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第三十話 ヴィクターの帰れない家/すべての帰火

ヴィクターの生家の記憶は、空殿の床に沈んでいた。


 湿った壁。


 閉じた窓。


 寒い寝台。


 咳をする少女。


 その記憶は、他の家のように帰りたがっていなかった。帰る場所として思い出されることを拒んでいる。そこは、ヴィクターにとって家ではなく、痛みの場所だったのだ。


 彼は杖を向けた。


「それも消せ。空殿の材料にすれば、もう苦しまない」


 声が震えている。


 怒りだけではない。


 見たくないものを見せられた人の声だ。


 私は一歩近づいた。


「消す必要はありません」


「お前に何が分かる」


「分かりません。あなたの家で何があったか、全部は分かりません」


 私は正直に言った。


「でも、その部屋で苦しんだお母様と妹様が、消されたいと思っていたかどうかは、あなた一人で決めてはいけません」


 ヴィクターの顔が歪む。


「母は、あの屋敷を憎んでいた。妹は、あの部屋で死んだ」


「なら、その屋敷を帰る場所にしなくてもいい」


 彼の目が見開かれる。


「どういう意味だ」


「すべての家を守る必要はありません。人を苦しめる家からは、出ていっていい。壊す必要がある場所もあります」


 ヴィクターは黙った。


 カイル様も、静かに聞いている。


「家守は、建物を人より大事にする役目ではありません。人が帰れる場所を守る役目です。帰れない家を無理に帰る場所と呼ぶのは、違います」


 灰鴎城で私は学んだ。


 泣く部屋は直す。


 人を傷つける部屋は閉じるだけではなく、なぜ傷つけるか聞く。


 それでも人を守れないなら、離れる。


 建物の声を聞くことは、人の我慢を強いることではない。


「あなたの生家は、帰る場所ではなかった。だから、そこへ帰らなくていい」


 ヴィクターの手が震えた。


 杖の先の黒さが薄くなる。


 床に沈んだ記憶の中で、咳をする少女の影が見えた。


 彼女は、寒い寝台ではなく、窓の外を見ていた。


 外へ出たかったのだ。


 私は帰火を近づける。


「この記憶は、屋敷へ戻さなくていい。あなたのお母様と妹様が行きたかった場所へ、送ります」


 ヴィクターがかすれた声で言う。


「そんな場所は、もうない」


「作れます」


 クラリス様の光が、記憶の中の窓を照らす。


 カイル様が灰鴎城の火を差し出す。


「北西には、海の見える部屋がある。湿った部屋ではない」


 ユリウス殿下が王城の火を加える。


「王都にも、病人が寒い部屋で我慢しないための場所を作る。王太子として約束する」


 ミラさんが宿の火を持って前へ出る。


「旅の途中で休む部屋なら、うちにもあります。温かい粥くらい出せます」


 ヴィクターは、彼らを見た。


 信じられないものを見る目だった。


 彼にとって家は、苦しみか、従わせる道具だった。


 帰る場所を新しく作る、という考えが、どれほど遠かったのだろう。


 少女の影が、窓へ向かって歩いた。


 湿った部屋の記憶は、屋敷へ戻らない。


 光になって、まだ存在しない温かな部屋の可能性へ向かう。


 ヴィクターの杖が、床へ落ちた。


 黒い音がした。


 空殿の中心穴が大きく揺れる。


 最後の材料が、城になることを拒んだのだ。


 ヴィクターは膝をついた。


「私は、何を」


 その声は小さかった。


 だが、空殿は止まらない。


 中心を失った空殿は、自分の痛みに耐えられず崩れ始めた。


 白い壁が割れ、扉が落ち、帰火の線が激しく揺れる。


 私たちはヴィクターを置いて逃げることもできた。


 けれど、それでは帰る場所を語った意味がない。


 カイル様がヴィクターの腕を掴んだ。


「立て」


 ヴィクターは呆然と彼を見た。


「あなたは裁かれる。だが、ここで城の瓦礫にするつもりはない」


