。


「私も、隠していました。王城が痛がっているのを、柔らかい光で見えなくしてしまいました。もう、同じことはしたくありません」


 陛下は目を閉じた。


 老いた顔が、さらに疲れて見えた。


「では、どうする」


「条件があります」


 私は言った。


「第一に、王城の傷を調べる間、使用人と職人に休息と安全を保証してください。第二に、ヴィクター・カンドルフの権限を停止し、彼が関わった補修をすべて見直してください。第三に、三百年前のエリアナ王妃と王子の件を調査してください」


 陛下の顔が険しくなる。


「王家の古い記録に踏み込むつもりか」


「王城の傷ですから」


 私はまっすぐ見返した。


「そして第四に、私を王太子殿下の婚約者へ戻す話を二度と持ち出さないでください」


 室内が凍った。


 ユリウス殿下が息をのむ。


 カイル様は何も言わなかった。けれど、彼の気配がわずかに変わった。驚いたのではなく、私の決断を確認するような静けさだった。


 陛下は低く言った。


「そなたは、王家との縁を完全に切るのか」


「婚約者としての縁は、殿下が切りました。私は、家守として王城に関わります」


「褒美は」


「不要です」


「爵位や地位も?」


「必要なら、作業に必要な権限だけをください。私自身を飾るものはいりません」


 王城の壁が温かくなった。


 陛下は、私から視線を外し、カイル様を見た。


「ローデン卿。そなたは、この令嬢を後見するつもりか」


「後見ではありません」


 カイル様は短く答えた。


「彼女は自分で立っています。私は、必要なら隣に立つだけです」


 その言葉に、胸の奥が熱くなった。


 陛下は長い息を吐いた。


「……よかろう。条件を一部認める。古い記録については、範囲を定める」


「範囲を隠すために使わないでください」


「厳しいな、家守令嬢」


「城に叱られましたので」


 小会議室の窓が、こつんと鳴った。


 陛下はそれを見て、初めて少しだけ苦笑した。


 そのとき、アルクが突然強く鳴った。


 鉄飾りが激しく動き、地図を映す。


 王城ではない。


 灰鴎城。


 北西の古い城に、黒い筋が走っている。


 カイル様の顔色が変わった。


「灰鴎城が、襲われている」


 王都の問題は終わっていない。


 けれど、私の帰る場所になりかけていた城が、今まさに閉じようとしていた。


 ◇


アルクの地図に映った灰鴎城は、黒い筋に囲まれていた。


 城壁の北側、東棟、厨房の煙突、そして正面玄関。黒い点がいくつも灯り、そこから線が伸びている。王城の地下で見た傷と同じだ。


 カイル様は一瞬で動いた。


「エドヴィン卿、王都側の調査は任せる。私は戻る」


「承知した。近衛二名を同行させる」


「不要だ。王都を固めろ」


「ヴィクターが北西へ向かったなら、途中で捕捉できる可能性が」


「彼は道を歩かない」


 カイル様の声は低く、鋭かった。


 私はアルクへ手を当てる。


「灰鴎城、聞こえる?」


 地図の黒い線が揺れた。


 遠くから、軋む音が返ってくる。


 痛い。


 怒っている。


 それ以上に、誰かを守ろうとして焦っている。


「ニルは?」


 カイル様が言った。


 アルクの地図で、厨房の近くに小さな光がある。ニル、マルタさん、セルムさん。何人かの使用人が厨房に集まっているようだ。火はまだ消えていない。


 けれど東棟の光が弱い。


 直したばかりの子ども部屋だ。


「戻ります」


 私は言った。


 ユリウス殿下が驚いたようにこちらを見る。


「今すぐか? 王城の地下は」


「王城は、今すぐ崩れる状態ではありません。灰鴎城は、今、人が中にいます」


「だが」


「殿下」


 私は彼を見る。


「王城も、灰鴎城へ行けと言っています」


