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第十六話 東棟を閉じる黒い楔/厨房の火を守る

黒い筋は、東棟の床を縫うように走っていた。


 王城で見たものより荒い。細い杖で丁寧に引いた傷ではなく、外から無理やり打ち込まれたものだ。まるで、城を閉じるための楔を床下へ打ち込まれたようだった。


 灰鴎城は、怒っている。


 同時に、怖がっている。


 私が足を置くと、床が震えた。


「大丈夫。痛いところは踏まない」


 そう言うと、震えが少しだけ収まる。


 東棟へ向かう廊下の入口には、トマさんが道具箱を抱えて立っていた。彼は額に汗を浮かべ、しかし逃げてはいない。


「リネア様、床下で何かが鳴ってます。釘じゃない。石でもない。あんな音、聞いたことがない」


「黒い楔です。たぶん、城の記憶を外へ引き抜くための」


「引き抜く?」


「部屋が自分を覚えている力を、釘のようなもので留めて、外へ流しているのだと思います」


 トマさんは顔をしかめた。


「人の家に、悪趣味なことをする」


「はい」


 その単純な怒りが、ありがたかった。


 魔法だとか、王城の陰謀だとか、難しい言葉で考える前に、人の家に悪趣味なことをする、で十分な場面がある。


 私は廊下の奥を見た。


 子ども部屋の扉が半分閉じている。昨日直した床板が、黒い筋に縁取られていた。窓からは海風が入り、剥がれかけた壁紙の船が揺れている。


 ニルが厨房の方から叫んだ。


「ぼくも行きます!」


「だめです」


「でも、あの部屋は」


「あなたが昨日助かった部屋です。だから、今度はあなたを守る側に回します。厨房で火を見ていて」


 ニルは悔しそうだったが、マルタさんに肩を押さえられた。


「火を守るのも大事な仕事だよ。泣くなら鍋を見ながら泣きな」


「泣いてません」


「そうかい。じゃあ、目から出てるのは海水だね」


 こんな時でも、マルタさんはマルタさんだった。


 クラリス様が私の隣に来る。


「私は、どこにいれば」


「黒い筋が見えにくくなったら、光を当ててください。不安を消すのではなく、隠れているものだけを照らすように」


「やってみます」


 彼女の手が淡く光った。


 昨日の祝宴で見た、甘く人を包む光ではない。細く、月明かりのような光だ。廊下の床をなぞると、黒い筋の一部が浮かび上がる。


 黒い楔は、床下に三本あった。


 一つは子ども部屋の入口。


 一つは廊下の曲がり角。


 最後の一つは、壁の内側、昔の暖炉跡に打ち込まれている。


 トマさんが歯を食いしばる。


「抜けばいいんですか」


「ただ抜くと、部屋の記憶も一緒に剥がれます。先に、ここがどんな部屋だったか思い出させます」


 私は子ども部屋へ入った。


 床は昨日より冷たい。黒い筋が、泣けるようになった部屋の涙まで吸い上げようとしている。


「ここは、子どもが眠った部屋です」


 私はゆっくり言った。


「海を見た部屋。船の絵を壁に貼った部屋。泣いてもよい部屋。戻らない子を待っていた部屋。でも、待つだけの部屋ではありません」


 壁紙の船が揺れる。


 クラリス様の光が黒い筋を照らし、カイル様が入口で周囲を警戒する。アルクは部屋の外で門を半分開き、灰鴎城の厨房の火をこちらへ運ぶ準備をしている。


「これからは、帰ってきた子も、まだ帰れない子も、少し休める部屋になります」


 床が温かくなった。


 その瞬間、トマさんが最初の楔に工具をかける。


 ぎり、と嫌な音がした。


