第二十九話 ひとりの礎にならない/アルクが開けた道
空殿の扉が閉まる音は、普通の扉の音ではなかった。
記憶が切断される音だ。
台所、寝室、子ども部屋、祠、倉庫。戻しきれていない記憶の粒が、中心穴へ吸い込まれていく。ヴィクターは自分の生家の記憶まで投げ入れ、空殿の礎を満たそうとしていた。
このままでは、空殿は完成する。
痛みを持たず、帰る者を問わず、ただ従うための城として。
私は中心穴へ向かって走った。
カイル様が叫ぶ。
「リネア!」
分かっている。
危険だ。
中心穴へ近づけば、私の記憶も吸われる。家守の血を持つ私の記憶は、空殿にとって格好の材料だろう。
でも、止めなければならない。
穴の縁へ手を伸ばす。
その瞬間、空殿が私を掴んだ。
冷たい力が、足元から胸へ上がってくる。
王城で過ごした十年。
祝宴の夜。
灰鴎城の最初の朝。
カイル様の外套。
ニルの毛布。
アルクの不器用な鳴き声。
それらが、細い糸のように引き抜かれそうになる。
私は歯を食いしばった。
自分を礎にすれば、空殿を一時的に止められるかもしれない。
王城の幼い王子のように。
エリアナ王妃のように。
家守として、私が城の心になれば――。
「だめだ」
カイル様の声が、すぐそばで響いた。
彼が私の腕を掴んでいた。
「あなた一人を礎にするなら、ヴィクターと同じだ」
「でも、このままでは」
「一人で背負うなと言った」
彼の手が強い。
ユリウス殿下も反対側から私を掴んだ。
「王家は、もう誰も城にしないと言った。君もだ」
クラリス様の光が、私の足元の黒い筋を照らす。
「リネア様、戻ってください。あなたが消えたら、私たちは何を守っているのか分からなくなります」
私は揺れた。
空殿は私の中の古い癖を知っているようだった。
役に立つなら、差し出せ。
必要なら、我慢しろ。
誰かを助けるためなら、自分が消えてもいい。
王城で十年かけて染みついた考えが、穴の奥から囁いてくる。
私は目を閉じた。
そして、灰鴎城の暖炉を思い出した。
疲れたと言え、とカイル様が言った。
平気じゃないのに平気みたいにするな、とニルが怒った。
傷ついた者は休む、と灰鴎城が鳴った。
私は、ひとりの礎にならない。
そう決めた。
「皆さん、火を」
私は声を振り絞った。
「一人の記憶ではなく、全部の帰火をつなぎます!」
カイル様が頷き、私を引き戻しながら火皿を掲げる。
ユリウス殿下も王城の火を掲げた。
クラリス様の光が、閉じかけた扉の隙間を照らす。
廊下の向こうで、火を持った人々が声を上げた。
「宿の火!」
「祠の火!」
「港の火!」
「王城の食堂の火!」
「灰鴎城の厨房の火!」
火が、一つずつ線になる。
中心穴へ吸われるのではなく、互いにつながる。台所から寝室へ、寝室から子ども部屋へ、子ども部屋から祠へ、祠から王城へ、王城から灰鴎城へ。
帰火の線が、空殿の中心を囲む。
ヴィクターが叫んだ。
「やめろ! 城の礎には中心が必要だ!」
「いいえ」
私はカイル様の手を借りて立ち上がった。
「帰る場所は、一つの犠牲では作りません。たくさんの人が、少しずつ覚えることで作ります」
中心穴が震えた。
空殿が初めて、痛がるように軋んだ。
痛みが生まれた。
つまり、空っぽではなくなり始めている。
ヴィクターの顔が歪む。
「痛みを与えるのか。お前たちは、やはり」
「痛みがあるから、助けを求められるのです」
私は火の線を見つめた。
「空殿。あなたも、痛いなら痛いと言っていい」
白い壁が、静かに震えた。
初めて、空殿が私たちを見た気がした。
◇