 小会議室の扉が開いた。


 何も触れていないのに、静かに。


 王城は私たちを引き止めなかった。


 むしろ、急げと廊下の灯りを順にともしている。


 ユリウス殿下はその光を見て、口を閉ざした。


 クラリス様が一歩前へ出る。


「私も行きます」


「危険です」


「私の光が、黒い傷を見えにくくしてしまった。今度は、見えるようにします。人の不安を消すのではなく、暗い場所を照らすだけなら、できるかもしれません」


 彼女の声は震えていた。


 でも、逃げていない。


 私は頷いた。


「お願いします。ただし、無理をしたら止めます」


「はい」


 ユリウス殿下が何か言いたげにクラリス様を見る。彼女はその視線に気づいたが、今回は殿下の返事を待たなかった。


 自分で決めたのだ。


 王城の正面へ向かう途中、使用人たちが廊下に出てきた。誰も大声を出さない。ただ、私たちの通る道を開けてくれる。


 食堂でスープを配っていた侍女が、小さく言った。


「リネア様。お気をつけて」


「ありがとうございます。王城を、お願いします」


 彼女は驚いた顔をした。


 今まで、使用人に王城をお願いした王太子の婚約者はいなかったのだろう。


 けれど彼女はすぐ頷いた。


「はい。暖炉の火を見ておきます」


 王城の廊下が温かくなった。


 玄関へ出ると、アルクが大きくなった。


 人が二人並んで通れるほどの門になる。鉄飾りが震え、門の向こうに灰鴎城の玄関広間がぼんやり映った。


 転移のようなものだ。


 けれど、アルク一人では無理をしている。王城の正門の片扉であり、灰鴎城に馴染み始めた門だからこそ、二つの城をつなげるのだろう。


「アルク、無理はしないで」


 アルクが短く鳴る。


 無理をしてでも通せ、と言っている。


 カイル様が私を見る。


「行けるか」


「はい」


「手を」


 彼が手を差し出した。


 私は一瞬だけ迷い、その手を取った。


 温かい手だった。


 クラリス様、カイル様、私、そしてアルク。近衛は王城に残り、エドヴィン卿が玄関で礼をする。


「ご武運を」


 王城の玄関扉が、大きく開いた。


 アルクの門をくぐった瞬間、足元が揺れた。


 冷たい海風。


 煙の匂い。


 誰かの悲鳴。


 次の瞬間、私たちは灰鴎城の玄関広間にいた。


 そこは、朝見た温かな城ではなかった。


 壁には黒い筋が走り、階段の手すりは震え、東棟へ続く廊下は半分閉じている。厨房の方からマルタさんの怒鳴り声が聞こえた。


「鍋を持って逃げるんじゃないよ! 火を消す方が先だ!」


 少し安心した。


 マルタさんは無事だ。


 ニルの声も聞こえる。


「リネア様!」


 彼が厨房の入口から走りかけ、床の揺れに慌てて止まる。


「動かないで!」


 私が叫ぶと、ニルはその場で固まった。


 黒い筋は、東棟から伸びていた。


 直したばかりの子ども部屋。


 泣けるようになった部屋が、また閉ざされようとしている。


 カイル様の顔が硬くなる。


「灰鴎城」


 彼は城壁へ向かって、低く呼んだ。


「戻った。誰も置いていかない」


 その声に、城全体が震えた。


 怒りではない。


 ほっとしたような震えだった。


 私は靴を脱ぎ、冷たい床へ足を置いた。


「聞こえます。今度は、一緒に守りましょう」


 黒い筋の奥で、ヴィクターの声が微かに響いた。


「では、どこまで守れるか見せていただきましょう」


 灰鴎城の夜が、黒く開いた。

第二章はここから反撃編に入ります。王城側のざまぁだけで終わらず、灰鴎城・港町・王都をつなぐ本筋へ進みます。応援いただけると大変励みになります。

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