第十七話 クラリス様の光/海から来た釘
厨房の火を守ったあと、クラリス様は倒れた。
倒れたと言っても、派手に意識を失ったわけではない。暖炉の横の椅子に座ろうとして、そのまま力が抜けた。マルタさんが素早く支え、ニルが慌てて水を持ってくる。
「無理をしたんですよ」
私が言うと、クラリス様は青い顔で笑った。
「リネア様に言われると、少し複雑です」
「私も言われる側なので、気持ちは分かります」
カイル様が、私を見た。
「分かっているなら、次から自分にも適用しろ」
「はい」
「返事が軽い」
「練習中です」
厨房に、少しだけ笑いが戻った。
クラリス様は水を飲み、両手を膝の上に置いた。彼女の指先はまだ淡く光っている。使いすぎた妖精の祝福が、皮膚の下で疲れたように揺れていた。
「私は、ずっと人を安心させるのが自分の役目だと思っていました」
彼女はぽつりと言った。
「男爵家から王城へ呼ばれて、殿下に優しいと言われて、皆が私のそばで笑ってくれるのが嬉しかった。だから、不安を消すことは良いことだと」
「良いことでもあります」
私は椅子の向かいに座った。
「痛みで動けない人には、少し和らげる光が必要です。怖くて息ができない人には、落ち着く場所が必要です」
「でも、私は傷まで見えなくしました」
「はい」
そこは曖昧にしなかった。
クラリス様は少し目を伏せたが、逃げなかった。
「今日の光は、違いました」
「本当ですか」
「黒い筋を照らしてくれました。消すのではなく、見えるようにした。それは、とても助かりました」
彼女の目が揺れる。
昨日までなら、私は彼女をただの恋敵として見ただろう。いえ、恋敵という言葉すら自分には似合わないと思っていた。殿下に愛されなかった私と、選ばれた彼女。
でも今、彼女は王城の傷を見て泣き、灰鴎城で倒れるほど光を使った。
罪が消えるわけではない。
それでも、人は役割だけでは決まらない。
ニルがクラリス様へパンを差し出した。
「食べた方がいいです。つらい夜ほど、温かいものを胃に入れた方が判断を間違えないって、旦那様が言ってました」
カイル様が少しだけ眉を動かす。
「私の言葉か」
「はい。使いました」
「そうか」
クラリス様はパンを受け取り、小さく笑った。
「ありがとう、ニル君」
「君はいりません。ニルでいいです」
「では、ニル。ありがとう」
そのやり取りを見て、灰鴎城の厨房が少し温かくなる。
クラリス様の光は、今度は人を鈍らせていない。人と人の間にある緊張を、見えなくするのではなく、少しだけ柔らかくしている。
そのとき、アルクが小さく鳴った。
ひびの入った鉄飾りに、クラリス様がそっと光を当てる。
「痛いですか」
アルクは不機嫌そうに鳴った。
「痛いのですね」
もう一度、不機嫌そうに鳴る。
カイル様が言った。
「痛いと言われるのが嫌なのか」
「たぶん、痛いと言うと心配されるので嫌なのだと思います」
「誰かに似ている」
「……私ですか」
「他にいるか」
私は黙った。
厨房の全員が、何となくこちらを見ないふりをした。
クラリス様が小さく笑う。
アルクのひびは、完全には塞がらない。けれど、光が黒い粉の残りを押し出し、鉄の冷たさを少し和らげた。
「応急手当です」
クラリス様が言う。
「本当に直すには、アルク様自身の記憶を戻す必要があると思います」
「アルクの記憶?」
「はい。王城の正門だったころの誇りだけではなく、リネア様についてきた理由、灰鴎城で過ごした時間、今守りたいもの。そういうものを、ひびの周りへ戻す感じがしました」
私はアルクを見る。
門扉は黙っている。
けれど、逃げてはいない。
「では、今夜はアルクのために食堂を使いましょう」
私が言うと、カイル様が首を傾げた。
「門のために食堂を?」
「はい。アルクがこの城で守ったものを、皆で覚えておくのです。王城の門扉ではなく、灰鴎城の客として」
マルタさんが鍋をかき混ぜながら言った。
「客なら、夕飯くらい出さないとね。食べるかは知らないけど」
「たぶん、食べません」
「じゃあ、見せるだけだ」
その夜、灰鴎城の食堂には人が集まった。
東棟を守ったトマさん、厨房の火を守ったマルタさん、ニル、セルムさん、兵士たち、クラリス様、カイル様、そしてアルク。
アルクは食堂の入口に立ち、少し照れたように鉄飾りを揺らしていた。
皆が、今日アルクに助けられたことを一つずつ話した。
黒い粉を受け止めた。
火の匂いを運んだ。
王城と灰鴎城をつないだ。
ニルは、小さな声で言った。
「王城の門なのに、ぼくたちを守ってくれてありがとうございます」
