表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
38/53

第三十八話 灰鴎城の祝宴/潮見町の小さな鍵

灰鴎城の祝宴は、王城の祝宴とまるで違っていた。


 まず、椅子の数が足りない。


 厨房の椅子、客間の椅子、修理中の部屋から持ち出した箱、港から借りた木の腰掛けまで並べたが、それでも誰かが立って食べることになった。


 料理長はそれを見て胸を張った。


「立って食べてもおいしい料理にします」


 実際、おいしかった。


 焼いた魚、豆の煮込み、香草を散らした肉、厚く切ったパン、子どもでも飲める甘い果実水。王城の銀皿ほど豪華ではないが、温かいものが温かいうちに届く。


 それが何よりの贅沢だった。


 私とカイル様の婚約を祝うため、灰鴎城の人々だけでなく、潮見町からも、王城からも、空殿の跡地で休み場を作っている人々からも客が来た。


 クラリス様は灯室の小さな光をいくつか持ってきて、食堂の隅に置いた。眩しすぎず、でも暗い顔を隠しすぎない光だ。


 ユリウス殿下も来た。


 彼は上座に座ろうとせず、入口近くで料理を運ぶ手伝いをしていた。貴族たちは落ち着かない顔をしていたが、灰鴎城の料理長に「皿はそこです」と言われると、素直に動いた。


 アルクは食堂の壁際にいた。


 休暇を守っている、という顔をしているが、何度も席の配置を見ようとして鉄飾りを伸ばすので、私はそのたびに睨んだ。


「アルク」


 鉄飾りがすぐ戻る。


 カイル様が隣で言う。


「門も祝宴では落ち着かないのだな」


「王城の祝宴では、ずっと門番でしたから」


「今日は客だ」


 その言葉に、アルクの蝶番が少し驚いたように鳴った。


 門が客として扱われることは、あまりなかったのだろう。


 ニルがアルクの前に、小さな皿を置いた。


「食べられないと思いますけど、お祝いです」


 皿にはパンの欠片と、暖炉の灰を少し混ぜた小さな飾りが乗っている。


 アルクはしばらく黙っていた。


 それから鉄飾りをそっと下げ、皿の横に触れた。


 ありがとう、と言っている。


 食堂が笑いに包まれた。


 祝宴の終わり近く、カイル様は立ち上がった。


 大げさな挨拶はしない人だ。皆もそれを分かっているのか、すぐに静かになった。


「来てくれて感謝する。灰鴎城は、長く帰りにくい城だった。扉は重く、暖炉は煙を返し、廊下は人を迷わせた」


 灰鴎城の壁が、少し照れたように温まった。


「今も完全ではない。だが、ここにいる者たちのおかげで、帰りたいと思える城になり始めている」


 彼は私を見た。


「リネアがここを選んでくれた。私は、それを当然にしない」


 胸が熱くなる。


 彼は皆へ向き直った。


「この城を、帰りたい者が帰れ、休みたい者が休め、出ていきたい者が出ていける場所にする。力を貸してほしい」


 料理長が最初に杯を上げた。


「もちろんですとも」


 ニル、クラリス様、ユリウス殿下、港の人々、長卓の仲間たち。


 次々に杯が上がる。


 灰鴎城の暖炉が、火を少しだけ高くした。


 祝宴の光は、王城の大広間ほど眩しくない。


 けれど、その夜の私は、どの祝宴よりも真ん中にいる気がした。


 ◇


潮見町へ行くと、海の匂いが先に迎えてくれる。


 空殿の影響で扉を失った家々は、まだ修理の途中だった。だが、以前のような怯えは薄れている。帰火が戻ったことで、家の中に入ったときの空気が変わったのだと、町の人々は言った。


 私はカイル様と一緒に、港のそばの小さな休み宿を訪ねた。


 そこは、長卓の最初の協力先の一つだった。帰る家を失った人、帰りたくない家から離れた人、夜だけ怖くなる子ども。そういう人が、短く滞在できる場所にする予定だ。


 宿の扉は、まだ新しい。


 けれど、取っ手だけは古かった。


「前の漁師小屋から外したものです」


 宿の女主人が教えてくれた。


「小屋は壊れました。でも、この取っ手は多くの人が握ってきたので、捨てる気になれなくて」


 私は取っ手に触れた。


 塩と風と、濡れた手の記憶がある。


 疲れた人が扉を開けた。帰れなかった人が一晩だけ眠った。朝になって、また海へ向かった。


「いい取っ手です」


 女主人は嬉しそうに笑った。


 中では、二人の子どもが床に座って貝殻を並べていた。兄妹らしい。空殿に家の記憶を奪われたあと、戻ってきた家にうまく入れなくなったという。


 妹の方が、私をじっと見上げた。


「お姉さんが、家に火を返した人?」


「一人で返したわけではないけれど、少し手伝いました」


「じゃあ、これ」


 彼女は首から下げていた小さな鍵を外した。


 錆びた鍵だった。もう開く扉はないのかもしれない。


「うちの前の鍵。今の家には合わない。でも、捨てたくない」


 私はしゃがんだ。


「大事なものなのですね」


「うん。でも持ってると、前の家に帰らなきゃいけない気がする」


 その言葉に、胸が痛んだ。


 帰火は、帰ることを強制してはいけない。


 私は鍵を受け取らず、彼女の手の上からそっと包んだ。


「この宿に預けますか」


「預ける?」


「帰りたい日が来たら、取りに来る。もう要らないと思ったら、ここで休ませる。どちらでもいいです」


 女主人が頷いた。


「鍵箱を作りましょう。持っていられない思い出を、少しだけ預かる箱です」


 少女は考え込んだ。


 兄が隣で言う。


「ぼくのも預けたい」


 彼はポケットから、割れた貝殻を出した。


 それは鍵ではない。


 でも、同じだった。


 家の形をしたものだけが、帰る記憶ではない。


 カイル様が女主人へ言った。


「箱はローデン領の木工に作らせる。鍵をかけるかどうかは、預ける者が選べるように」


「助かります」


 少女は鍵を握り直し、宿の取っ手を見た。


「ここに預けたら、前の家を忘れる?」


「忘れません」


 私は答えた。


「でも、思い出すたびに一人で痛くならなくて済みます」


 少女は長く迷い、最後に鍵を女主人へ渡した。


 宿の扉が、静かに温かくなった。


 潮見町の小さな鍵は、新しい扉を開けなかった。


 けれど、閉じた胸を少しだけ緩めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