空殿が痛みを覚えた瞬間、すべての扉が暴れた。
閉じようとする扉、開きっぱなしで悲鳴のように軋む扉、どこにもつながらない扉。空殿は、初めて自分の中に入ってきた感覚を扱えず、混乱している。
帰火の線は中心穴を囲んでいるが、まだ弱い。
このままでは、痛みに耐えられず空殿自身が崩れ、奪われた記憶ごと消えてしまう。
「出口を作らないと」
私は言った。
「奪われた記憶が帰る道です」
「アルクは使えない」
カイル様が険しい顔をする。
「蝶番がまだ」
その瞬間、白い廊下の奥で鉄の音がした。
ぎい、と聞き慣れた音。
私は振り返った。
そこに、アルクがいた。
小さな門ではない。
王城の正門だったころの大きさに近い姿で、白い廊下に立っている。蝶番のひびは光で押さえられているが、完全には治っていない。
門の向こうには、ニルが見えた。
王城の正門の前で、必死にアルクの鉄飾りを押さえている。
「アルク様、無理しないって約束したでしょう!」
ニルの声が、門を通って響いた。
アルクは不満そうに鳴った。
どうやら、約束を破った自覚はあるらしい。
でも、来た。
王城の正門と、灰鴎城の玄関と、空殿の廊下。
三つをつなぐために。
「アルク!」
私が駆け寄ると、アルクは得意げに鳴った。
叱られる前に役に立ったことを主張している。
カイル様が低く言った。
「戻ったら閉め出すと言った」
アルクが、明らかに動揺した音を出した。
「今は閉め出しません」
私は急いで言った。
「でも、帰ったら皆で叱ります」
さらに動揺した音。
ニルが門の向こうで頷く。
「ぼくも叱ります」
それでも、アルクは閉じなかった。
門の向こうに、王城の帰火が見える。さらにその奥に、灰鴎城の帰火。港、宿、祠、倉庫、小屋。アルクは、帰火の線を束ねる門になろうとしている。
クラリス様が光を伸ばし、アルクのひびを照らす。
「長くは持ちません」
「十分です」
私は火皿を持ち、アルクの前に立った。
「奪われた記憶たち、帰る道はこちらです!」
声が空殿に響く。
台所の火。
寝室の眠り。
潮門の子どもたち。
王城の幼い王子。
祠の帰り道。
港の小屋の笑い声。
それぞれの記憶が、光の粒となって門へ向かう。
ヴィクターが杖を振り上げた。
「行かせるものか!」
黒い筋がアルクへ伸びる。
カイル様が剣で断ち、ユリウス殿下が王城の火で焼く。クラリス様の光が、見えにくい筋を照らす。ミラさんや漁師たち、近衛たちも、自分たちの火を掲げて道を支えた。
空殿の白い壁が、何度も軋む。
痛い。
怖い。
分からない。
そんな声が、初めて聞こえてくる。
私は空殿へ向かって言った。
「全部を抱え込まなくていい。あなたが奪った記憶は、帰る場所があります。あなた自身の痛みは、あなた自身のものです」
空殿の中心穴が震える。
アルクの門を通って、記憶が次々帰っていく。
王城の揺りかごへ。
灰鴎城の東棟へ。
潮見町の宿へ。
港の小屋へ。
道端の祠へ。
記憶が帰るたび、空殿は薄くなる。
ヴィクターの足元の白い床が割れた。
彼が初めて、恐怖の顔をした。
「私の城が」
「あなたの城ではありません」
私は言った。
「まだ、誰の帰る場所にもなっていない空の場所です」
アルクの蝶番が、大きく鳴った。
限界だ。
最後に残っていた記憶は、ヴィクター自身の生家のものだった。
湿った部屋、寒い寝台、咳をする少女。
それは帰る場所ではなく、帰れなかった場所の記憶だった。
光の粒は、門へ向かわず、ヴィクターの足元で震えていた。
彼はそれを見て、杖を握りしめた。
自分の記憶だけが、まだ帰り道を知らない。




