第五十一話 カイル様の弱い扉/竜骨屋根の教室
カイル様は、頼るのが下手だ。
それは最初から分かっていた。灰鴎城のことも、領地のことも、人を守ることも、彼は自分の肩へ乗せようとする。
長卓が広がり、休み場も灯室も動き始めたことで、彼の仕事は増えていた。
そして、彼はそれを隠そうとした。
夜、灰鴎城の小部屋で、私は彼が窓辺に立っているのを見つけた。机の上には、北の砦、潮見町、王都南区から届いた相談の印が並んでいる。
「休む約束でした」
私が言うと、彼は少しだけ肩を揺らした。
「見ていただけだ」
「前にも同じことを聞きました」
「そうだったか」
灰鴎城の窓が、呆れたように鳴った。
私は彼の隣に立った。
「何が不安ですか」
カイル様は、すぐには答えなかった。
この人は、弱音を言う前に出口を探す。
だから私は待った。
やがて彼は言った。
「あなたを、また役目の中心に置いているのではないかと思う」
「私を?」
「ああ。王家は君を道具にした。私はそうしないと誓った。だが、長卓が広がるほど、皆が君を頼る。私も頼っている」
彼の声は低い。
「守ると言いながら、君に重さを渡しているのではないか」
胸が静かに痛んだ。
それは、彼が本気で私を見ているからこその不安だった。
「カイル様」
「何だ」
「私は、頼られたくないのではありません。一人で礎にされたくないのです」
彼は私を見る。
「頼るなら、一緒に持ってください。私が無理をしていたら止めてください。カイル様が無理をしていたら、私も止めます」
灰鴎城の壁が温かくなる。
「それが、夫婦ではありませんか」
言ってから、少し照れた。
カイル様の耳も、少し赤い。
「そうだな」
彼は机の上の印を一つずつ片づけた。
「今日は休む」
「はい」
「明日、長卓で分ける」
「はい」
窓が満足そうに閉じた。
弱い扉を見せることは、恥ではない。
開け方を一緒に考えられる人がいるなら、それも帰る場所の一部になる。
その夜、私たちは本当に休んだ。
暖炉の前に座り、何も決めない。灰鴎城の火は穏やかで、窓の外には海の音がある。カイル様は珍しく、手元に何も持っていない。
「落ち着きませんか」
「少し」
「私もです」
彼は私を見て、少し笑った。
「似た者同士だな」
「だから、城に叱られるのですね」
暖炉がぱちりと鳴った。
肯定らしい。
カイル様はしばらく火を見つめ、低い声で言った。
「あなたを失うのが怖い」
胸が静かに締めつけられた。
彼がそんな言葉を口にするのは珍しい。
「空殿で、最後まで残ろうとしたあなたを見たとき、私は怒っていた。だが、怒りの下にあったのは怖さだった」
「すみません」
「謝ってほしいわけではない。知っていてほしい」
私は彼の手を握った。
「私も怖いです。カイル様が一人で全部背負って、帰ってこなくなることが」
彼の手が、私の手を握り返す。
「では、互いに帰ってくる約束を増やそう」
「はい」
その約束は、婚礼の誓いより小さい。
けれど日々を守るには、こういう小さな約束が必要なのだと思った。
◇
北の村で、竜骨屋根の教室が始まった。
教室といっても、机が並ぶわけではない。集会家の床に子どもたちが座り、老女が屋根の音を聞かせる。風が吹くたびに、梁が鳴る。その高さ、長さ、間の空き方を覚えていく。
「これは何の風だい」
老女が尋ねる。
子どもたちは耳を澄ませた。
「北?」
「違う、海から!」
「でも弱い!」
屋根が短く鳴った。
正解を喜んでいるようだった。
私はカイル様と後ろで見守っていた。ニルも一緒だ。彼は王城の小階段の経験から、すっかり「危ない場所を見る係」として子どもたちに尊敬されている。
クラリス様は集会家の隅に弱い灯を置いた。
「夜の教室にも使えますね」
「暗い中で音を聞くのは、少し怖いでしょうから」
老女は頷いた。
「怖さをなくすんじゃない。怖いものを、皆で聞けるようにするんだ」
その言葉は、長卓そのものに近かった。
休み場も灯室も、恐怖を消す場所ではない。怖いと言える場所、怖くても足元が見える場所、怖いものを一人で抱えない場所だ。
教室の終わり、子どもたちは屋根へ礼をした。
最初はふざけていた子も、最後には真面目に頭を下げる。
「教えてくれてありがとう」
竜骨屋根は、低く穏やかに鳴った。
外へ出ると、海の風が頬に当たった。
カイル様が言う。
「知恵は、家にも残るのだな」
「はい。でも、人が聞かなくなると、家だけでは抱えきれません」
「聞く者を増やす必要がある」
「それが長卓の仕事ですね」
ニルが走ってきた。
「リネア様、ぼくも屋根の音、少し分かりました!」
「どんな音でしたか」
「おなかがすいたって音です」
老女が大笑いした。
屋根も、どこか楽しげに鳴った。
教室は始まったばかりだ。
でも、忘れられていた家の声は、次の世代へ渡り始めていた。
教室の最後に、老女は子どもたちへ一つの決まりを伝えた。
「屋根の声を一人で決めつけないこと」
子どもたちは不思議そうな顔をした。
「どうして?」
「一人で聞くと、自分の怖さが混じるからだよ。海の風を嵐だと思う日もある。逆に、本当に危ない音を大丈夫だと思いたい日もある。だから、二人以上で聞く」
私はその言葉に深く頷いた。
家守も同じだ。
城の声が聞こえるからといって、間違えないわけではない。自分の疲れや願いを、場所の声だと思ってしまうこともある。
長卓が必要なのは、そのためでもある。
ニルが真剣な顔で言った。
「ぼくも、一人で決めません」
老女は笑った。
「それが分かっているなら、よい耳になる」
竜骨屋根が、短く軽い音を立てた。
褒めているようだった。
帰り道、ニルは何度も空を見上げ、風の音を聞こうとしていた。まだ上手ではない。でも、聞こうとする姿勢はもう家守のものだった。