 黒い楔は、釘ではなかった。石と骨の間のような質感で、引くたびに黒い粉を吐く。


「灰鴎城、支えて」


 私は床へ手をついた。


 部屋全体が震え、床板がトマさんの足元を押さえる。カイル様が黒い粉を布で受け、クラリス様の光が粉の広がりを止める。


 一本目が抜けた。


 黒い粉が火花のように散る。


 アルクが門を開き、厨房の火の匂いが流れ込む。粉は空中で白くなり、床へ落ちた。


 二本目。


 廊下の曲がり角の楔は、抜く瞬間に悲鳴のような音を立てた。灰鴎城が痛がり、私の胸まで引き裂かれるように痛む。


「リネア!」


 カイル様が私の肩を支えた。


「大丈夫です。まだ、いけます」


「嘘をつくな」


「少しだけ嘘です」


「少しなら許すと思うな」


 こんな場面で叱られて、私はなぜか少し笑いそうになった。


 三本目は、壁の中にあった。


 トマさんが壁板を外し、黒い楔の頭を露出させる。クラリス様の光が震えた。


「これだけ、奥へ伸びています」


 黒い楔の先は、灰鴎城の外へ向かっていた。


 海の方角だ。


 抜いた瞬間、遠くで波の音が強くなった。


 東棟の窓が一斉に開く。


 海風が吹き込み、黒い粉を外へさらおうとする。


「だめ、外へ流すと町へ行きます!」


 私は叫んだ。


 アルクが門を開き、粉を受け止める。王城の石の気配が一瞬だけ流れ込み、黒い粉を閉じ込めた。


 門扉が苦しそうに鳴る。


「アルク!」


 鉄飾りの一部が、細くひび割れた。


 それでも、アルクは閉じなかった。


 最後の粉が布へ落ちるまで、門は開いたままだった。


 黒い楔は三本とも抜けた。


 子ども部屋の床が、深く息をする。


 壁紙の船は、破れたまま、けれど少し明るく見えた。


 私はアルクに駆け寄り、ひびの入った鉄飾りに手を当てる。


「ごめんなさい。無理をさせました」


 アルクは弱く鳴った。


 怒っていない。


 ただ、少し痛い。


 その音に、胸が締めつけられた。


 ヴィクターは、城を材料としか見ていない。


 でも、こうして痛がる門を見れば分かる。


 これは物ではない。


 誰かを守ろうとして傷つくものを、物とは呼べない。


 ◇


東棟の黒い楔を抜いた直後、厨房の煙突が咳き込んだ。


 人ではない。


 けれど、本当に咳をしているような音だった。


 ごほ、と石の奥で何かが詰まり、次の瞬間、黒い煙が逆流する。厨房から悲鳴と怒鳴り声が上がった。


「火を下げな! 窓を開けるんだよ!」


 マルタさんの声だ。


 私はアルクから手を離し、厨房へ走ろうとした。だが、足元がふらつく。カイル様がすぐに腕を支えた。


「走るな」


「厨房が」


「歩け。私が運ぶより早い」


 正しい。


 悔しいほど正しい。


 私は深く息を吸い、歩幅を整えた。クラリス様がアルクのひびに光を当て、トマさんは黒い楔を布で包んでいる。カイル様は私の横を離れない。


 厨房へ着くと、火は消えかけていた。


 煙突の奥から黒い粉が降り、暖炉の火を薄くしている。マルタさんは濡らした布を口に当て、ニルを後ろへ押しやっていた。


「リネア様、煙突の上から来たよ!」


 ニルが叫ぶ。


「外から?」


「たぶん。屋根の方で変な音がした」


 ヴィクターは東棟だけでは満足しなかった。


 厨房の火を消すつもりだ。


 灰鴎城にとって、厨房の火はただの設備ではない。昨日、初めて煙を返さずに火を受け入れた場所。人が集まり、食べ、笑った場所。火を失えば、城はまた冷たい砦に戻ってしまう。


