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第四十三話 海が引いた朝/王太子の最初の決断

嵐が過ぎた朝、岬の村は泥と潮の匂いに包まれていた。


 屋根の剥がれた家、倒れた柵、流された荷車。被害はあった。けれど、死者はいなかった。


 それを聞いたとき、古砦の扉が静かに開いた。


 夜通し人を守った扉は、疲れていた。だが、誇らしさもあった。


 私は扉に手を当てた。


「よく守りました」


 扉の木目が温かくなる。


 竜骨屋根の集会家では、村人たちが朝の汁を配っていた。屋根はもう激しく鳴っていない。時折、風の名残に合わせて短く鳴るだけだ。


 老女が私に笑いかけた。


「この屋根の声を、若い者に教え直します」


「屋根も喜びます」


「家に教えられるとは、長生きするものだね」


 その言葉に、周りの人々が笑った。


 昨日、帰火を預かった漁師小屋へ向かうと、扉は無事だった。屋根は傷んでいるが、壁は残っている。火皿から小さな火を戻すと、床がほっとしたように温まった。


 姉弟が横で見ていた。


「また住める?」


 弟が尋ねる。


「すぐには難しいけれど、直せます」


 姉は小屋を見つめた。


「直るまで、砦にいてもいい?」


「もちろん」


 カイル様が答えた。


「戻りたい日まで、待てばいい」


 その言葉を、私は嬉しく聞いた。


 以前のカイル様なら、領主として安全な場所を指定したかもしれない。今は、戻りたい日を本人に聞く。


 長卓の約束は、領主にも少しずつ染み込んでいる。


 昼前、灰鴎城から帰火を通じて連絡が届いた。


 ニルがいない、と料理長が心配している。


 私は周囲を見回した。


 ニルは古砦の中で、避難してきた子どもたちに床の危ない場所を教えていた。


「ここは濡れてるから滑ります。こっちは大丈夫です」


 小さな家守のようだった。


 私が近づくと、彼は慌てて背筋を伸ばした。


「勝手なことをしましたか」


「いいえ。とても助かります」


 ニルの顔が明るくなる。


 カイル様も頷いた。


「戻ったら、料理長に誇っていい」


「はい!」


 海が引いたあとの村は、まだ疲れている。


 でも、人々は互いの家の様子を見に行き、集会家の屋根の音を確かめ、砦の扉に礼を言っていた。


 嵐は、長卓の弱さも見せた。


 人手は足りない。火皿も足りない。道の情報も、もっと早く共有する必要がある。


 けれど、誰か一人を礎にしない仕組みは、確かに人を救った。


 私は朝の海を見た。


 帰る場所は、嵐で試される。


 そして、試されたあとで少し強くなる。


 ◇


岬の嵐から戻ると、王都では別の嵐が起きていた。


 長卓を王家の直属にすべきだという声が、宮廷で強まっていたのだ。


 理由は分かる。


 北の古砦で人が救われた。潮見町の宿が機能し始めた。空殿の跡地の休み場には、王都からも人が来る。そうなると、力を管理したい者が現れる。


 王城の小広間で、重臣たちはもっともらしい顔をしていた。


「家守の活動は王国の安全に関わります」


「各地で勝手に動かれては混乱が」


「王家の名のもとに、統一した指揮を」


 私は黙って聞いていた。


 以前なら、こういう場で意見を言うだけで喉が乾いた。今も緊張はする。だが、私の背後には王城の壁がある。遠く灰鴎城の帰火も届いている。


 ユリウス殿下が立ち上がった。


 重臣たちは、殿下が自分たちに同意すると思っていたのだろう。


 だが、殿下は通用口の方を見た。


 扉は閉じている。


 彼は少し待った。


 誰も話さない。


 やがて扉が少しだけ開いた。


 殿下は頷き、重臣たちへ向き直る。


「長卓を王家の道具にはしない」


 小広間がざわめいた。


「殿下、それでは」


「王家が命じれば、早く動ける。それは事実だ。だが、早く動くことだけを優先した結果、我々は王城の痛みを聞かなかった。空殿を見逃した」


 彼の声は、以前より低く落ち着いていた。


「長卓は、王家から独立した輪として残す。王家は援助する。人手、資材、道の安全を整える。だが、どの扉を開くか、どの場所を休ませるかは、現地の声と家守の判断を尊重する」


 重臣の一人が唇を引き結んだ。


「では、王家の威信は」


「威信で扉は開かない」


 殿下ははっきり言った。


 王城の壁が、静かに温まる。


「私はそれを学んだ」


 私は殿下を見た。


 祝宴の夜の彼は、私を傷つけた。


 それは消えない。


 けれど、今この場で彼が選んだ言葉は、確かに多くの扉を守るものだった。


 カイル様が小さく頷く。


 クラリス様は、窓辺で柔らかく微笑んでいた。


 会議が終わったあと、殿下は私に近づいた。


「これで正しかったかは、まだ分からない」


「すぐ分かる正しさばかりではありません」


「そうか」


 彼は通用口を見た。


「扉の前で待つのは、まだ苦手だ」


「でも、待てるようになりました」


 殿下は少し笑った。


「君にそう言われると、厳しい採点を通った気分だ」


「まだ満点ではありません」


「分かっている」


 王城の通用口が、少し広く開いた。


 王太子の最初の決断は、派手な号令ではなかった。


 命じないと決めることだった。

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