第五十話 母が立った玄関/王城の休暇日
母が一人で灰鴎城へ来たのは、春の雨の日だった。
ファルスター伯爵家の馬車ではなく、目立たない辻馬車だった。供も少ない。父の姿はない。
灰鴎城の玄関扉は、すぐには開かなかった。
母は扉の前に立ち、濡れた手袋を握っている。以前なら、伯爵夫人である母が待たされることに苛立ったかもしれない。今日はただ、待っていた。
私は内側から扉へ手を当てた。
「開けてもいいですか」
玄関は少し迷い、やがて細く開いた。
母は私を見ると、深く頭を下げた。
「リネア。会ってくれてありがとう」
「中へどうぞ。寒いですから」
玄関広間に入ると、母は周囲を見回した。
灰鴎城は豪華な城ではない。古い傷も、直した跡も、壁の色の違いもある。母はそれを見て、少し不思議そうに言った。
「ここは、あなたを隠さないのね」
「はい」
「私たちは、隠そうとしていたのね」
その言葉に、胸が痛んだ。
母はすぐに謝罪の形に逃げなかった。自分で確かめるように、言葉を選んでいる。
灯室へ案内すると、母は小さな光の前で座った。
「祝宴の夜、私はあなたを迎えに行かなかった」
「はい」
「怖かったの。王家も、周りの目も、あなたの力も。母なのに、あなたより自分の怖さを先に見た」
私は黙っていた。
許します、とすぐに言えるほど軽くはない。
けれど、聞けないほど硬くもなかった。
「ごめんなさい」
母は泣きながら言った。
「あなたが小さい頃、壁に話しかけるのを見て、私は不安になった。変わった子だと思われたら、傷つくと思った。でも、傷つけたのは私だった」
灯室の光が、強くならずに揺れる。
「お母様」
「はい」
「私は、まだ実家へ戻る気はありません」
「分かっています」
「でも、今日の話は聞きました」
母は涙を拭い、頷いた。
「ありがとう」
灰鴎城の玄関は、母が帰るとき、最初より少し広く開いた。
完全な和解ではない。
それでよかった。
閉じた扉が、今日だけ少し開く。
家族にも、そういう日があるのだと思えた。
母が帰ったあと、灯室の光はしばらく揺れていた。
私は扉の前で立ち尽くしたまま、自分の胸を確かめる。軽くなったわけではない。母の謝罪は、過去を消さない。幼い日の私が、壁に話しかけるたびに母の不安そうな顔を見ていたことも、祝宴の夜に迎えが来なかったことも、残っている。
でも、痛みの形は少し変わった。
閉じたまま腐っていた傷に、細い空気が入ったようだった。
カイル様が温かい茶を持ってきた。
「飲めるか」
「はい」
私は茶杯を受け取った。
「許したわけではありません」
「ああ」
「でも、会ってよかったと思います」
「それも、あなたの選択だ」
灰鴎城の玄関は、母を入れたあとも落ち着いている。嫌な客を無理に迎えたのではなく、私が会うと決めたから開いたのだ。
その違いを、城は分かってくれている。
私は茶を一口飲んだ。
母との関係も、家の修復と同じかもしれない。
全部新しくはできない。
残すところ、閉じるところ、いつか直せるかもしれないところを、一つずつ見るしかない。
◇
王城が休暇を取る日が、正式に決まった。
最初にその話をしたとき、宮廷は大混乱した。
「城が休むとはどういうことですか」
「一日中、扉が開かないのですか」
「陛下はどこで謁見を」
私は説明した。
「全て閉じるわけではありません。必要な通路は開きます。でも、大広間や使わない客間、疲れている廊下は休ませます。人も、予定を詰め込みません」
ユリウス殿下はすぐ賛成した。
「私も門番修行を休む」
「殿下、それはただの休みでは」
「休む練習だ」
重臣たちは困った顔をしたが、王城の通用口が閉じたため、反論は短く終わった。
休暇日当日、王城は静かだった。
大広間は閉じ、廊下の灯りも少ない。侍女たちは普段よりゆっくり歩き、厨房も温かい料理を必要な分だけ作った。陛下は小さな部屋で少人数と話し、王妃は子ども部屋で花の水を替えた。
私は王城の中を歩きながら、あちこちの空気が緩んでいるのを感じた。
休むというのは、何もしないことではない。
痛みを増やさないようにすることだ。
アルクは正門の横で、休暇日の意味を理解したような顔をしていた。鉄飾りは動かない。かなり我慢している。
「偉いです」
私が言うと、誇らしげに蝶番が鳴った。
そこへ、急ぎ足の貴族が来た。
「至急、大広間を使いたい」
アルクは動かなかった。
「王城は休暇日です」
私が告げると、貴族は眉を吊り上げた。
「城に休暇など」
その瞬間、正門の影が少し濃くなった。
貴族は口を閉じた。
ユリウス殿下が通用口から現れる。
「急ぎなら、小広間で聞く。見栄えのためなら明日だ」
貴族は黙って引いた。
殿下はアルクへ頭を下げた。
「守ってくれて助かった」
アルクは得意げに鳴った。
王城の休暇日は、大きな出来事ではなかった。
それでも、城が休んでも王国は倒れないと皆が知った日だった。
その知らせは、灰鴎城へも、古砦へも、南区の灯室へも広がっていく。
休むことは、弱さではない。
長く守るための、必要な扉なのだ。
王城の休暇日は、使用人たちにも影響した。
最初は戸惑っていた侍女たちが、昼過ぎには小さな中庭で茶を飲んでいた。厨房の下働きの少年は、いつもより長く座って食事を取った。衛兵の一人は、交替の合間に正門へ礼を言い、アルクに見守られながら欠伸をした。
欠伸をした瞬間、彼は慌てて背筋を伸ばした。
ユリウス殿下がそれを見て言った。
「休暇日だ。欠伸も任務のうちだろう」
衛兵は困った顔で敬礼した。
王妃は小さな部屋で、子ども部屋に置く花を選んでいた。陛下は豪華な食事ではなく、厨房で余った温かい汁を食べている。
「王城が休むと、人も休むのですね」
私が言うと、王妃は頷いた。
「人が休まなければ、城だけ休むことはできないのかもしれません」
その通りだと思った。
建物の痛みと人の痛みは、別々に見えて、同じ場所で積もる。
王城の休暇日は、城のための日であり、そこで働く人のための日でもあった。




