第五十三話 ただいまを言える場所
春祭の翌朝、灰鴎城の前庭には、まだ小さな花びらが残っていた。
人々はそれぞれの場所へ帰っていった。王城へ。潮見町へ。南区へ。北の村へ。空殿跡地の休み場へ。帰る場所ではない場所へ戻った人もいる。
私は前庭を歩き、昨日の火皿を片づけた。
灰は冷えている。
けれど、消えたわけではない。火はそれぞれの場所へ戻っただけだ。
カイル様が、玄関のそばで待っていた。
「今日は休む日だ」
「分かっています」
「本当に?」
「本当に」
私は火皿を置き、両手を上げて見せた。
カイル様は少し笑った。
灰鴎城も、満足そうに玄関扉を半分閉じる。全部は閉じない。誰かが来るかもしれないからだ。けれど、広く開けすぎもしない。自分も休むために。
王城から帰火の橋を通じて、静かな挨拶が届いた。
今日は王城も休暇日らしい。
アルクも休んでいる。たぶん本当に休んでいる。たぶん。
私は玄関の石へ手を当てた。
最初にここへ来たとき、灰鴎城は冷たかった。扉は重く、暖炉は煙を返し、廊下は人を迷わせた。誰も帰りたがらない城だった。
今も、完全ではない。
床は直した跡を残している。灯室には泣く人が来る。厨房の暖炉は、ときどき張り切りすぎる。玄関扉は、嫌な客には遠慮なく閉じる。
でも、ここには声がある。
痛いと言える壁がある。
待ってくれる扉がある。
帰ってきた人を温める火がある。
そして、出ていく人を責めない道がある。
「リネア」
カイル様が私の名を呼ぶ。
私は振り返った。
「中へ入るか」
「はい」
彼の手を取る。
指輪の小さな取っ手が、朝の光を受けて光った。
外しても、また付けられる。
閉じても、また開けられる。
その音を、私はもう怖いと思わない。
城にしか愛されない女。
かつてそう言われた私は、王城に見送られ、灰鴎城に迎えられ、多くの人と場所に支えられてここに立っている。
城に愛されたことは、私の恥ではなかった。
人に愛されることを諦める理由でもなかった。
私は、城にも、人にも、自分自身にも、帰ることを許された。
だから今日も、胸を張って言える。
「ただいま」
灰鴎城が、深く温かく鳴った。
遠く王城も、帰火の向こうで同じように応える。
おかえり。
その声を聞きながら、私は選んだ扉をくぐった。
これからも、誰かがそう言える場所を増やしていくために。
昼には、何もしないと言いながら、私は厨房で料理長の手伝いを少しだけした。
手伝いというより、味見係だった。料理長はそれを分かっていて、温かいスープを小皿によそってくれる。
「奥様、休む日の仕事はこれくらいです」
「厳しいですね」
「休むことに関しては、厳しくすると決めました」
ニルも隣で頷く。
「リネア様と旦那様は、放っておくと働きますから」
「二人とも言うようになりましたね」
私が笑うと、厨房の暖炉が得意げに火を鳴らした。
午後、私はカイル様と前庭の長椅子に座った。
風は穏やかで、海の匂いが少しする。遠くでアルクの休んでいる気配があり、王城の帰火は静かだ。灯室には今日も誰かが来るかもしれない。休み場では誰かが出ていくかもしれない。南区では、扉の前で言葉を選んでいる人がいるかもしれない。
すべてを私が見ることはできない。
それでいい。
長卓があり、灯があり、扉があり、聞く人が増えている。
私はもう、一人で王城の壁に手を当て続ける少女ではない。
カイル様が隣で言う。
「眠そうだ」
「少し」
「寝てもいい」
「前庭で?」
「灰鴎城が見ている」
その言葉に、私は目を閉じた。
城に見守られて眠ることが、こんなに穏やかなことだと、昔の私は知らなかった。
短い昼寝の前に、私はもう一度だけ玄関を見る。
開きすぎず、閉じすぎず、待っている扉。
それが、私の選んだ帰る場所だった。
目を覚ますと、膝に薄い毛布がかかっていた。
カイル様がかけてくれたのだろう。隣を見ると、彼も目を閉じていた。完全に眠っているわけではない。けれど、領主として周囲を見張る顔ではなく、ただ穏やかに休んでいる顔だった。
灰鴎城は静かにしている。
厨房も、廊下も、玄関も、誰も私たちを急かさない。
遠くでニルが誰かに「今は休む時間です」と小声で言っているのが聞こえた。たぶん、私たちを探しに来た客を止めてくれているのだろう。
私は少し笑った。
守られることに、まだ慣れていない。
でも、慣れていきたいと思った。
誰かに守られることは、弱さではない。守ってくれる相手を信じることも、帰る場所を作るための大切な練習だ。
王城で一人、夜の壁に手を当てていた頃の私に教えたい。
あなたは、ずっとおかしかったわけではない。
聞こえるものを聞いていただけ。
そしていつか、その声を笑わずに聞いてくれる人たちに出会う。
城が家出するほど騒がしい出会いだけれど、それでも、ちゃんと温かい場所へたどり着く。
その想像をすると、胸の奥で小さな火が灯った。
過去の私を救い直すことはできない。
けれど、過去の私と同じように笑われている誰かがいるなら、今度は扉を開ける側に立てる。あるいは、閉じたい扉の前に一緒に立てる。
それが、私のこれからの仕事だ。
だから私は、今日の休みを終えたら、また誰かの声を聞きに行く。急がず、でも忘れずに。
それが、私の選んだ生き方だった。
その火は消えない。
王城も灰鴎城も、答えを急がなかった。
急がなくても、扉はそこにある。
それを知っているだけで、人は次の一歩を選べる。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。リネア、カイル、王城、灰鴎城、そして長卓の物語はここで本編完結です。評価・ブックマークで応援していただけると励みになります。




