第十八話 潮の下の子ども部屋/帰火
潮門洞の中は、黒い塩で縁取られていた。
壁のあちこちに結晶がつき、足元の岩は濡れて滑る。夕方の光は入口から少ししか届かず、奥へ進むほど青黒い暗さが濃くなった。
クラリス様が細い光を出す。
今度の光は、洞を甘く包まない。足元の窪み、壁の裂け目、天井から垂れる水を一つずつ照らしてくれる。
トマさんが感心したように言った。
「見やすい。ありがたいですな」
「役に立てているなら、よかったです」
クラリス様の声には、少しだけ安堵があった。
奥から聞こえる子どもの声は、はっきりした言葉ではない。
泣き声、笑い声、誰かを呼ぶ声。波に混じって、何度も重なる。普通なら怖いのだろう。けれど私は、その声に強い悪意を感じなかった。
ただ、帰れないまま残っている。
そういう声だった。
洞の奥に、小さな空間があった。
そこには、驚くほど人工的なものが残っていた。石を積んだ低い台、壊れた木箱、壁に刻まれた船の絵。灰鴎城の子ども部屋と同じ船の形だ。
私は息を止めた。
「ここにも、部屋があった」
カイル様が壁を見た。
「避難場所か」
「たぶん。子どもたちは、港へ逃げる途中ではなく、ここへ隠されたのかもしれません」
トマさんが低く唸る。
「潮が満ちたら、ここは沈みます」
「誰かが戻ってくるはずだったのでしょう」
戻ってこなかった。
だから、灰鴎城の東棟は待ち続けた。
私は石の台へ手を当てる。
冷たい記憶が、波のように流れ込んできた。
戦の夜。
灰鴎城の中で大人たちが走り、子どもたちをこの洞へ連れてくる。ここなら見つからない。潮が引くまで待て。すぐ迎えに来る。
子どもたちは泣きながらも頷いた。
その中に、灰鴎城の東棟で眠っていた子がいる。壁紙の船を好きだった子。木馬を抱えていた子。
けれど、迎えは来なかった。
城は攻撃を受け、港は燃え、大人たちは戻れなかった。
潮が満ちる。
子どもたちは石の台の上に上がり、互いに手を握る。
最後まで、一人が歌のように船の名を呼んでいた。
私は手を離し、膝をついた。
胸が苦しい。
カイル様が背中を支える。
「何を見た」
「子どもたちは、ここで待っていました。誰かを責めているのではありません。ただ、帰れなかった」
カイル様の顔が、苦しそうに歪んだ。
「ローデン家は、この場所を封じた。記録には、逃げる途中に波に呑まれたとある。ここで待っていたことを、なかったことにした」
「誰かが、そうしなければ立っていられなかったのかもしれません」
「それでも、なかったことにはできない」
彼は石の台の前に膝をついた。
辺境伯が、濡れた岩の上に膝をつく。
「迎えに来られなかった。ローデン家の者として、謝る」
洞の空気が震えた。
子どもの声が、少しだけ近くなる。
カイル様は頭を下げたまま続けた。
「遅すぎる。謝っても戻らない。それでも、もう隠さない。灰鴎城へ戻す。君たちがいた部屋を、待つだけの部屋ではなく、休める部屋にする」
波音が静かになった。
クラリス様が涙を拭きながら、光を石の台へ向ける。
壁の船の絵が、淡く浮かび上がった。
その船の周りに、黒い塩が固まっている。
ヴィクターは、ここを利用したのだ。
帰れなかった子どもたちの記憶。
灰鴎城が長く抱えていた悲しみ。
それを黒い釘の材料にした。
私は怒りで息が震えた。
「こんな場所を、道具にしたのですね」
トマさんが黒い塩を見て、拳を握る。
「あの野郎」
言葉は荒いが、今はそれが一番正しい気がした。
洞の奥で、黒い塩がかすかに動いた。
細い針のような結晶が、壁から伸びてくる。子どもたちの記憶を閉じ込めたまま、また誰かの家へ打ち込まれようとしている。
「止めます」
私は石の台へ手を当てた。
カイル様が隣で同じように手を置く。
「私にもできるか」
「謝った人の手です。たぶん、届きます」
彼は頷いた。
クラリス様の光が船の絵を照らし、トマさんが黒い塩を削る準備をする。兵士たちは入口の潮を見張っている。
私は子どもたちへ声をかけた。
「迎えに来ました。灰鴎城へ帰りましょう」
洞の中で、小さな声が重なる。
本当に?
