第二十七話 番号のない客室/潮門の子どもたち
空殿の寝室は、番号がなかった。
宿の客室なら、扉に番号がある。王城の客間なら、紋章や花の名がつく。灰鴎城の部屋なら、窓の向きや暖炉の癖で見分けられる。
空殿の寝室は、どれも同じ扉だった。
白い扉。
白い寝台。
白い枕。
誰が眠ったのか分からない部屋。
その一つへ入ると、私は急に足元が冷えた。
ここには、疲れて倒れるように眠った人の記憶がある。けれど、その人の顔も名も抜かれている。ただ「眠る」という形だけが残っている。
カイル様が眉を寄せる。
「休む場所まで奪うのか」
「休む記憶は、建物にとってとても大きいです。人が安心して眠った部屋は、強い帰る場所になります」
だから、空殿はそれを欲しがる。
白い寝台の上に、黒い粒がいくつも浮かんでいた。
王城の客室、潮見町の宿、灰鴎城の私の部屋。いくつもの眠りの記憶が混ざっている。
私の部屋。
その気配を感じた瞬間、胸が冷えた。
灰鴎城で初めて与えられた小さな部屋。窓が海に向いていて、アルクが隅で見張ってくれて、ニルが毛布を持ってきた部屋。
空殿は、それも奪おうとしている。
私は寝台へ近づこうとした。
カイル様が止める。
「あなたの部屋なら、あなたが一番引きずられる」
「でも、戻さないと」
「一人で戻すな」
彼は私の前に立った。
「その部屋は、あなた一人の記憶ではない。アルクもいた。ニルも毛布を持ってきた。私も、その部屋を用意した」
「カイル様も?」
「セルムに、海が見える部屋を用意するよう言った」
私は知らなかった。
あの部屋が、偶然ではなかったことを。
胸の冷たさが、少しだけ解ける。
「では、一緒にお願いします」
「ああ」
私たちは寝台の前に立った。
私は灰鴎城の部屋を思い出す。
海の音。毛布の重さ。アルクの不器用な見張り。自由すぎて少し怖かった扉の外。
カイル様が低く言った。
「その部屋は、あなたが最初に休むと言った部屋だ。客間ではなく、自分の部屋として」
黒い粒が震える。
クラリス様の光が、粒の周りを照らす。奪われた記憶が、私の胸へ戻ろうとする。重い。けれど、今は一人で受けていない。
カイル様の手が、私の背を支えている。
「帰って」
私は言った。
「あの部屋へ。海の音が聞こえる場所へ」
黒い粒が割れた。
灰鴎城の私の部屋の記憶が、空殿から抜ける。
白い寝室の一つが崩れ、薄い光になって消えた。
だが、残りの寝室はまだ並んでいる。
ミラさんが潮見町の宿の客室を語り、王城の侍女が客間の布を干した日のことを語り、近衛の一人が夜番明けに休んだ小部屋を語った。
部屋は一つずつ消えていく。
しかし、奥にある寝室だけは残った。
そこには揺りかごがあった。
王妃の部屋で見たものと同じ形。
エリアナ王妃と幼い王子の記憶だ。
ユリウス殿下が息をのむ。
「これは、王城へ戻すべきものか」
「はい。でも、王城の礎石へ閉じ込める形ではなく」
私は揺りかごへ近づいた。
中には、名のない眠りがあった。
幼い子どもが、城にされる前に眠りたかった夜。
私は火皿を置いた。
「あなたは、礎石ではありません。王子で、子どもで、眠る場所が必要だった人です」
揺りかごが淡く揺れる。
ユリウス殿下が膝をついた。
「遠い祖先としてではなく、同じ王家の子として謝る。あなたを城にした者たちの上に、私は立っていた」
彼の声が震える。
「もう、誰も城にしない」
揺りかごの光が、王城の方角へ帰っていく。
空殿の寝室が崩れた。
白い廊下の奥で、今度は子どもたちの声が聞こえた。
潮門洞の子どもたちではない。
