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第四十一話 家守の旅立ち/北の古砦

長卓が動き始めると、助けを求める声は王都の外からも届くようになった。


 最初の行き先は、北の古砦だった。


 ローデン領のさらに北、風の強い岬に立つ小さな砦だ。今は兵の駐屯地ではなく、冬の嵐を避けるための避難所として使われている。ところが空殿の崩壊後、砦の扉が兵士だけを入れなくなったという。


「民は入れる。子どもも、老人も、旅人も入れる。だが、武装した者が近づくと閉じる」


 カイル様は報告を聞いて、すぐに出発を決めた。


 私も同行する。


 婚約者になったからといって、灰鴎城に座っているだけではいられない。カイル様もそれを当然のように受け入れている。


 同行者は、カイル様、私、ニル、若い石工が二人、それからクラリス様だった。


「灯室を離れて大丈夫ですか」


 私が尋ねると、クラリス様は頷いた。


「灯室は、私一人の部屋ではありません。今は女主人と料理長が光の加減を覚えてくださっています」


 ニルは荷物を抱え、緊張した顔をしている。


「ぼく、本当に行っていいんですか」


「危ない場所では、大人の言うことを聞くこと」


 カイル様が言う。


「はい!」


「それができるなら、見ることも学びだ」


 ニルの顔がぱっと明るくなった。


 アルクは今回は同行しない。王城の正門で巡る門としての初日を迎えている。出発前、帰火の向こうから不満げな音が届いたが、休みの条件を思い出させると静かになった。


 馬車が丘を下りると、灰鴎城の玄関扉が長く開いていた。


 見送りのためだ。


 私は振り返り、手を上げた。


「行ってきます」


 玄関の石が温かく光る。


 行ってらっしゃい。


 その感覚が胸に届いた。


 以前の私は、出ていくことと捨てられることを混同していた。


 今は違う。


 帰る場所があるから、遠くへ行ける。


 カイル様が隣で言った。


「無理をしたら、戻る」


「はい」


「返事が早いな」


「練習しています」


 彼は少し笑った。


 北へ向かう道は、潮風が強い。けれど馬車の中には、灰鴎城の火の匂いが少し残っていた。


 家守の旅は、直すためだけの旅ではない。


 帰ってこられる場所を確かめながら、開かない扉の理由を聞く旅だった。


 途中の宿で休んだとき、私は馬車の外へ出て、道端の古い祠に手を当てた。


 小さな屋根は、雨を受けすぎて片側が沈んでいる。誰も毎日世話をする場所ではないのだろう。それでも、旅人が一息つくたびに、祠は少しずつ記憶を抱えていた。


「ここも、帰る場所ですか」


 ニルが尋ねた。


「帰る場所というより、道の途中で息をする場所ですね」


「家じゃなくても、大事なんですね」


「はい。家にならない場所を軽く見ると、帰れない人が休むところを失います」


 カイル様は祠の屋根を見上げた。


「帰り道だけでなく、途中の場所も守る必要があるか」


「長卓の仕事が増えますね」


「増えるな」


 彼は少しだけ苦笑した。


「だが、全部を今日やるわけではない」


 その言葉を聞いて、私は自分の肩に入っていた力に気づいた。困っている場所を見つけると、すぐ直さなければと思ってしまう。けれど、屋根の沈んだ祠も、今日ここで気づかれたことを喜んでいる。


 私は祠へ小さな帰火を分けた。


「すぐには直せません。でも、忘れません」


 祠の屋根が、雨の匂いを少しだけ和らげた。


 旅立ちには、急ぐ足だけでなく、覚えておく目も必要だった。


 ◇


北の古砦は、海に突き出た崖の上に立っていた。


 低く分厚い壁。風を避けるための小さな窓。王城のような優美さも、灰鴎城のような大きさもない。けれど、足元の石はしっかりしている。


 問題の扉は、砦の正面にあった。


 旅人の老人が近づくと、扉は静かに開いた。近くの村の子どもが走っても、開く。だが、カイル様の護衛が一歩進むと、ぎしりと閉じる。


「見事に拒まれているな」


 カイル様は怒らなかった。


 むしろ、砦の意思を尊重するように足を止めた。


 私は扉に近づき、手を当てる。


 冷たい。


 ただし、恐怖の冷たさではない。


 記憶の冷たさだ。


 目を閉じると、古い砦の中に兵士の足音が響いた。避難してきた民が、壁際で身を寄せている。命令の声。剣の音。扉が閉じられ、外に出たい人が出られなかった記憶。


 この砦は、守っただけではない。


 閉じ込めたことがある。


「武装した人を入れるのが怖いのですね」


 扉は返事をしない。


 だが、金具が小さく震えた。


 カイル様が剣を外し、護衛にも同じように命じた。


「武器は馬車へ置く。入れてもらえないなら、まず外で待つ」


 護衛たちは驚いたが、従った。


 それでも扉はすぐには開かなかった。


 ニルが私の横に来る。


「リネア様、砦は怒っていますか」


「怒っているというより、同じことを繰り返したくないのだと思います」


「じゃあ、約束が必要ですか」


「そうね」


 私はカイル様を見た。


「この砦は、避難所として使われています。でも、避難してきた人が出たいと言ったとき、出られる約束が必要です」


 カイル様はすぐに頷いた。


「兵は中で命令を優先しない。避難している者が帰る、移る、外を見ると望んだら、扉まで案内する。砦を閉じる判断は、兵だけでしない」


 扉が、少し緩んだ。


 クラリス様が灯を掲げる。


「夜の嵐では、外へ出るのが危ない日もあります。そのときは、閉じる理由を伝える場所を作りましょう。閉じ込められているのではなく、今は待つのだと分かるように」


 扉の金具が、また震える。


 今度は、怖さが少し薄い。


 カイル様は砦へ頭を下げた。


「過去に、ここで誰かが苦しんだのなら、領主として謝る。今後は、守ることと閉じ込めることを混同しない」


 風が止んだ。


 砦の扉が、ゆっくり開く。


 中は暗かったが、クラリス様の灯が足元を照らした。


 古砦は、兵を嫌っていたのではない。


 命令だけで人の出口が消えることを、二度と許したくなかったのだ。


 私たちは武器を置いたまま、中へ入った。


 扉は背後で閉じたが、重苦しくはなかった。


 今度の閉じ方には、出られるという約束があった。


 砦の中には、古い炊事場があった。


 火を入れると、煙はまっすぐ上へ抜けた。長く使われていなかったわりに、煙突は詰まっていない。砦は、人を守る準備を捨ててはいなかったのだ。


 ただ、使う人が忘れていた。


 兵士の一人が、壁際で帽子を握った。


「私たちは、扉が開かないことに腹を立てていました。守るために来ているのに、なぜ拒まれるのかと」


「守る側のつもりでいると、守られる側の怖さを忘れることがあります」


 私が言うと、兵士は深く頭を下げた。


「覚えます」


 その言葉を、ユリウス殿下だけでなく、多くの人が使うようになったのだと気づいた。


 覚える。


 それは、すぐ直すより地味な行為だ。けれど、忘れたまま力を振るうより、ずっと確かな始まりだった。


 砦の炊事場で湯が沸くと、扉の冷たさがさらに薄れた。外の風は強い。だが、中にいる人は、出られる約束を持ったまま温まれる。


 その違いを、砦自身も確かめているようだった。

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