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第三十六話 カイル様の求婚/返事は暖炉の前で

カイル様の「後で話がある」は、その日の夕暮れになった。


 王都の帰火の集まりが終わり、私は灰鴎城へ戻っていた。王城は名残惜しそうに通用口を開けたが、今日は無理をしなかった。アルクが休暇を破ろうとしている気配も、帰火の向こうからは届かない。


 灰鴎城の西の露台に立つと、海が薄い金色に光っていた。潮風は冷たいが、冬のような鋭さはない。古い石壁は、私の背中を支えるように温かい。


 カイル様は、少し離れて立っていた。


 いつもは用件から入る人だ。城の修理、港の状況、王都からの使者。必要なことを無駄なく言う。


 けれど今夜は、珍しく言葉を探している。


「リネア嬢」


「はい」


「あなたを、灰鴎城に縛りたいわけではない」


 最初の言葉がそれだったので、私は瞬いた。


「求婚の前置きとしては、少し不穏です」


 カイル様は軽く眉を寄せた。


「先に言わなければならないと思った」


「続けてください」


 彼は海へ目を向けた。


「あなたは、王城に十年縛られた。婚約者という名で、役目という名で、我慢を当然にされた。だから私が何かを望むとき、それがまた縛る言葉にならないかを考えた」


 胸の奥が、静かになる。


「私は、あなたにここへ残ってほしい」


 カイル様は私を見た。


「灰鴎城のためだけではない。領地のためだけでもない。私自身が、あなたに帰ってきてほしいと思っている」


 露台の石が、控えめに温かくなる。


 灰鴎城は聞いている。


「だが、帰ってくる場所は、出ていける場所でなければならない。あなたが王城へ行く日も、潮見町へ行く日も、長卓のために遠くへ向かう日も、私は止めない。待つ。必要なら一緒に行く」


 彼は一度、息を吸った。


「それでも、私の隣に立つことを考えてくれるか」


 夕暮れの中で、彼の声は揺れていなかった。


 けれど手は少し硬く握られている。


 私はすぐに答えられなかった。


 嫌だからではない。


 嬉しいからこそ、簡単に頷くのが怖かった。


 婚約という言葉には、まだ痛みが残っている。祝宴の大広間、外された指輪、笑い声。あの夜に壊れたものは、空殿を倒したからといって全て直ったわけではない。


 カイル様は、その沈黙を急かさなかった。


「返事は今でなくていい」


「それは、逃げではありませんか」


「待つと言った」


「カイル様が待つのは得意ですか」


「練習する」


 思わず笑ってしまった。


 彼もほんの少し笑う。


 灰鴎城の窓が、満足そうに揺れた。


「返事をする前に、確かめたいことがあります」


「何だ」


「私は、城に聞きます」


 カイル様は真剣に頷いた。


「当然だな」


「笑わないのですか」


「あなたが大事にしている相手に、私も挨拶をすべきだと思っている」


 その言葉に、胸の奥が熱くなった。


 灰鴎城の石が、私の足元からじんわり温まる。


 この城は、もう答えを知っているのかもしれない。


 でも、私自身の答えは、私が言わなければならない。


「明日の朝、暖炉の前でお返事します」


「分かった」


 カイル様は深く頷いた。


 海の向こうで日が沈む。


 露台の扉は、私たちが戻るまで、ゆっくり開いたまま待っていた。


 ◇


翌朝、灰鴎城の暖炉は緊張していた。


 火は強すぎず弱すぎず、薪の崩れ方まで妙に整っている。厨房の料理長は「暖炉が見栄を張っていますね」と言い、ニルは「今日は大事な日ですから」と真顔で返した。


 アルクは壁際に立てかけられたまま、動かない。


 休暇中の門扉まで緊張している。


 私は暖炉の前に立ち、灰鴎城へ手を当てた。


「聞いてください」


 壁が温かくなる。


「私は、ここへ帰ってきたいと思っています。でも、ここだけにいることはできません。王城も、潮見町も、空殿の跡地も、これから助けを求める場所もあります」


 火が静かに揺れる。


「それでも、帰る場所を一つ選ぶなら、私はここを選びたい」


 暖炉の奥で、火がぱちりと鳴った。


 カイル様は私の正面に立っている。いつものように背筋を伸ばしているが、目元には緊張があった。


「カイル様」


「ああ」


「あなたの求婚を、お受けします」


 灰鴎城が、息を吸った。


 次の瞬間、玄関扉、廊下の窓、階段、厨房の棚、東棟の子ども部屋まで、一斉に音を立てた。


 祝福というより、城全体が驚いて喜んだような騒ぎだった。


 ニルが廊下の向こうで歓声を上げ、料理長が「棚を揺らしすぎですよ!」と厨房へ向かって叱る。アルクは休暇中にもかかわらず、鉄飾りを高く震わせた。


 カイル様は、ようやく息を吐いた。


「ありがとう」


「ただし、条件があります」


「聞く」


「私は、家守の役目を続けます。王城や長卓から呼ばれたら、必要な場所へ向かいます」


「当然だ」


「私を守ると言って、閉じ込めないでください」


「しない」


「危ないときは、止めてください。でも、私の代わりに決めないでください」


 カイル様は、少し考えてから頷いた。


「約束する。私からも条件がある」


「はい」


「無理をするときは、無理をしていると言ってくれ。黙って倒れられると、私も城も困る」


「練習します」


「私も待つ練習をする」


 私たちは同じだけ不器用なのだと思った。


 灰鴎城は、その不器用さごと受け入れてくれている。


 カイル様は私の手を取った。


 指輪はまだない。


 あの夜、外した指輪の重さを思い出して、少しだけ胸が痛んだ。けれど、今の手は違う。誰かに見せるための形ではなく、互いの温度を確かめるための手だった。


「指輪は、あなたが怖くない形を選びたい」


「指輪が怖いわけではありません」


「では?」


「外すときの音が、まだ少し怖いです」


 カイル様の手が、ほんの少し強くなる。


「なら、外しても帰ってこられる指輪にしよう」


「どういうものですか」


「分からない。長卓に相談する」


 真面目な声だったので、私はまた笑ってしまった。


 暖炉の火も、楽しそうに跳ねた。


 その日の昼、灰鴎城の食堂には自然と人が集まった。


 正式な発表ではない。けれど城は隠し事が苦手で、廊下が浮かれていたため、皆に伝わるのは早かった。


 ニルは私に花を一輪差し出した。


「おめでとうございます、リネア様」


「ありがとう」


「旦那様をよろしくお願いします」


 カイル様が眉を寄せる。


「それは私が言う側ではないのか」


「旦那様は休むのが下手ですから」


 食堂に笑いが広がる。


 私は花を受け取り、暖炉のそばに置いた。


 ここに帰ってくる。


 その言葉が、ようやく私の中で怖さより温かさを持ち始めていた。

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