第四十九話 南区の灯室/ニルの初仕事
王都南区の灯室は、古い洗い場の隣に作られた。
その場所を選んだのは、灰鴎城の灯室に逃げてきた女性だった。彼女は夫の家へ戻らず、南区で暮らし直すことを決めた。そして、自分と同じように夜だけ行き場をなくす人のために、小さな部屋を開きたいと言った。
「私が誰かを助けられるかは分かりません」
彼女は不安そうに言った。
「でも、怖い夜に誰もいないのが一番つらいことは知っています」
私はその言葉だけで十分だと思った。
部屋は狭かった。
壁には古い水染みがあり、床は少し傾いている。だが、隣が洗い場なので湯を沸かしやすく、通りから少し入った場所にあるため、人目を避けて来られる。
クラリス様は灯を置く場所を確かめた。
「ここに強い光を置くと、外から顔が見えますね」
「では、足元だけにしましょう」
「はい。窓には薄い布を」
女性は真剣に頷く。
南区の家々は、王城や灰鴎城のように大きく話さない。声は小さい。水の染み、軋む階段、閉めにくい戸。日々の我慢が、細く積もっている。
私は壁に手を当てた。
「ここは、泣く声を外へ漏らしすぎない部屋になれますか」
壁は少し迷った。
古い洗い場は、これまで多くの声を聞いてきた。愚痴、ため息、叱責、笑い声。全部を抱えるのに疲れている。
「一人で抱えなくていいです。灯室に来た人が話したいときは、人が聞きます。壁は、休む背中を支えるだけで大丈夫」
水染みの冷たさが少し和らいだ。
その夜、最初の客が来た。
若い母親だった。赤子を抱え、ただ座りたいと言った。誰も理由を聞かない。女性は湯を出し、クラリス様の灯が足元を照らした。
赤子は泣き、母親も泣いた。
部屋はその声を責めなかった。
私は扉の外で、カイル様と並んで立っていた。
「こういう場所が、もっと必要になります」
「ああ」
「城ではなくても、家守の仕事ですね」
「家の大きさは関係ないのだな」
「はい。小さな部屋ほど、逃げ道が少ないこともあります」
南区の灯室は、王都の地図に大きく載る場所ではない。
けれどその夜、確かに一人の母親が、泣いてもよい部屋を得た。
夜更け近く、灯室の扉を強く叩く音がした。
外にいたのは、最初の女性の夫ではなかった。近所の男で、灯室に来た妻を連れ戻しに来たという。声は大きく、言葉は正しい形をしていた。
「家のことは家で話すものだ」
かつてなら、その言葉だけで多くの扉が開いただろう。
けれど、灯室の扉は開かなかった。
女性は私を見た。
私は頷く。
彼女は扉越しに言った。
「ここは、話す準備ができるまで座る場所です。今夜は開けません」
男は何か言い返そうとした。
その前に、洗い場の水桶がことりと鳴った。近所の女たちが数人、路地に立っていた。誰も武器を持っていない。ただ、ここにいると示している。
男は舌打ちし、去っていった。
扉の内側で、女性は震えていた。
「怖かったです」
「はい」
「でも、言えました」
クラリス様の灯が、彼女の足元で小さく光った。
灯室は、誰かを戦わせる場所ではない。
ただ、怖い声の前で一人にしない場所だ。
◇
ニルの初仕事は、王城の小階段だった。
大広間へ向かう華やかな階段ではない。厨房の裏から庭へ出る、使用人たちがよく使う細い階段だ。空殿の影響が戻ってから、そこだけ妙に滑るという相談が長卓へ届いた。
私はニルを連れて王城へ向かった。
彼は緊張で肩を上げている。
「ぼくが王城の階段を見てもいいんでしょうか」
「階段は、見てくれる人を選びません」
「でも、王城です」
「王城も、最初はあなたに緊張しているかもしれません」
ニルは目を丸くした。
王城の通用口は、私たちを静かに迎えた。アルクは今日は巡回日ではなく、正門の隣で休んでいる。休んでいると言いながら、鉄飾りはこちらを向いていた。
問題の小階段へ行くと、確かに空気が冷たい。
私はすぐには触れず、ニルに尋ねた。
「どう感じますか」
ニルは階段をじっと見た。
「濡れてないのに、濡れてるみたいです」
「どこが一番?」
「三段目です。でも、三段目だけじゃなくて、上から下まで急いでる感じがします」
良い観察だった。
私は階段に手を当てた。
空殿の記憶ではない。
日々の疲れだ。
使用人たちは忙しく、この階段を急いで下りる。重い籠を持ち、叱られないように走る。階段は何度も転びかけた人を支え、そのたびに踏ん張った。だが、誰も礼を言わず、手すりも直されず、ついに滑るような感覚を返すようになったのだ。
「ニル、どう直したいですか」
彼は考えた。
「手すりを直します。あと、急がなくていいって言ってもらいます」
「誰に?」
「使う人と、階段に」
私は頷いた。
王城の厨房長と侍女たちに集まってもらい、ニルは震えながら説明した。
「三段目が一番危ないです。でも、本当は階段ぜんぶが疲れています。急ぐと、もっと怖がると思います」
大人たちは真剣に聞いた。
誰も笑わなかった。
それだけで、ニルの背筋が少し伸びる。
手すりの修理が決まり、重い荷を運ぶ時間の見直しも決まった。小階段には滑り止めの布が置かれ、急ぐ必要があるときの別の道も確認された。
帰る前、ニルは三段目に小さく頭を下げた。
「気づくのが遅くて、ごめんなさい」
階段が、ほんの少し温かくなった。
馬車に戻ると、ニルは大きく息を吐いた。
「怖かったです」
「でも、できました」
「はい」
彼は照れくさそうに笑った。
家守の初仕事は、大きな城を救うことではなかった。
毎日踏まれる小さな階段へ、ようやく誰かが耳を澄ませることだった。
仕事が終わったあと、王城の厨房長がニルへ小さな焼き菓子を渡した。
「階段を見てくれてありがとう」
ニルは受け取ってよいのか迷い、私を見た。
「いただいて大丈夫です。働きへのお礼ですから」
彼は両手で焼き菓子を受け取り、深く頭を下げた。
その様子を、王城の小階段が静かに見ている。
帰り際、ユリウス殿下も階段へ来た。
「私もここをよく使っていたが、急いで下りていた」
ニルは緊張しながら言った。
「殿下も、三段目はゆっくりお願いします」
周囲が息をのむ。
殿下は真面目に頷いた。
「分かった。三段目はゆっくり」
階段の冷たさが、さらに薄れた。
ニルは帰りの馬車で、焼き菓子を半分私にくれようとした。私は首を横に振った。
「それはニルの初仕事のお礼です」
「じゃあ、灰鴎城の暖炉の前で食べます」
彼は大事そうに菓子を包み直した。
家守として受け取る最初の感謝を、帰る場所で味わいたかったのだと思う。




