第十九話 五十年開かなかった書庫/不器用な告白は暖炉の前で
西の古書庫は、灰鴎城の一番奥にあった。
書庫と呼ばれているが、そこは本だけの部屋ではなかった。古い海図、壊れた羅針盤、昔の城壁の模型、磨り減った木剣、使われなくなった旗。灰鴎城が戦う城だったころの記憶が、物として積まれている。
五十年開かなかったせいで、空気は埃っぽい。
けれど、不快ではなかった。
長く眠っていた部屋が、ようやく目を覚ました匂いだ。
「ここは、先代が閉じた」
カイル様が言った。
「父が亡くなる前、何度か開けようとしたが、鍵が見つからなかった」
「鍵がなかったのではなく、部屋が開きたくなかったのかもしれません」
「今は開くのか」
「はい。帰火を見て、少し信用してくれたようです」
古書庫の扉は、私たちを通したあと、静かに閉まった。閉じ込めるためではない。外の風で埃が舞わないようにしている。
セルムさんが咳をし、トマさんが窓を開けようとした。
窓は最初、固く動かなかった。
私が近づくと、少しだけ軋んで開いた。海風が細く入り、埃を外へ逃がす。
「ありがとう」
窓枠が得意げに鳴った。
部屋の中央には、大きな作業台があった。
その上に、布で包まれたものが置かれている。布は古いが、丁寧に巻かれていた。カイル様がそっとほどく。
中から出てきたのは、灰鴎城と王城を描いた古い石板だった。
二つの城の間には、いくつもの小さな家や祠が描かれている。それぞれを細い線がつなぎ、線の中心には火の印がある。
私は息をのんだ。
「家守の地図です」
王国中の建物を、帰る場所としてつなぐ地図。
王城だけではない。灰鴎城だけでもない。宿、井戸、祠、港の倉庫、農家の納屋。すべてが線でつながっている。
ヴィクターが作っている黒い道とは反対だ。
黒い道は記憶を抜き取る。
この地図の線は、記憶を戻す。
クラリス様が石板に触れないよう覗き込む。
「火の印が、帰火ですか」
「たぶん。家守は、建物が孤立しないように火を渡していたのだと思います」
セルムさんが棚から古い箱を取り出した。
「リネア様、こちらも」
箱の中には、小さな石片がいくつも並んでいた。東棟や潮門洞で見つけたものと同じ家守の印だ。ただし、いくつかは割れている。
カイル様が石片を見つめた。
「ローデン家は、これを保管していたのか」
「保管して、忘れたのでしょう」
私は静かに言った。
「使い方を忘れると、守っているつもりで閉じ込めることがあります」
カイル様は頷いた。
その顔には、自分の家への怒りもあった。
石板の端に、小さな刻み文字があった。古い文字だが、祖母から少し教わったことがある。
私は指でなぞらず、目で追った。
「王城は冠の家。灰鴎城は潮の家。冠は潮を見下ろさず、潮は冠を拒まず。火を渡し、戸を開き、帰る者の名を問わず」
カイル様が低く繰り返す。
「帰る者の名を問わず」
私はその言葉に胸を突かれた。
王城では、名と身分がすべてだった。誰の娘か、誰の婚約者か、どの席に座るか。けれど家守の地図は、帰る者の名を問わないと言う。
帰る場所とは、そういうものなのかもしれない。
ニルが石板を見て、首を傾げた。
「この黒いところは何ですか」
彼が指したのは、地図の端にある空白だった。
王都と北西の間、森の奥に、不自然な余白がある。線がそこで切れ、火の印もない。
私は近づいて見る。
空白ではない。
削られている。
誰かが意図的に、地図から一つの建物を消した。
アルクが強く鳴る。
鉄飾りに、王城の地下で聞いた言葉が浮かぶ。
空殿。
ヴィクターが作ろうとしている新しい城は、この地図から消された場所にあるのかもしれない。
トマさんが石板の横に置かれていた古い模型を取り上げた。
「これ、城じゃなくて、未完成の基礎ですね」
模型は、土台だけの建物だった。
壁も屋根もない。けれど、中心には大きな穴がある。王城の礎石を入れるための穴に似ていた。
カイル様の表情が険しくなる。
「空殿の基礎か」
「昔から、計画があったのかもしれません」
私は石板を見つめる。
三百年前、エリアナ王妃の子が王城の礎石へ閉じ込められた。
五十年前、灰鴎城の書庫が閉じた。
そして今、ヴィクターが空殿を作ろうとしている。
これは一人の石守長の思いつきではない。
王国のどこかに、長く続いてきた計画がある。
古書庫の窓が、強い海風で鳴った。
