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第三十一話 王城の新しい約束/石守長の裁き

王城の正門前に倒れ込んだ私たちを、最初に迎えたのは歓声ではなかった。


 石の沈黙だった。


 夜明け前の王城は、いつもなら衛兵の足音や馬の息で満ちている。けれどその朝、誰もが息を詰めていた。空殿が崩れた方角には、まだ薄い灰色の雲が残っている。王城の壁は、長い悪夢から覚めたばかりの人のように、低く震えていた。


 私はアルクの蝶番に手を添えたまま、立ち上がろうとした。


 膝に力が入らない。


「動くな」


 カイル様の腕が、私の背を支えた。


「先に自分の状態を確かめろ」


「アルクが」


「分かっている。だが、あなたが倒れたら、アルクも休めない」


 その言葉は効いた。


 私は呼吸を整え、手のひらを門扉に当てた。アルクは傷だらけだった。鉄の表面には細い亀裂が走り、蝶番の片方は歪んでいる。それでも、内側の火は消えていない。


 王城の正門が、隣の門扉をそっと包むように影を落とした。


 おかえり、と言っている。


「ただいま、ですね」


 私が小さく言うと、アルクは弱々しく鳴った。


 その音を合図にしたように、王城の中から人々が出てきた。衛兵、侍女、料理人、貴族、近衛。最後に、陛下とエリアナ王妃が姿を見せた。


 陛下の外套は乱れていた。眠っていない顔だった。


「リネア嬢」


 陛下は私の前で足を止めた。


 周囲の貴族が、陛下が何を言うかを待っている。王家の面目を守る言葉か。功績を軽く扱う言葉か。あるいは、すべてを魔法のせいにする言葉か。


 王城の壁が、少し硬くなった。


 私は王城にも聞こえるように、先に口を開いた。


「陛下。王城は、命令だけでは動きません」


 周囲がざわめいた。


 けれど、今言わなければならなかった。


「王城は王家を守ってきました。痛みを隠し、秘密を抱え、人の都合で開いたり閉じたりしてきました。でも、もう限界でした。空殿が王城の下から記憶を奪えたのは、王城が痛いと訴えても、誰も本気で聞かなかったからです」