そう聞こえた。
「はい。本当に」
その瞬間、壁の船が淡く光った。
黒い塩がひび割れ、奥から灰色の小さな石片が現れる。
家守の印。
海に沈みかけた子ども部屋にも、誰かが守りの印を残していた。
カイル様が石片を受け取る。
その手は、少し震えていた。
潮が満ち始める音がした。
戻る時間だ。
私たちは石片を抱え、洞を出た。
背後で、子どもたちの声が波に溶ける。
それは悲鳴ではなかった。
ようやく、帰る支度を始めた声だった。
◇
潮門洞から戻るころ、空はすっかり暗くなっていた。
灰鴎城の窓には、いくつもの明かりがともっている。昨日までは寒々しく見えた城が、今夜は崖の上で私たちを待っているように見えた。
けれど、城の明かりはどこか震えていた。
洞で見つけた家守の石片が、カイル様の手の中で淡く光っている。その光に、灰鴎城が反応しているのだ。
帰れなかった子どもたちの記憶を、どう迎えるか。
それを間違えれば、城はまた深く傷つく。
私は港から城へ戻る道で、何度も考えた。
慰霊の式をするだけでは足りない。記録を正すだけでも足りない。子どもたちは、死者として祀られたいだけではない。帰りたかったのだ。
帰る場所として、灰鴎城が彼らを迎える必要がある。
食堂に戻ると、皆が待っていた。
マルタさんは大鍋を火にかけ、ニルはアルクのそばで眠そうな目をこすっている。セルムさんは古い布を用意し、トマさんの弟子たちは東棟へ灯りを運んでいた。
アルクのひびは、少しだけ落ち着いている。
ニルが駆け寄った。
「リネア様、洞は」
「行ってきました。子どもたちは、灰鴎城へ帰りたがっています」
ニルの目が丸くなる。
「どうやって迎えるんですか」
「火を使います」
厨房の火が、ぱち、と鳴った。
私は暖炉の前へ行き、マルタさんへ尋ねた。
「小さな火種を分けてもらえますか」
「もちろん。けど、何に使うんだい」
「帰火を作ります」
その言葉は、私の祖母が教えてくれたものだった。
遠くで迷ったものを家へ迎えるための小さな火。豪華な儀式ではない。台所の火、寝室の灯り、玄関の明かり。人が帰ってきたときに、ああ、まだ起きている人がいると思える火。
王城では、その言葉を使う機会がなかった。
誰も迷っていないふりをしていたからだ。
今夜、灰鴎城には必要だった。
マルタさんは鍋の横から小さな火種を取り、耐火の皿に移した。
「これでいいかい」
「はい」
私は火種の皿を持ち、東棟へ向かった。
同行するのは、カイル様、ニル、クラリス様、セルムさん、トマさん。そしてアルク。マルタさんも来たがったが、厨房の火を守ると言って残った。
東棟の子ども部屋は、仮の床が入り、窓も閉め直されていた。壁紙の船はまだ破れている。けれど、部屋は昨日よりずっと静かだった。
私は部屋の中央に火種を置いた。
カイル様が潮門洞で見つけた石片を、そのそばへ置く。
灰鴎城の壁が震える。
怖い。
でも、逃げない。
「灰鴎城。帰ってくる子たちを、迎えてください」
私は言った。
「でも、あなた一人で抱え込まなくていい。ここにいる人たちも、一緒に覚えます」
ニルが石片を見つめ、真剣な顔で言った。
「ぼくも覚えます。知らない子たちだけど、同じ城にいた子たちだから」
セルムさんが頭を下げた。
「先代以前のこととはいえ、城に仕える者として、忘れません」
トマさんが壁を軽く叩いた。
「この部屋は、ちゃんと直す。待つだけの部屋じゃなく、子どもが眠れる部屋にする」
クラリス様が光を細く伸ばし、火種を包む。
「不安を消すのではなく、帰り道を照らします」
カイル様は、石片の前に膝をついた。
「ローデン家の城主として誓う。ここで起きたことを、隠さない。帰れなかった子どもたちを、灰鴎城の記憶として迎える」
火種が揺れた。
小さな火が、青白くなり、次に温かな橙へ変わる。
壁紙の船が淡く光った。
その船に、小さな影がいくつも乗る。人の形のようにも、光の粒のようにも見える。怖くはなかった。
灰鴎城の中を、風が通る。
東棟から厨房へ、厨房から玄関へ、玄関から城壁へ。
城全体が、帰ってきた記憶を受け入れていく。
ニルが私の袖を握った。
「リネア様、聞こえます」
「何が?」
「おかえり、って」
私にも聞こえた。
誰かが言う声ではない。
床、壁、窓、暖炉、階段。それぞれが少しずつ鳴って、一つの言葉になっている。
おかえり。
カイル様は目を伏せていた。
彼の横顔は、痛みと安堵が混じっている。
私は彼の隣で、火を見つめた。
ヴィクターは、帰る場所の記憶を削って空殿を作ろうとしている。
なら、こちらは帰火を灯す。
消されかけた記憶を、ただ悲しみとしてではなく、戻ってくる力として迎える。
火が安定したとき、灰鴎城のどこかで大きな扉が開く音がした。
セルムさんが顔を上げる。
「今の音は……西の古書庫です。五十年、開いていなかった扉です」
灰鴎城が、次に見せたいものを選んだ。
子どもたちを迎えた城は、今度は自分の秘密を開くつもりらしい。