 空殿の天井が崩れた。


 アルクが、最後の力で門を大きく開く。


 帰る道が、光った。


 ◇


空殿の崩壊は、音ではなく記憶の嵐だった。


 台所の湯気、寝室の布、子ども部屋の船、祠の花、港の網、王城の揺りかご、灰鴎城の暖炉。それらが一斉に吹き荒れ、白い壁を壊していく。


 アルクの門は開いていた。


 向こう側には、王城の正門、灰鴎城の玄関、潮見町の宿の入口、港の倉庫の扉、道端の祠の小さな屋根。帰火でつながった場所が、いくつもの出口になっている。


 だが、通れる時間は短い。


 アルクの蝶番が悲鳴を上げている。


「全員、火を持って出てください!」


 私は叫んだ。


 火皿を持った人々が、それぞれの出口へ向かう。自分の火が帰る場所を選ぶ。宿の火は潮見町へ、港の火は倉庫へ、王城の火は正門へ、灰鴎城の火は玄関へ。


 ユリウス殿下は王城の火を持ちながら、ヴィクターを支えるカイル様を振り返った。


「ローデン卿!」


「先に行け」


「王太子に命令するな」


「今は火持ちだ」


 殿下は一瞬だけ笑った。


 それから、王城の火を掲げて門へ走った。


 クラリス様は、崩れる扉の筋を照らし続けている。彼女の光がなければ、足元の黒い割れ目が見えない。


「クラリス様!」


「あと少しです!」


 彼女は怖がっていた。


 それでも光を閉じなかった。


 カイル様はヴィクターを引きずるようにして進む。ヴィクターは抵抗しない。目は崩れる空殿を見ているが、その表情には自分の城を失う悲しみだけでなく、何かを見届ける苦しさがあった。


 私は最後尾に残った。


 空殿の中心穴が、まだ黒く渦巻いている。


 そこへ、戻りきれない小さな記憶が吸われそうになっていた。


 名もない家。


 誰かが一晩だけ雨宿りした小屋。


 使われなくなった納屋。


 壊される予定の古い橋の休み場。


 大きな帰る場所ではない。


 でも、誰かがそこで一息ついた記憶だ。


 私は火皿を向けた。


「あなたたちも、戻って」


 小さな光は迷う。


 帰る場所が残っていないものもあるのだ。


 橋が壊され、納屋が燃え、小屋がなくなった記憶。


 帰る場所がもうない記憶は、どこへ行けばいいのか。


 そのとき、灰鴎城の帰火が強くなった。


 王城の帰火も、潮見町の宿の火も、港の火も、祠の火も、一斉に光る。


 帰る場所がなくなった記憶を、どこか一つが抱え込むのではない。


 すべての帰火で、少しずつ受け止める。


 私はその意味を理解した。


「そうね。一つの家で全部を抱えなくていい」


 小さな記憶たちは、帰火の線に溶けた。


 王国中の火へ、少しずつ分かれていく。


 空殿の中心穴が、ついに空になった。


 白い城が崩れる。


 天井が落ちる寸前、カイル様が私の腕を掴んだ。


「最後まで残るなと言った」


「言われました」


「返事は」


「練習中です」


「後で説教だ」


 彼は私を抱えるようにして、アルクの門へ走った。


 クラリス様も、ヴィクターも、最後の近衛も門をくぐる。


 アルクの蝶番が砕けるような音を立てた。


「アルク、閉じて!」


 私が叫ぶ。


 門は最後に、空殿の白い崩壊を受け止めるように大きく開いた。


 そして、すべての帰火が通り抜けた瞬間、勢いよく閉じた。


 私たちは王城の正門前に倒れ込んだ。


 背後で、旧王領の森から黒い柱が消えていく。


 空殿は崩れた。


 帰る場所を奪う城は、完成しなかった。


 アルクは、王城の正門の隣で小さくなっていた。


 蝶番はひどく傷ついている。


 けれど、門扉は弱々しく鳴った。


 得意げな音だった。


 私は泣きそうになりながら、その鉄に手を当てた。


「帰ってきました」


 王城の正門が、灰鴎城から遠く届いた火と一緒に、静かに温かくなった。

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