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第二十八話 王城の幼い王子/ヴィクターの正しさ

黒い扉の向こうは、王城の地下だった。


 ただし、本物ではない。空殿が奪った記憶で作った地下だ。柱は白く、礎石は影だけで、赤い灯が三つ浮かんでいる。


 その中央に、小さな子どもが座っていた。


 幼い王子。


 エリアナ王妃の子。


 彼は光の影ではなく、ほとんど人の姿をしていた。四、五歳ほどだろうか。膝を抱え、こちらを見ている。目は王家の青。ユリウス殿下と同じ色だった。


 ユリウス殿下が息を止めた。


「君は……」


 子どもは何も言わない。


 声を出すことを忘れているのかもしれない。


 私は慎重に近づいた。


「こんにちは」


 子どもは私を見た。


 その視線には、年齢に合わない深い疲れがあった。


 城にされかけた子。


 王城の礎石に記憶を封じられ、三百年、王城の心の一部として存在していた子。


 空殿は、その記憶を欲しがっている。


 王城に人の心を与えた中心を奪えば、空殿は形を得る。


 ユリウス殿下が膝をついた。


「私は、君の子孫だ。名を知らない。記録に残っていないから」


 子どもの目が、少し揺れる。


「すまない。王家は、君を忘れた。忘れた上で、王城に守られてきた」


 殿下は火皿を床へ置いた。


「私は王城を従わせたいと思った。君が城にされた痛みを知らずに。だから、謝る」


 子どもは、まだ何も言わない。


 空殿の白い地下が震えた。


 ヴィクターの声が響く。


「謝罪は美しい。ですが、歴史は変わりません。その子の記憶はすでに礎石の一部。王城へ戻せば、また城に縛られるだけです」


 ユリウス殿下が顔を上げる。


「では、どうするつもりだった」


「空殿の礎にする。王城より清潔に、王だけに従う形で」


「同じことだ」


「違います。空殿は痛みを持たない。子どもの記憶も、苦しまない。感情を抜けば、ただの力になる」


 私は怒りで手が震えた。


「それは助けることではありません」


「苦しみを消すことは、救いです」


「苦しみだけを消すために、その人自身を消すなら救いではありません」


 子どもが、私を見る。


 私はその視線に答えるよう、火皿を近づけた。


「王城へ戻るかどうかは、あなたが選んでいいです。王城の一部として残るのか、エリアナ様の部屋で眠る記憶になるのか、帰火の中を巡るのか。私たちは、その道を作ります」


 ユリウス殿下が頷いた。


「王家は、もう君を勝手に使わない」


 子どもの唇が、少し動いた。


 声は出なかった。


 けれど、王城の火が揺れる。


 彼は、眠りたいのだ。


 城として立つのではなく、子どもとして眠りたい。


 私は揺りかごの記憶を思い出した。


 王妃の部屋にある揺りかご。三百年、王妃たちが守ってきた小さな眠る場所。


「エリアナ様の部屋へ帰りましょう」


 子どもの目が、初めて少しだけ明るくなった。


 だが、空殿の床から白い鎖が伸びる。


 子どもの足に絡みつき、中心の穴へ引っ張ろうとする。


 カイル様が剣で鎖を断つ。


 クラリス様の光が鎖の根元を照らす。


 ユリウス殿下は火皿を抱え、子どもの前へ立った。


「王家の子を、もう礎にはしない」


 彼の声が、地下に響いた。


 王城の帰火が強く燃える。


 白い鎖が焼け切れた。


 子どもは立ち上がり、ユリウス殿下の火皿へ手を伸ばす。


 その姿が光になり、王城の方角へ流れていく。


 遠く、王城の揺りかごが揺れる音がした。


 ヴィクターの声が、初めて苛立った。


「余計な情を」


 空殿の白い地下が崩れ始める。


 私たちは次の扉へ走った。


 空殿の中心が、近づいている。


 ◇


空殿の中心へ向かう途中、ヴィクターは姿を現した。


 白い廊下の突き当たりに立ち、黒い杖を床へついている。彼の後ろには、巨大な穴があった。王城の礎石を入れるはずだった穴。その周囲に、まだ戻せていない記憶の粒が渦を巻いている。