アルクのひびが、少しだけ浅くなった。
私はその様子を見て、思った。
記憶は、削られるだけではない。
新しく積むこともできる。
ヴィクターが空の城を作ろうとするなら、私たちは帰る場所の記憶を増やせばいい。
その手がかりが、少し見えた夜だった。
◇
翌朝、灰鴎城の屋根から外した黒い金具を調べることになった。
金具、と呼んでいたが、近くで見ると釘でも金属でもなかった。黒ずんだ塩の塊に、細い石の芯が通っている。表面はざらつき、潮の匂いが強い。
トマさんは鼻に皺を寄せた。
「こいつは海から来たもんです。普通の塩じゃない。海蝕洞の奥で固まる黒塩に似てる」
「黒塩?」
「北の崖下にある洞です。潮が引いたときだけ入れる。昔は、そこで黒い塩を採っていたらしいですが、今は誰も近づきません」
カイル様の表情が硬くなった。
「潮門洞か」
「はい。先代様のころに塞がれた場所です」
灰鴎城の壁が、深く沈むように冷えた。
私はその反応を感じて、手を壁へ置く。
「行きたくない場所?」
壁は答えない。
けれど、廊下の奥で小さな窓が閉まった。
カイル様が低く説明した。
「先々代の戦で、城に預けられていた子どもたちが港へ逃げる途中、潮門洞の近くで波に呑まれたと言われている。昨日の子ども部屋と関係がある」
ニルが息をのむ。
マルタさんも鍋を持つ手を止めた。
「だから東棟が泣いていたのですね」
「おそらく」
カイル様の顔には、領主としての悔いがあった。
自分が生まれる前の出来事でも、領地の傷として背負っている。そういう顔だった。
「潮門洞へ行く必要があります」
私が言うと、彼はすぐに頷かなかった。
「潮が引くのは夕方だ。足場も悪い。黒い釘を打った者がまだ近くにいる可能性もある」
「それでも、釘の材料がそこから来ているなら、止めないとまた打ち込まれます」
「分かっている」
彼は地図を広げた。
潮門洞は、灰鴎城の北西、崖の下にある。城から直接行ける道はない。港へ下り、岩場を回り、潮が引いた短い時間に洞へ入る必要がある。
ニルが地図を覗き込む。
「ぼくは」
「留守番だ」
カイル様の即答に、ニルは口を尖らせた。
「言うと思いました」
「なら聞くな」
「でも、今度は本当に危ない場所です」
「分かっているなら、残れ」
ニルは悔しそうに黙った。
私は彼の肩へ手を置く。
「ニルには、灰鴎城で大事な仕事があります。アルクのそばにいてください。ひびが痛くなったら、すぐクラリス様へ知らせて」
「アルク様の見張りですか」
「見張りではなく、付き添いです」
アルクが不満そうに鳴った。
「付き添われるのも嫌ですか?」
さらに不満そうに鳴る。
ニルは少し笑った。
「分かりました。アルク様が一人で我慢しないように見ています」
アルクは黙った。
言い返せないらしい。
夕方まで、灰鴎城では補修と見回りが続いた。東棟の床は仮に支え直され、厨房の煙突には新しい覆いがつけられた。クラリス様は城内の黒い筋を照らし、使用人たちは見つけた黒い粉を布で包む。
私はその合間に、灰鴎城へ何度も声をかけた。
「潮門洞へ行きます。嫌なら、嫌だと言って」
城は黙っていた。
嫌なのではない。
怖いのだ。
昔の傷をもう一度見に行くのは、人でも建物でも怖い。
夕方、私たちは港へ下りた。
同行するのは、カイル様、私、トマさん、兵士二人、クラリス様。アルクは灰鴎城に残る。ひびが完全に塞がっていないからだ。
港には、漁師たちが集まっていた。
彼らは潮門洞へ行くと聞き、顔を曇らせた。だが、誰も止めなかった。
年配の漁師が、古い縄を差し出す。
「洞の入口は滑ります。これを腰に結んでください」
「ありがとうございます」
「昔、あそこへ逃げた子らを助けられなかった。今さらですが、何かの役に立つなら」
彼の声には、長く抱えてきた後悔があった。
私は縄を受け取り、深く頭を下げた。
「行ってきます」
崖下の岩場へ向かう道は、潮風で濡れていた。
波が引き、黒い岩が姿を見せる。夕日が海面を赤く染め、遠くで海鳥が鳴いている。
灰鴎城は崖の上から私たちを見ていた。
窓がいくつも開き、風を送ってくる。怖がりながら、それでも見送ってくれている。
潮門洞の入口は、思ったより低かった。
黒い岩の裂け目のような穴。
中から、冷たい潮の匂いと、黒い粉の気配が流れてくる。
カイル様が私へ手を差し出した。
「足元が悪い」
「はい」
私はその手を取った。
洞の中へ入ると、波音が急に遠くなった。
そして、奥から小さな声が聞こえた。
子どもたちが、誰かを呼ぶ声だった。




