第三十八話 灰鴎城の祝宴/潮見町の小さな鍵
灰鴎城の祝宴は、王城の祝宴とまるで違っていた。
まず、椅子の数が足りない。
厨房の椅子、客間の椅子、修理中の部屋から持ち出した箱、港から借りた木の腰掛けまで並べたが、それでも誰かが立って食べることになった。
料理長はそれを見て胸を張った。
「立って食べてもおいしい料理にします」
実際、おいしかった。
焼いた魚、豆の煮込み、香草を散らした肉、厚く切ったパン、子どもでも飲める甘い果実水。王城の銀皿ほど豪華ではないが、温かいものが温かいうちに届く。
それが何よりの贅沢だった。
私とカイル様の婚約を祝うため、灰鴎城の人々だけでなく、潮見町からも、王城からも、空殿の跡地で休み場を作っている人々からも客が来た。
クラリス様は灯室の小さな光をいくつか持ってきて、食堂の隅に置いた。眩しすぎず、でも暗い顔を隠しすぎない光だ。
ユリウス殿下も来た。
彼は上座に座ろうとせず、入口近くで料理を運ぶ手伝いをしていた。貴族たちは落ち着かない顔をしていたが、灰鴎城の料理長に「皿はそこです」と言われると、素直に動いた。
アルクは食堂の壁際にいた。
休暇を守っている、という顔をしているが、何度も席の配置を見ようとして鉄飾りを伸ばすので、私はそのたびに睨んだ。
「アルク」
鉄飾りがすぐ戻る。
カイル様が隣で言う。
「門も祝宴では落ち着かないのだな」
「王城の祝宴では、ずっと門番でしたから」
「今日は客だ」
その言葉に、アルクの蝶番が少し驚いたように鳴った。
門が客として扱われることは、あまりなかったのだろう。
ニルがアルクの前に、小さな皿を置いた。
「食べられないと思いますけど、お祝いです」
皿にはパンの欠片と、暖炉の灰を少し混ぜた小さな飾りが乗っている。
アルクはしばらく黙っていた。
それから鉄飾りをそっと下げ、皿の横に触れた。
ありがとう、と言っている。
食堂が笑いに包まれた。
祝宴の終わり近く、カイル様は立ち上がった。
大げさな挨拶はしない人だ。皆もそれを分かっているのか、すぐに静かになった。
「来てくれて感謝する。灰鴎城は、長く帰りにくい城だった。扉は重く、暖炉は煙を返し、廊下は人を迷わせた」
灰鴎城の壁が、少し照れたように温まった。
「今も完全ではない。だが、ここにいる者たちのおかげで、帰りたいと思える城になり始めている」
彼は私を見た。
「リネアがここを選んでくれた。私は、それを当然にしない」
胸が熱くなる。
彼は皆へ向き直った。
「この城を、帰りたい者が帰れ、休みたい者が休め、出ていきたい者が出ていける場所にする。力を貸してほしい」
料理長が最初に杯を上げた。
「もちろんですとも」
ニル、クラリス様、ユリウス殿下、港の人々、長卓の仲間たち。
次々に杯が上がる。
灰鴎城の暖炉が、火を少しだけ高くした。
祝宴の光は、王城の大広間ほど眩しくない。
けれど、その夜の私は、どの祝宴よりも真ん中にいる気がした。
◇
潮見町へ行くと、海の匂いが先に迎えてくれる。
空殿の影響で扉を失った家々は、まだ修理の途中だった。だが、以前のような怯えは薄れている。帰火が戻ったことで、家の中に入ったときの空気が変わったのだと、町の人々は言った。
私はカイル様と一緒に、港のそばの小さな休み宿を訪ねた。
そこは、長卓の最初の協力先の一つだった。帰る家を失った人、帰りたくない家から離れた人、夜だけ怖くなる子ども。そういう人が、短く滞在できる場所にする予定だ。
宿の扉は、まだ新しい。
けれど、取っ手だけは古かった。
「前の漁師小屋から外したものです」
宿の女主人が教えてくれた。
「小屋は壊れました。でも、この取っ手は多くの人が握ってきたので、捨てる気になれなくて」
私は取っ手に触れた。
塩と風と、濡れた手の記憶がある。
疲れた人が扉を開けた。帰れなかった人が一晩だけ眠った。朝になって、また海へ向かった。
「いい取っ手です」
女主人は嬉しそうに笑った。
中では、二人の子どもが床に座って貝殻を並べていた。兄妹らしい。空殿に家の記憶を奪われたあと、戻ってきた家にうまく入れなくなったという。
妹の方が、私をじっと見上げた。
「お姉さんが、家に火を返した人?」
「一人で返したわけではないけれど、少し手伝いました」
「じゃあ、これ」
彼女は首から下げていた小さな鍵を外した。
錆びた鍵だった。もう開く扉はないのかもしれない。
「うちの前の鍵。今の家には合わない。でも、捨てたくない」
私はしゃがんだ。
「大事なものなのですね」
「うん。でも持ってると、前の家に帰らなきゃいけない気がする」
その言葉に、胸が痛んだ。
帰火は、帰ることを強制してはいけない。
私は鍵を受け取らず、彼女の手の上からそっと包んだ。
「この宿に預けますか」
「預ける?」
「帰りたい日が来たら、取りに来る。もう要らないと思ったら、ここで休ませる。どちらでもいいです」
女主人が頷いた。
「鍵箱を作りましょう。持っていられない思い出を、少しだけ預かる箱です」
少女は考え込んだ。
兄が隣で言う。
「ぼくのも預けたい」
彼はポケットから、割れた貝殻を出した。
それは鍵ではない。
でも、同じだった。
家の形をしたものだけが、帰る記憶ではない。
カイル様が女主人へ言った。
「箱はローデン領の木工に作らせる。鍵をかけるかどうかは、預ける者が選べるように」
「助かります」
少女は鍵を握り直し、宿の取っ手を見た。
「ここに預けたら、前の家を忘れる?」
「忘れません」
私は答えた。
「でも、思い出すたびに一人で痛くならなくて済みます」
少女は長く迷い、最後に鍵を女主人へ渡した。
宿の扉が、静かに温かくなった。
潮見町の小さな鍵は、新しい扉を開けなかった。
けれど、閉じた胸を少しだけ緩めた。