急げ。
そう言っているようだった。
◇
古書庫で見つけた地図と石片は、食堂の長卓に広げられた。
本来なら、王都へすぐ伝えるべき情報だ。だが、灰鴎城の夜は深く、アルクもまだひびを抱えている。王城へ再び門を開くのは危険だった。
今夜は、休む。
カイル様がそう決めた。
私は最初、反論しかけた。ヴィクターが動いている。空殿の基礎があるかもしれない。王城の礎石は削られている。急ぐ理由はいくらでもある。
けれど、厨房の火が小さく鳴った。
食堂の椅子が、私の膝裏へそっと当たる。
座りなさい、と言われた。
「分かりました」
私は椅子に座った。
周囲の人々が、少し驚いた顔をする。
どうやら、私が素直に休むだけで事件らしい。
マルタさんが満足そうに頷いた。
「いい子だ。温かいものを持ってくるよ」
「子どもではありません」
「休めない大人は、子どもより手がかかる」
反論できなかった。
その夜、食堂では遅い夕食が出された。豆の煮込みに、港で分けてもらった魚を焼いたもの、硬いパン、温かい麦湯。贅沢ではないが、誰も急いで食べなかった。
クラリス様は食事の途中で眠りかけ、ニルに毛布をかけられていた。
ニルは得意げだった。
「今度はぼくがかける側です」
「偉いね」
クラリス様が眠そうに笑う。
その様子を見て、アルクのひびが少しだけ和らいだ気がした。
食後、私は暖炉の前に残った。
火のそばにいると、灰鴎城の呼吸が分かりやすい。東棟はまだ痛むが、帰火のおかげで冷えきってはいない。厨房は元気だ。西の古書庫は、久しぶりに開いたせいで少し疲れている。
カイル様が隣に来た。
彼はしばらく黙って火を見ていた。
「今日、潮門洞で謝ったとき」
彼は低く話し始めた。
「私は、自分が城主であることを初めて怖いと思った」
「今までは?」
「重いとは思っていた。面倒だと思ったこともある。だが、怖いとは思っていなかった。先祖の失敗も、領地の古傷も、記録として扱っていた」
火が静かに揺れる。
「今日、子どもたちの声を聞いて、記録では済まないと思った」
「カイル様は、逃げませんでした」
「逃げなかっただけだ」
「それが難しいのです」
彼は私を見た。
暖炉の光で、普段より目元が柔らかく見える。
「あなたも逃げない」
「私は、逃げ方が下手なだけかもしれません」
「それなら、覚えた方がいい」
「逃げることを?」
「ああ。あなたが逃げたいとき、私は逃げ道を用意する」
胸の奥が、静かに跳ねた。
甘い言葉ではない。
けれど、私にとっては、どんな宝石より強い言葉だった。
逃げてもいい。
その場所を用意する。
王城で、誰も言ってくれなかったことだ。
「カイル様は、なぜそこまで」
言いかけて、私は止まった。
聞くのが少し怖かった。
カイル様も、少しだけ黙る。
そして、いつものように回り道をしない声で言った。
「あなたが大事だからだ」
暖炉の火が、ぱち、と大きく鳴った。
灰鴎城の壁も、どこかで小さく鳴った。
城まで聞いている。
私は顔が熱くなるのを感じた。
「それは、家守としてですか」
「最初は、そうだった。灰鴎城を助けられる人として必要だった」
彼は正直に言った。
「今は違う。城と話せなくても、王城の門がついてこなくても、あなたがここで疲れたと言えるなら、それを聞きたいと思う」
言葉が、ゆっくり胸に入ってくる。
私は暖炉の火を見た。
嬉しい。
でも、怖い。
必要とされることには慣れている。けれど、力ではなく私自身が大事だと言われると、どう受け取ればいいのか分からない。
「すぐには、上手に返せません」
「返さなくていい」
「それでは、カイル様が困ります」
「困るのは慣れている」
「それは、あまりよい慣れではありません」
「では、私も練習する」
私は少し笑った。
カイル様も、ほんのわずかに笑う。
その小さな笑みを見て、胸の熱が少し落ち着いた。
「今は、空殿を止めたいです」
「ああ」
「そのあとで、きちんと考えます。カイル様の言葉を、逃げずに」
「分かった」
彼はそれ以上迫らなかった。
暖炉の火が温かい。
灰鴎城の壁も、穏やかに鳴っている。
私は、その音を聞きながら思った。
城にしか愛されない女だと笑われた。
でも今、城だけではない誰かが、私の休む場所を考えてくれている。
そのことに慣れるには、もう少し時間が必要だった。




