第三十五話 王妃の揺りかご/城にしか愛されない女
エリアナ王妃が、古い子ども部屋へ入る日は、雨だった。
王城の東側にある小さな部屋は、長く閉ざされていた。空殿に記憶を奪われる前から、王妃自身が近づかなかった場所だという。
扉の前に立った王妃は、白い指で鍵穴に触れた。
「ここを開けるのは、十五年ぶりです」
声は静かだった。
けれど王城の廊下は、彼女の震えを覚えている。壁の奥が、そっと呼吸を浅くした。
私は少し後ろに立った。
カイル様は廊下の角に控えている。ユリウス殿下も来ていたが、王妃が望むまで部屋へ入らないと言って、距離を置いていた。
「リネア嬢」
「はい」
「あなたは、私が泣いても驚きますか」
「驚きません」
「王妃が泣くと、周りが困ります」
「ここは、王妃殿下を困らせるための部屋ではありません」
私は扉へ手を当てた。
「泣いてもいい部屋に戻しましょう」
扉は長く閉じたままだった。
怒っているのではない。
怖がっている。
王妃がまた傷つくことを恐れている。
「大丈夫です。今日は、全部を思い出す日ではありません。少しだけ入ります」
鍵が、内側から外れる音がした。
部屋の中は、思ったよりきれいだった。
王城が守っていたのだ。
小さな寝台。薄い布。窓辺の木馬。壁に描かれた淡い雲。中央には、古い揺りかごが置かれている。
空殿が奪おうとした核の一つ。
王妃は揺りかごの前で立ち止まった。
手を伸ばす。
けれど触れられない。
「私は、この子を守れませんでした」
言葉が床へ落ちる。
「病は、誰の命令も聞きません。それでも、私は何度も思いました。王妃でなければ。母だけでいられたら。もっとそばにいられたら」
王城の窓に雨が当たる。
私は何も言わなかった。
慰めの言葉は、早すぎると扉を閉じる。
王妃はゆっくり膝をつき、揺りかごの縁に触れた。
その瞬間、部屋の帰火が小さく灯った。
赤子の泣き声ではない。
寝息だった。
とても短い、穏やかな寝息。
王妃の肩が崩れた。
彼女は声を殺さず泣いた。
王城はその声を隠さなかった。廊下へ漏らしもしなかった。ただ、部屋の壁の中で静かに受け止めた。
私は窓辺へ立ち、雨を見た。
人が泣く場所には、見張りはいらない。
しばらくして、王妃は揺りかごに額を寄せた。
「ただいま」
小さな言葉だった。
揺りかごは、少し揺れた。
誰も触れていない。
でも、部屋はそれを許した。
王妃が立ち上がったとき、顔は涙で濡れていた。けれど、目は閉ざされていない。
「リネア嬢」
「はい」
「この部屋を、閉じたままにしないでください」
「開いたままにしますか」
「いいえ」
王妃は首を横に振った。
「必要なときに、閉じられる部屋にしてください。誰も勝手に入れず、でも、私が来たいときには開く部屋に」
私は頷いた。
「扉に聞いてみます」
扉は、すぐには返事をしなかった。
そして、金具を小さく鳴らした。
それでよい、と言っている。
廊下へ出ると、ユリウス殿下が待っていた。
王妃は彼を見て、少しだけ笑った。
「あなたは、まだ入らなくていいわ」
「はい」
「でも、いつか一緒に入りましょう」
殿下は深く頭を下げた。
王城の東側の廊下に、雨の匂いが入る。
閉じることと、拒むことは同じではない。
その日、王城はそれを思い出した。
◇
王都では、噂が形を変えるのが早い。
祝宴の夜、私は「城にしか愛されない女」と笑われた。数日後には「王城を連れて逃げた令嬢」になり、空殿が崩れた後は「城を泣かせた聖女」とまで呼ばれた。
どれも、少しずつ違う。
私は聖女ではない。
城を泣かせたいわけでもない。
そして、城にしか愛されないと言われたことは、今でも胸のどこかに刺さっている。
王城の前庭で、帰火の灯を分ける小さな集まりが開かれた。祭というほど派手ではない。けれど、王都の人々が城の前へ来て、それぞれの家から持ってきた小さな灯を、帰火の輪に触れさせる。
家を失った者は、空殿の跡地に作る休み場の火へ。
家に戻りたい者は、自分の扉へ。
しばらく誰かの家で休みたい者は、潮見町の宿や灰鴎城の灯室へ。
帰火は、一つの正解を押しつけない。
私は前庭の端で、その様子を見ていた。
王城は落ち着いている。通用口は必要なときだけ開き、疲れた扉は閉じて休む。ユリウス殿下はまだ門番修行中だ。今日は子どもに「王子様なのに扉に待たされているの?」と聞かれて、真面目に「そうだ」と答えていた。
カイル様が隣に来た。
「顔が難しい」
「噂の形について考えていました」
「また何か言われたか」
「城を泣かせた聖女だそうです」
カイル様は眉を寄せた。
「ずれているな」
「はい」
「では、あなたは何だ」
簡単な問いではなかった。
伯爵令嬢。元王太子の婚約者。家守。灰鴎城の客人。長卓の始まりに立った者。
どれも本当だ。
でも、それだけではない。
「城に愛された女、ではあります」
私は王城を見上げた。
「それは、恥ずかしいことではありませんでした」
王城の窓が、柔らかく光る。
灰鴎城から遠く届く帰火も、同じように温かくなった。
「ただ、城だけではありません」
前庭の向こうで、ニルがクラリス様の灯を見て目を輝かせている。料理長は王城の料理人と火加減の話をしている。王妃は子ども部屋の扉へ持っていく花を選んでいる。ユリウス殿下は通用口の前で、入れずに困っている老人の話を聞いている。
私は彼らを見る。
「私は、人にも助けられました」
カイル様は静かに頷いた。
「その中に、私も入るか」
胸の奥が跳ねた。
彼は真面目な顔をしている。
こういうとき、カイル様は冗談に逃げない。
「入ります」
私が答えると、彼はほんの少し目を細めた。
「なら、後で話がある」
「今ではだめですか」
「今だと、王城と灰鴎城とアルクが聞き耳を立てる」
王城の窓が、きしりと鳴った。
灰鴎城からの帰火も、少し強くなった。
アルクは灰鴎城で休暇中のはずだが、帰火の線を通じて何かを察したのかもしれない。
「もう聞いているようです」
「だから後でだ」
カイル様の耳が少し赤い。
私は笑いそうになり、こらえた。
そのとき、前庭の中央で小さな女の子が転びそうになった。私は駆け寄ろうとしたが、その前にユリウス殿下が手を貸した。女の子は礼を言い、通用口の前で灯を掲げる。
王城の扉が、ゆっくり開いた。
歓声ではなく、安堵の息が広がる。
私はその音を聞きながら、胸に刺さっていた言葉を指で触れるように思い返した。
城にしか愛されない女。
今なら、その言葉を少し変えられる。
城にも愛され、人にも支えられ、自分で帰る場所を選ぶ女。
まだ長い。
でも、その方が本当だった。
次話から、リネアとカイルの関係も本格的に進みます。ここまで読んでくださってありがとうございます。