「火を守ります」


 私は暖炉の前に膝をついた。


 火は小さく、黒い粉に押されている。


 私は手を近づけた。熱さは弱い。代わりに、火の奥に怯えがある。


「昨日、少しだけ思い出したでしょう。煙は上へ、熱は部屋へ。怖がらなくていい」


 黒い粉がまた落ちる。


 火が白く沈む。


 マルタさんが鍋をどけ、暖炉の前を空けた。


「火に話しかけてるなら、あたしも言わせてもらうよ」


 彼女は腕まくりをした。


「いいかい、あんたは昨日からうちの厨房の火だ。スープを温めて、パンを焼いて、ニルの手を乾かした。今さら変な粉に負けるんじゃないよ」


 火が、ぱち、と鳴った。


 ニルも前に出ようとして、マルタさんに襟をつかまれた。


「そこまで。声だけ出しな」


「火、がんばって! ぼく、明日の朝もパン食べたい!」


 その言葉に、厨房の使用人たちが次々声を上げた。


「昼の豆を煮てもらわないと困る」


「洗濯場の湯も、ここからだ」


「煙いのは嫌だけど、寒いのはもっと嫌だよ」


 生活の声。


 それが、火を強くする。


 私は暖炉の縁に手を当て、皆の声を火へ渡すように意識した。


 火は少しずつ赤を取り戻す。


 けれど煙突から降る黒い粉は止まらない。


「屋根に何かあります」


 私はカイル様を見た。


「煙突の上を塞いでいるものを外さないと、何度でも落ちてきます」


「私が行く」


「危険です」


「あなたも危険な場所へ行く」


「それは」


「同じことだ」


 反論できなかった。


 カイル様は近くの兵士二人に指示し、屋根へ向かった。トマさんも工具を持って後を追う。


 私は厨房に残り、火を支える。


 クラリス様が戻ってきた。アルクのひびは応急的に光で押さえられている。彼女の顔色も悪いが、立っている。


「煙の中に、黒い筋が見えます」


「照らせますか」


「はい」


 クラリス様の細い光が煙をなぞる。


 黒い筋が、煙突の中で蠢いていた。粉ではなく、糸のようなものだ。火の記憶を吸い上げ、屋根の上へ運んでいる。


「これは、火を食べている」


 私が言うと、マルタさんが顔をしかめた。


「火を食べるなんて、ろくな育ちじゃないね」


「たぶん、育ちは関係ありません」


「じゃあ、ろくな作り手じゃない」


「それは、そうです」


 会話をしながらも、手は震えていた。


 火の記憶は熱い。人が食べたもの、寒い日に手をかざしたこと、誰かのために湯を沸かしたこと。黒い糸はそれを細く吸い上げる。


 屋根の上から、金属を叩く音がした。


 カイル様たちが何かを外している。


 次の瞬間、煙突の中で黒い糸が暴れた。


 火が一気に弱くなる。


「今!」


 私は叫んだ。


 マルタさんが乾いた薪を一本、暖炉へ投げ入れる。ニルが火吹き筒を渡し、厨房の女たちが窓の開け閉めで風を調整する。


 クラリス様の光が煙の筋を捕らえた。


 私はその光に沿って、火へ声をかける。


「ここに戻って。あなたを待っている人がいる」


 火が赤く跳ねた。


 煙突の上で、何かが外れる音がする。


 黒い糸がぷつんと切れた。


 火が、勢いよく燃え上がる。


 厨房に温かさが戻った。


 屋根からカイル様の声がした。


「黒い金具を外した。海の塩が固まったようなものだ」


 マルタさんが暖炉の前で腰に手を当てる。


「塩は料理に使うもんだよ。煙突に刺すんじゃない」


 厨房の人々が笑った。


 疲れた笑いだったが、火はそれを聞いて明るくなる。


 私はその火を見つめた。


 黒い楔、黒い糸、塩の金具。


 ヴィクターの道具は、海の方から来ている。


 灰鴎城の痛みは、城の中だけでは終わらない。


 カイル様が屋根から戻ると、手に黒ずんだ塩の塊を持っていた。


 それを見た瞬間、灰鴎城の壁が深く震えた。


 怒りではなく、古い悲しみ。


 海の下に、まだ何かが眠っている。

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