第三十三話 アルクは休暇を命じられる/クラリス様の灯室
アルクは、休むのが下手だった。
王城から家出し、空殿の門を開き、帰火を通し、蝶番が悲鳴を上げるほど傷ついたのだから、当然しばらく動かない方がいい。私はそう説明した。カイル様も頷いた。灰鴎城の玄関扉も、珍しく王城側に同意して重く鳴った。
それなのに、アルクは翌朝、廊下の曲がり角まで移動していた。
「アルク」
私が呼ぶと、門扉はぴたりと止まった。
小さくなった鉄の体を、何事もなかったように壁へ寄せる。
「どこへ行くつもりでしたか」
返事はない。
ただ、蝶番がほんの少し鳴った。
見回り、と言っている気がした。
「見回りは灰鴎城ができます」
廊下の床が、同意するように温かくなる。
アルクは不満げに鉄飾りを揺らした。
王城の門としての誇りがあるのだろう。開くこと、閉じること、通すこと、守ること。それが彼の仕事で、仕事をしていると自分が必要だと分かる。
気持ちは分かる。
でも、今は休むことが仕事だ。
「あなたがまた壊れたら、私は怒ります」
鉄飾りが止まった。
カイル様が横から言う。
「リネア嬢は、本気で怒ると静かになる」
「カイル様」
「今、かなり静かだ」
アルクの蝶番が小さく震えた。
少し怖がっている。
「脅しているわけではありません」
私は門扉の前にしゃがみ、布を外して傷を確かめた。
歪んだ部分には、ローデン領の鍛冶師が作った仮の支えが当てられている。熱を入れれば修理はできるが、無理に急ぐと鉄の奥が割れるという。
「守るために開く門も、閉じて休む日が必要です」
アルクは黙っている。
私は廊下の窓を少し開けた。潮の匂いを含んだ風が入る。
「今日は、ここで風を見ていてください。誰が通るかを見守るだけ。動かない。開かない。閉じない」
それは門にとって、難しい命令らしい。
アルクの鉄飾りが、ひどく悩んでいるように揺れた。
ニルが掃除用の布を抱えて通りかかる。
「リネア様、アルク様は怒られているのですか」
「休暇を命じられています」
「休暇って命じるものですか」
「自分で休めない人には」
カイル様が咳払いをした。
私はそちらを見る。
「カイル様もです」
「私は休んでいる」
「昨夜、東棟の修理計画を夜明けまで見ていましたね」
「見ていただけだ」
「それを休んでいないと言います」
ニルが口元を押さえて笑っている。灰鴎城の階段も、楽しそうに一段だけ鳴った。
カイル様は少しだけ困った顔をした。
「では、どうすれば休んだことになる」
「暖炉の前で座ってください。お茶を飲んでください。何かを決めようとしないでください」
「難しいな」
「アルクと同じですね」
門扉の鉄飾りが、同意されたくないとばかりに揺れた。
結局、その日の午後、暖炉の前に奇妙な休暇席が作られた。
カイル様は肘掛け椅子に座り、アルクは壁際に立てかけられ、私はその間で茶を淹れた。灰鴎城の暖炉は得意げに火を保っている。厨房からは焼き菓子が届いた。
カイル様は、落ち着かない様子で茶器を持った。
「何もしないのは、思ったより疲れる」
「普段しすぎているからです」
「あなたも同じだ」
「私は」
言いかけて、止まった。
私は確かに、城の痛みを見つけると動いてしまう。休んでいると、どこかが壊れる気がする。自分が止まったら、大事なものがまた奪われる気がする。
空殿が崩れても、その怖さはすぐには消えない。
カイル様は、私の表情を見て声を柔らげた。
「今日は全員、休む練習だ」
アルクの蝶番が、少しだけ鳴った。
灰鴎城の暖炉が、火を大きくしすぎないように保つ。
私は茶を飲んだ。
温かい。
ただ座っているだけで、城は壊れない。
そのことを、体に覚えさせる時間が必要だった。
夕方、アルクは一度も動かなかった。
代わりに、鉄飾りの隙間から小さな火の筋を出し、暖炉の火へそっと重ねた。
休む門は、少し誇らしげだった。
◇