空殿が、まだ多くの帰れなかった声を抱えている。
◇
白い廊下の奥は、海の匂いがした。
空殿の中なのに、潮門洞の冷たい風が吹いている。壁は白いままなのに、足元だけが濡れた岩場のように滑った。
灰鴎城の帰火が強く揺れる。
潮門洞で迎えた子どもたちの記憶が、まだ完全には帰れていないのだ。
カイル様の顔が険しくなる。
「昨日、帰火で迎えたはずだ」
「空殿が、残った悲しみを引っ張っているのだと思います」
帰った記憶でも、痛みが深ければ引き戻される。
ヴィクターはそれを利用している。
廊下の先には、小さな部屋があった。
灰鴎城の子ども部屋と、潮門洞の避難場所が混ざったような部屋だ。壁には船の絵。床には石の台。窓の外には海ではなく、空殿の白い空白が広がっている。
部屋の中央に、子どもたちの影が立っていた。
はっきりした姿ではない。光の粒が集まったような影だ。けれど、手をつないでいるのが分かる。
カイル様が一歩前に出る。
「迎えに来た」
影たちは動かない。
その中の一人が、壁の船へ触れた。
船は動かない。
空殿の中では、帰る船も道を忘れる。
私は帰火を床へ置いた。
「灰鴎城で、あなたたちの部屋が待っています。床は直し途中だけれど、トマさんが必ず直します。ニルが覚えています。マルタさんも、厨房の火も」
影たちはまだ迷っている。
カイル様が低く言った。
「私の謝罪だけでは足りないか」
その声には、苦しさがあった。
私は首を横に振った。
「足りないのではなく、怖いのだと思います。もう一度帰ろうとして、また置いていかれるのが」
カイル様は目を閉じた。
「なら、私が先に行く」
「え?」
彼は子どもたちの部屋へ入り、石の台の前に座った。
「私は、ローデン家の城主だ。君たちを置いていった家の者だ。信用できないなら、私を先に灰鴎城へ帰せばいい。私が帰れなければ、君たちはここを動かなくていい」
「カイル様、それは」
「人質だ」
彼は平然と言った。
平然としているが、かなり無茶なことを言っている。
子どもたちの影が揺れた。
その中の一人が、カイル様の袖に触れる。光の指が、布を少し揺らした。
カイル様は動かなかった。
「私は逃げない」
部屋の空気が変わる。
灰鴎城の帰火が強くなり、壁の船がゆっくり動き始めた。絵の船なのに、波の上を進むように。
クラリス様の光が船の輪郭を照らす。
ユリウス殿下が、王城の火を差し出した。
「王城も、道を貸す」
彼は子どもたちへ頭を下げた。
「王家が、あなたたちのことを記録から遠ざけた。私も、その上に立っていた。すまなかった」
子どもたちの影が、少しずつ動く。
カイル様が立ち上がり、手を差し出した。
最初の影が、その手を取った。
次に二人目。
三人目。
部屋の船が光り、灰鴎城の方角へ道を作る。
その道の先に、東棟の子ども部屋が見えた。
ニルがそこに立っている。
王城に残っているはずなのに、アルクが小さな門を開いて映してくれたのだろう。ニルは涙をこらえながら、両手を振った。
「こっちです! 床、もう抜けません!」
子どもたちの影が、初めて笑ったように揺れた。
光は船に乗り、灰鴎城へ帰っていく。
カイル様は最後まで見送った。
部屋が薄くなり、潮の匂いが消える。
彼の横顔には、疲れと安堵があった。
「帰れたか」
「はい」
私が答えると、カイル様は短く息を吐いた。
「なら、次へ行く」
無理をしている。
でも今は、止めるより隣で支える場面だ。
私は彼の手を取った。
「一緒に」
彼は一瞬驚き、それから握り返した。
空殿の次の扉が、黒く開いた。




