第三十二話 空殿の跡地/灰鴎城の朝
空殿があった旧王領の森へ向かったのは、崩壊から三日後だった。
王都ではまだ混乱が続いている。急に記憶が戻った家、戻りすぎて泣き出した扉、今まで何となく居心地が悪かった理由を思い出した人々。王城は少しずつ落ち着いていたが、地下の奥にはまだ湿った痛みが残っている。
それでも、跡地を確かめる必要があった。
同行したのは、カイル様、クラリス様、近衛数名、そして拘束具をつけたヴィクター。ユリウス殿下は王城に残った。通用口の前で待つ練習をする、と本人は真面目に言っていた。
森の中は、思ったより静かだった。
白い城はどこにもない。
代わりに、地面に薄い灰の輪が残っていた。円形の土は硬く、ところどころに白い石片が刺さっている。風が吹いても、鳥はその輪の中へ入らない。
私は境目に膝をつき、手を置いた。
冷たい。
だが、完全な空ではなかった。
小さな火が、灰の下で揺れている。
「まだ残っているのですか」
クラリス様が尋ねる。
「帰り先を決められなかった記憶です」
私は目を閉じた。
旅人が雨を避けた大木の根元。
ひと晩だけ隠れた納屋。
もう誰も住んでいない漁師小屋。
家ではない。
けれど、誰かが一度は息をついた場所。
その記憶たちは、帰火の網に入ることをためらっていた。帰る場所と呼ぶには小さく、忘れるには温かすぎる。
「どうする」
カイル様が聞いた。
私は灰の輪を見つめた。
「ここを、城にはしません」
ヴィクターの肩がわずかに動いた。
「なら、何にする」
「帰る場所ではなく、休んでもいい場所にします」
言葉にしてから、胸の中で形が定まった。
「誰かの家になりきれなかった記憶を、無理に一つの家へ押し込めない。ここには壁を高く作らない。扉も一つにしない。雨を避けられる屋根と、火を囲める場所と、出ていく道をいくつも作ります」
「それは家ではないな」
ヴィクターが低く言った。
「はい。家でなくていい場所です」
クラリス様が、灰の外側にしゃがんだ。
「帰りたくない人も、いるのですね」
「います」
私は彼女を見る。
「帰る場所が優しいとは限りません。扉が開いていても、入りたくないことがあります。だから、帰火の網には、閉じていい扉も必要です」
クラリス様は、ゆっくり頷いた。
カイル様は近衛たちへ目配せし、周囲の安全を確認させた。
「ローデン領から石工を出す。灰鴎城の余っている石を使えば、湿気に強い小屋根が作れる」
「王城からも古い敷石を出せるでしょう」
クラリス様が言った。
「でも、王城だけのものにしてはいけませんね」
「はい」
私は灰の下の小さな火に向かって声をかけた。
「ここは、帰れない人を責めない場所にしましょう。休んで、食べて、泣けるなら泣いて、行き先を決められるまでいる。出ていくときに、誰も引き止めない」
風が輪の中を通った。
灰が少し動き、白い石片の一つが倒れた。
ヴィクターがその石片を見下ろしている。
「私が作ろうとしたものの逆か」
「逆ではありません」
私は首を横に振った。
「あなたは帰る場所を失うことを怖がった。ここは、その怖さを一人で抱えなくていい場所です」
ヴィクターは何も言わなかった。
彼の拘束具が、かすかに鳴る。
その音に反応するように、灰の下の火が一つ、彼の足元へ寄った。
ヴィクターは身を硬くする。
火は責めなかった。
ただ、そこにいた。
彼は長い間、その小さな火を見つめていた。
やがて、掠れた声で言う。
「ここに、石を置く役を」
言葉が途切れる。
「私に、やらせてくれ」
許しではない。
始まりでも、まだない。
それでも、灰の下の小さな火は、彼の足元で消えなかった。
◇
灰鴎城へ戻った朝、玄関扉は開きすぎていた。
馬車が丘を上がる前から、扉は全開だった。冷たい風が中へ入り、侍女たちが慌てて押さえようとしている。それでも扉は閉じない。まるで、遠くの道から私たちを見つけて、待ちきれなくなったようだった。
「ただいま戻りました」
私が馬車を降りて言うと、玄関の敷石が温かくなった。
灰鴎城の返事は、王城より少し不器用だ。
王城は言葉の前に礼儀を置く。灰鴎城は、感情が先に出る。扉も廊下も窓も、全部が同時に反応するので、帰ってきた途端に少し忙しい。
ニルが厨房から飛び出してきた。
「リネア様!」
彼は途中で足を止め、慌てて礼をした。新しく仕立てられた上着は、袖の長さが合っている。胸元には、小さな灰色の鳥の印が布で縫い付けられていた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま、ニル」
その言葉を口にした瞬間、灰鴎城の梁が小さく鳴った。
ただいま。
私は初めて、この城へ自然にそう言った。
カイル様が私の横で静かに息を吐く。
「城が満足している」
「カイル様もですか」
「私は城ほど大げさではない」
そう言いながら、彼の目元は穏やかだった。
厨房へ入ると、暖炉はしっかり火を吸っていた。煙は戻っていない。料理長が胸を張り、焼きたての黒パンと豆の煮込みを見せてくれる。
「留守の間、一度も煙を吐きませんでしたよ」
「偉いです」
私が暖炉を撫でると、火がぱちりと跳ねた。
東棟の子ども部屋にも案内された。
床はまだ完全には直っていないが、危ない場所は板で囲まれ、窓には仮の布がかけられている。壁紙の鳥と船は、破れた部分を残したまま、丁寧に拭かれていた。
「全部新しくしないのですか」
ニルが尋ねた。
「まだ使えるところは残します」
私は鳥の絵に指を近づける。
「痛かったことを全部隠すと、また同じところが痛くなったときに気づけません。直した跡も、この部屋の一部です」
ニルは真面目な顔で頷いた。
「ぼくも、落ちた床のこと、忘れないです」
「怖かったことは忘れなくていいです。でも、怖いだけの部屋にしないようにしましょう」
灰鴎城の壁が、少し柔らかくなった。
その日の昼、城の人々が長い食卓に集まった。
豪華な宴ではない。厨房の火が戻った記念の食事だ。豆の煮込み、焼いた魚、固めのパン、蜂蜜を少し。王城の祝宴に比べれば、皿の数は少ない。
けれど、誰も壁を怖がっていなかった。
それだけで、十分に贅沢だった。
カイル様は席に着く前、皆の前で頭を下げた。
「留守を守ってくれて感謝する。空殿は崩れた。だが、修復はこれからだ。城も町も、人も、急には戻らない。焦らず直す」
料理長が大きく頷く。
「旦那様が焦らないなら、厨房も焦りません」
「私が焦っていたら止めてくれ」
「止めますとも」
食卓に笑いが起きた。
私はその笑いを聞きながら、ふと胸が熱くなった。
王都の大広間では、笑い声は私を外へ押し出すものだった。ここでは違う。笑いの輪の中に、私の椅子がある。
カイル様が、私の前にパンを置いた。
「食べる前に泣くと、料理長が心配する」
「泣いていません」
「目が言っている」
「城のせいです」
灰鴎城の梁が抗議するように鳴った。
食卓の端で、アルクが小さくなったまま壁に立てかけられている。蝶番は応急処置を受け、布で巻かれていた。
王城から来た門扉と、灰鴎城の玄関。
二つの城は、まだ完全に仲良しではない。けれど今日だけは、同じ火の匂いを共有していた。
私はパンを割り、湯気の立つ煮込みにつけた。
冷たい城の朝は、もう終わり始めている。