クラリス様が灰鴎城を訪ねてきたのは、アルクの休暇が三日目に入った朝だった。
王都からの馬車は一台だけ。飾りの少ない実用的な馬車で、王太子殿下の紋章はない。護衛も最小限だった。
玄関で出迎えると、クラリス様は以前より少し薄い色のドレスを着ていた。祝宴で見た花のような華やかさではなく、風に当たっても動きやすい服だ。
「リネア様」
彼女は深く礼をした。
「今日は、お願いがあって参りました」
「王城のことでしょうか」
「いいえ。私のことです」
その答えが意外で、私は少しだけ瞬いた。
灰鴎城の玄関扉も、興味を持ったように静かに閉まる。風を遮るためではなく、話を聞くための閉じ方だった。
暖炉のある小部屋へ案内すると、クラリス様は膝の上で指を組んだ。
「私は、王太子殿下の隣に立つことを望まれていました。殿下がそう望んだというより、周りがそう見たがったのだと思います。優しくて、明るくて、何も強く言わない娘として」
彼女は自分の手を見下ろす。
「私も、それが一番安全だと思っていました。男爵家の娘が王城にいるには、誰かの機嫌を損ねない方がいい。笑っていれば、誰も私に難しいことを求めない」
「でも、空殿では光を使いました」
「怖かったです」
クラリス様は正直に言った。
「でも、怖いと言って閉じたら、皆様が足元を見失うと思いました。そのとき初めて、私の光は、飾りではなかったのだと分かりました」
暖炉の火が、静かに揺れる。
「私は、光の使い方を学びたいのです。人を目立たせるためではなく、暗い場所で足元を見せるために」
私は黙って聞いた。
「王城に残れば、また殿下の隣に置かれると思います。殿下は今、謝ろうと努力しています。でも、私は殿下の成長を待つためだけに生きたいわけではありません」
その言葉は、柔らかいが強かった。
「灰鴎城に、使っていない小部屋はありますか」
「あります。使っていない部屋なら、たくさん」
灰鴎城の壁が少し拗ねた。
「直す予定の部屋がたくさん、ですね」
壁が落ち着く。
クラリス様は小さく笑った。
「そこを、灯室にしたいのです。夜に泣きたくなった人や、怖い夢を見た子が、強すぎない光の中で座れる部屋。帰る場所ではなく、少しだけ明るい場所です」
私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
空殿の跡地に作ろうとしている休み場と、同じ向きを向いている。
「城に聞いてみます」
私は壁へ手を当てた。
「灰鴎城、どうでしょう。夜に強すぎない光を置く部屋が必要です。誰かが泣いても、急かさない部屋です」
最初の返事は、細い風だった。
それから、東棟ではなく西側の小部屋の扉が、遠くでことりと開く音がした。
「あちらですね」
クラリス様は立ち上がった。
小部屋は、長く物置にされていた場所だった。窓は小さく、壁は煤けている。けれど、廊下から少し奥まっていて、人目を避けて座るにはちょうどよい。
クラリス様は部屋の中央に立ち、手のひらを開いた。
小さな光が生まれる。
祝宴で彼女を飾っていたきらめきではない。空殿で道を照らした強い光でもない。夜の水面に落ちる月のような、弱い光だった。
部屋の壁が、少しだけ白くなる。
「強い光だけが、助けになるわけではないのですね」
私が言うと、クラリス様は頷いた。
「はい。明るすぎると、泣いている顔まで見えてしまいますから」
その言葉に、灰鴎城の壁が優しく温まった。
クラリス様は私を見る。
「リネア様。私は、あなたの敵ではありませんでした。でも、あなたの味方でもありませんでした」
私は何も言わず、彼女を見返した。
「これからは、味方でいたいです。都合のよい言葉ではなく、必要なときに手を動かす者として」
彼女の目は揺れていた。
でも、逸らさなかった。
「お願いします」
私はそう答えた。
小さな灯室の光が、二人の間で静かに揺れた。