 陛下の顔が強張る。


 王妃は目を伏せた。


「私は城を人と同じだと言いたいのではありません。でも、城にも負担があります。守るものが多いほど、壊れるときは静かです。静かだから大丈夫、ではありません」


 王城の窓が、かすかに温かくなった。


 陛下は長く黙った。


 やがて、彼は王城の正門へ向き直った。


「我々は、お前に頼りすぎた」


 それは、王としては頼りないほど素直な声だった。


「長く守らせた。痛みを聞かなかった。すまなかった」


 広場に、さらに深い沈黙が落ちる。


 王が城に謝る。


 それは多くの人にとって、理解しがたい光景だったと思う。けれど、王城にとっては必要な言葉だった。


 正門の上の古い石が、ほろりと砂を落とした。


 泣いたのだ。


 ユリウス殿下が一歩前に出た。彼の顔にも疲労があった。だが、昨日までのような苛立ちは薄い。


「リネア」


 私を呼ぶ声が、初めて命令の形をしていなかった。


「君に、戻ってほしいとは言わない。私には、その資格がない」


 クラリス様が隣で静かに頷く。


 殿下は王城を見上げた。


「ただ、王城と灰鴎城、それから他の家々を守るために、君の助けが必要になると思う。そのとき、王家は君を道具として呼ばない。頼む者として頭を下げる」


 私はすぐには返事をしなかった。


 王城は、私の答えを急かさない。


 灰鴎城から遠く届いている帰火も、同じように静かだった。


「約束を、王城にも聞かせてください」


 私が言うと、殿下は目を見開いた。


「王城にも?」


「はい。人の前でだけ誓う約束は、都合が悪くなると忘れられます。壁にも聞かせてください。扉にも。暖炉にも」


 陛下はゆっくり頷いた。


「王城よ。これからは、閉じる理由を聞く。開かせるだけを命じない。傷を隠させない。必要な休みを与える」


 王妃も続いた。


「私は、秘密を抱えさせた部屋へ、今度こそ自分で向かいます」


 ユリウス殿下は、少し喉を詰まらせた。


「私は、嫌われた扉の前で待つことを覚える」


 王城は長い間、何も返さなかった。


 それから、閉じていた正門の小さな通用口を、そっと開いた。


 全部ではない。


 けれど、最初の一歩には十分な幅だった。


 カイル様が私の横で低く言う。


「よく言った」


「震えていました」


「見えなかった」


「カイル様が支えてくださったので」


 彼は答えず、私の肩を少しだけ強く支えた。


 王城の新しい約束は、派手な勝利ではなかった。


 けれど、閉じた通用口が開いたとき、私はようやく、空殿に奪われたものが本当に戻り始めたのだと感じた。


 ◇


ヴィクターは、王城の北塔に移された。


 牢と呼ぶには明るい部屋だった。窓は細く、扉は厚い。けれど石壁は乾いており、寝台も水差しもある。王城は彼を憎んでいたが、潰すつもりはないらしい。


 それが、王城の裁き方なのだと思った。


 閉じ込める。


 けれど、息はさせる。


 部屋の前には近衛が立ち、私はカイル様と一緒に中へ入った。クラリス様も同行した。彼女は光を使いすぎて顔色が悪かったが、どうしても立ち会いたいと言った。


 ヴィクターは椅子に座っていた。


 空殿で見た狂気は、今は薄い。代わりに、長い夢から落ちた人のような疲れがあった。


「私を殺しに来たのか」


「いいえ」


「甘いな」


「甘さではありません。あなたがしたことを、死で片づけると、奪われた場所が戻りません」


 ヴィクターは笑わなかった。


 私は窓辺に立ち、王城の壁へ指を触れた。


「王城は、あなたに話を聞かせたいようです」


「城が?」


「はい」


 石壁が冷えた。


 次の瞬間、部屋の空気に、いくつもの記憶が流れ込んだ。


 地下で火を奪われた厨房。閉じられた子ども部屋。眠れなくなった客間。王妃の揺りかご。空殿に吸われかけた小屋。誰かが帰りたいと思った場所の、細かな痛み。


 ヴィクターの顔から血の気が引いた。


 彼は、数では理解していたのだろう。


 だが、ひとつひとつの場所の手触りは知らなかった。


「私は」


 彼は喉を鳴らした。


「王国を守ろうとした。戦乱が来ると思った。人の家は焼かれる。城は落ちる。なら、記憶を一か所に集めれば、少なくとも帰る場所の形だけは残ると」


「形だけ残しても、帰れません」


 クラリス様が言った。


 いつもの柔らかい声ではなかった。


「空殿には誰も笑っていませんでした。泣くこともできませんでした。あれは守ったのではありません。閉じ込めただけです」


 ヴィクターは彼女を見る。


「妖精の子か。お前は、王太子の隣で笑っているだけの娘だと思っていた」


「私も、そう思われるようにしていました」


 クラリス様は光のない手を握った。


「でも、もうやめます」


 カイル様が一歩前へ出た。


「処遇は陛下が決める。ただ、ローデン辺境伯として要求する。灰鴎城、潮見町、港の穴、空殿に関わったすべての修復に、ヴィクターを立ち会わせること。手を出す許可は与えず、まず見ることから始めさせる」


「見るだけで償いになるとでも?」


 ヴィクターの声には、少しだけ棘が戻った。


 カイル様は表情を変えない。


「ならない。だから長く見る。逃げられない距離で、人が家を取り戻すところを見続けろ」


 部屋の石が、低く鳴った。


 王城は同意している。


 私はヴィクターへ近づいた。


「あなたの力は、壊すためだけのものではないはずです。石の奥を読めるなら、危ない場所も分かる。閉じるべき穴も分かる」


「また私を使うのか」


「いいえ。選ばせません。あなたには責任があります」


 自分の声が少し硬くなった。


「でも、責任を果たす場所を、死で奪うつもりはありません」


 ヴィクターは私を見た。


 何かを言い返そうとして、やめた。


 そのとき、廊下から静かな足音が近づいた。


 エリアナ王妃だった。


 王妃は護衛を下がらせ、部屋へ入る。誰も止めなかった。王城も扉を閉ざさなかった。


「ヴィクター」


 王妃の声は震えていなかった。


「あなたは、私の部屋からも奪いましたね」


 ヴィクターは目を逸らした。


「王妃殿下の記憶は、強い核になると思った」


「私の子を、核にしようとしたのですね」


 部屋の空気が冷える。


 クラリス様が唇を噛んだ。


 王妃は泣かなかった。


「私はあなたを許しません」


 静かな言葉だった。


「でも、私が許さないことと、あなたが何もしないまま死ぬことは別です。あなたは見なさい。私がもう一度、あの部屋へ入るところを。王城が、痛みを抱え直すところを」


 ヴィクターは、初めて深く頭を下げた。


 謝罪の言葉はなかった。


 言葉にするには、まだ彼の中で何かが足りないのだろう。


 それでも、頭を下げた背は、空殿で見た石守長の背より小さく見えた。


 裁きは、すぐには終わらない。


 だからこそ、始められる。

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