第三十七話 伯爵家の玄関/婚約の条件
ファルスター伯爵家から使者が来たのは、婚約を受けた翌日だった。
父と母が灰鴎城へ向かっている、という知らせだった。
私はしばらく、手にした茶杯を見つめていた。
実家。
生まれた家でありながら、その言葉は私の中で温かく響かない。王太子の婚約者として恥をかかないように育てられた場所。泣くより姿勢を直すことを求められた場所。城の声を聞く私を、困った癖として隠そうとした場所。
「会わなくてもいい」
カイル様は言った。
「ここはあなたの家だ。望まない客を入れる必要はない」
灰鴎城の玄関扉が、重く同意した。
私は扉へ手を当てた。
「会います。でも、玄関で」
「中へ入れないのか」
「まずは、扉の前で話します」
昼過ぎ、伯爵家の馬車が到着した。
父は以前と同じように整った服装だった。母も上品に微笑んでいる。祝宴の夜、二人は私を迎えに来なかった。その理由を、私はまだ聞いていない。
「リネア」
父は玄関前で足を止めた。
「無事で何よりだ。王都では大変なことになっている。お前がこれほどの力を持っていたとは」
その言葉で、灰鴎城の扉が少し冷えた。
私は深く息をした。
「お父様。まず、祝宴の夜のことを聞かせてください」
父の眉が動く。
「あの場では、我々も動けなかった。王太子殿下のお言葉に逆らうことは」
「馬車に乗せることも、できませんでしたか」
母が目を伏せた。
「あなたが、あのような不思議な力を見せたから……私たちも驚いてしまって」
「私は十年前から、同じでした」
声が震えそうになったが、玄関の石が背中を支えてくれた。
「壁のひびを気にしても、扉に声をかけても、お二人は見ないふりをしました。王妃教育には役立たないからと」
父は少し苛立った顔になった。
「今はそんな話をしている場合ではない。ローデン辺境伯との婚約の件だ。王家にも関わる話だ。ファルスター家としても、しかるべき立場を」
「私の立場を、家のために使うおつもりですか」
「家族なのだから当然だろう」
その言葉は、昔なら私を黙らせたかもしれない。
でも今は、違った。
「家族なら、私が追い出された夜に、迎えに来てほしかったです」
母が小さく息をのむ。
父は口を開きかけたが、灰鴎城の玄関扉が低く鳴った。
威嚇ではない。
ただ、ここから先は入れないという明確な意思だった。
「お父様、お母様。私はローデン家に入るからファルスター家を捨てるのではありません。もう、私を見ない家に戻らないだけです」
母の目に涙が浮かんだ。
「リネア、私たちはあなたを嫌っていたわけでは」
「分かっています」
私は母を見る。
「でも、嫌っていないことと、守ることは同じではありません」
沈黙が広がった。
父は最後まで謝らなかった。
母は何か言いたそうにしたが、言葉にできなかった。
私はそれを責めなかった。
ただ、玄関の内側へは招かなかった。
馬車が去ったあと、私は扉にもたれた。
灰鴎城の玄関が、背中を温めてくれる。
カイル様は隣に立ち、何も言わなかった。
慰めの言葉を急がない人だ。
「少し、痛いです」
「当然だ」
「でも、言えてよかった」
「ああ」
彼は私の手にそっと触れた。
「この扉は、あなたが開けたいときにだけ開けばいい」
灰鴎城も、同じように静かに温かかった。
閉じた扉の前で、私は初めて、戻らないことを自分で選んだ。
◇
婚約の話は、王城にも伝える必要があった。
王家との破談からそう時間が経っていない。しかも相手は辺境伯だ。宮廷の貴族たちは、また噂を育てるだろう。リネアは王家に恨みを持って北西へ逃げた。ローデン辺境伯は家守の力を利用するために彼女を囲った。王城は彼女を取り戻したがっている。
噂は、事実より速く走る。
だから私たちは、王城の大広間ではなく、通用口のそばの小広間を選んだ。
集まったのは、陛下、王妃、ユリウス殿下、クラリス様、数名の重臣、そしてカイル様と私。王城の扉も、今日は半分だけ開いている。
陛下は最初に口を開いた。
「ローデン卿、リネア嬢。二人の婚約を、王家として祝福したい」
その言葉に、何人かの重臣が驚いた顔をした。
まだ王家側の面目を考えていたのだろう。
陛下は彼らを見ずに続けた。
「ただし、祝福するからといって、王家がリネア嬢を再び縛る権利はない」
王城の壁が、静かに温かくなった。
カイル様が一歩前に出る。
「私からも申し上げます。リネアを妻に迎えることと、彼女の力をローデン家の所有にすることは別です。家守の長卓は、王家にもローデン家にも属さない輪として動かします」
重臣の一人が顔をしかめた。
「しかし、王国の安全に関わる力を、個人の判断に任せるのは」
「個人の判断に任せるのではありません」
私は言った。
「場所に聞きます。そこに住む人に聞きます。長卓で手を集めます。王家が命じるより遅いかもしれません。でも、命じるだけでは空殿が生まれました」
重臣は黙った。
ユリウス殿下が口を開く。
「私も、それを支持する」
以前の彼なら、私の言葉を補う形で自分の権威を乗せただろう。
今は違った。
「王家は、扉を開かせる力を持つ者ではなく、開いてよいかを聞く者であるべきだ。私はそれを学んでいる途中だ」
通用口が、少しだけ開いた。
殿下はその音に気づき、短く礼をした。
クラリス様が微笑む。
陛下は、私たちへ視線を戻した。
「婚約の条件は、二人で決めるがよい。王家から求めるのは一つだけだ。王城が助けを求めたとき、無視しないでほしい」
「無視しません」
私は答えた。
「ですが、私一人で抱えません。カイル様にも、長卓にも、王城自身にも聞きます」
王城の天井が、かすかに鳴った。
それでいい、と言っている。
話し合いの最後、王妃が私へ小さな箱を差し出した。
「これは、王家からの贈り物ではありません。私からです」
箱の中には、古い銀の細工が入っていた。
指輪ではない。
扉の取っ手を模した、小さな留め具だった。
「外しても、また付けられるものです。閉じても、開けられるものです」
私はそれを手に取り、胸が熱くなるのを感じた。
「ありがとうございます」
カイル様が静かに言う。
「指輪は、これを元に作ろう」
「はい」
通用口から風が入った。
冷たい風ではない。
王城が、私たちの新しい約束を見送るために開けた風だった。