 ヴィクターは、もう穏やかな案内役の顔ではなかった。


 疲れている。


 怒っている。


 それでも、自分が間違っているとは思っていない顔だった。


「あなた方は、痛みを尊びすぎる」


 彼は言った。


「家が痛む、城が泣く、扉が怒る。そうやって感情を与えるから、人は建物に振り回される」


「振り回されるのではなく、聞くのです」


「聞いて、何が救われるのですか」


 ヴィクターの声が鋭くなる。


「私の生家は、古い石の屋敷でした。祖父は屋敷を愛し、父も屋敷を愛した。雨漏りしても、壁が崩れても、先祖の記憶があるからと直し方を変えなかった。母は湿った部屋で病み、妹は冬の夜に熱を出した。屋敷が大切だから、人が我慢した」


 初めて、彼自身の話が出た。


 私は黙って聞いた。


「だから私は、建物から感情を抜くと決めた。家は人を守る道具でなければならない。人が家のために苦しむなど、本末転倒です」


 その言葉には、正しさの一部があった。


 古い家を守るために、人が傷つくことはある。伝統や思い出を理由に、寒い部屋を我慢させることもある。建物の声を聞くと言いながら、人の声を聞かないなら、それは確かに間違いだ。


 私はゆっくり言った。


「あなたのお母様と妹様は、守られるべきでした」


 ヴィクターの目が揺れる。


「家の記憶より、人の命が先です。そこは、あなたが正しい」


 カイル様も静かに頷いた。


「灰鴎城でも、城の悲しみを理由に人を危険にさらしていた。私はそれを正す」


 ヴィクターは唇を引き結んだ。


「ならば、なぜ止める。空殿は、人の命を建物の感情から解放する」


「違います」


 私は首を横に振った。


「あなたは、建物の感情だけでなく、人の記憶まで奪っています。潮見町の宿、港の小屋、王城の食堂。そこにいた人たちの帰る場所を、本人に聞かずに材料にした」


「大きな秩序のためです」


「あなたの家で、お母様や妹様の声を大きな秩序のために無視されたから、あなたは怒ったのではありませんか」


 ヴィクターの顔が変わった。


 痛いところへ触れたのだと思う。


「私は、同じことをしているわけではない」


「しています。あなたは、家のために人を我慢させた者たちを憎みながら、今度は秩序のために人の家を奪っています」


 空殿の壁が震える。


 ヴィクターの杖の先が黒く光った。


「では、どうしろと言う。建物に心があれば、また誰かが苦しむ。愛着は人を縛る。帰る場所など、弱さです」


「帰る場所は、逃げ込む檻ではありません」


 私は火皿を前へ出した。


「疲れた人が休み、間違えた人が戻り、壊れたものを直すための場所です。そこに閉じ込めるなら間違いです。でも、帰れる場所がない人は、もっと弱ります」


 ヴィクターは笑った。


「美しい言葉だ。だが、現実の家はそんなに優しくない」


「だから、人も家も練習するのです」


 カイル様が、私の隣へ立つ。


「聞く練習。休む練習。閉じる練習。開く練習。完璧な家などない。だが、空っぽの城よりはましだ」


 ユリウス殿下も火皿を持って前へ出た。


「私も、聞く練習を始めたばかりだ。王としては頼りないかもしれない。だが、空殿のような従順な城に守られる王になるつもりはない」


 クラリス様の光が、ヴィクターの足元を照らした。


 そこに、黒い筋ではなく、古い家の記憶が見えた。


 湿った部屋。


 寒い寝台。


 咳をする少女。


 ヴィクターは杖でその光を振り払った。


「黙れ」


 初めて、彼が怒鳴った。


 空殿の中心穴が黒く開く。


 彼は自分の足元の記憶まで、空殿へ投げ入れようとしていた。


 自分の帰れなかった家すら、材料にするつもりだ。


 私は一歩踏み出した。


「それを入れたら、あなた自身も帰れなくなります」


「帰る場所など、いらない」


 ヴィクターは杖を振り上げた。


 空殿のすべての扉が、同時に閉まり始めた。

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