第二十六話 空殿の入口/奪われた台所
空殿の入口には、足音が響かなかった。
王城の大理石の床なら、靴音が高く返る。灰鴎城の石床なら、海風を含んだ低い音がする。潮見町の宿なら、古い床板が少しだけ軋む。
ここには何もない。
床を踏んでいるのに、踏んだ場所が私たちを覚えない。
「気味が悪いな」
カイル様が低く言った。
「はい。部屋が、私たちを見ていません」
普通の建物は、誰かが入ると多少なりとも反応する。歓迎でなくてもいい。警戒、驚き、疲れ。何かがある。空殿には、それがない。
ただ、吸い込む。
周囲の火皿が小さく揺れた。王城の帰火、灰鴎城の帰火、宿の火、祠の火。それぞれが、ここに入るのを嫌がっている。
クラリス様の細い光が、白い壁をなぞる。
「黒い筋が、壁の内側にあります。外からではなく、中へ向かって流れています」
「中心の穴へか」
カイル様が言う。
「たぶん」
ユリウス殿下は火皿を持つ手に力を入れていた。王太子の衣ではなく、動きやすい上着を着ている。顔は緊張しているが、以前のように不機嫌で隠してはいない。
「リネア。部屋ごとに止めるのか」
「はい。奪われた記憶を戻しながら進みます。中心だけを壊しても、吸われた家々が空っぽのままになるかもしれません」
「分かった」
彼は短く頷いた。
空殿の最初の扉が、音もなく開いた。
中は、台所だった。
ただし、台所の形だけだ。
炉はある。棚もある。水場もある。けれど、匂いがない。焼いたパンの匂いも、煮込んだ豆の湯気も、濡れた布巾の湿り気もない。
マルタさんがここにいたら怒っただろう。
私はそう思った。
台所の中央に、黒い粒が浮かんでいる。灰鴎城の厨房から奪われた火の記憶だ。火が何を温めたか、誰の手を乾かしたか、そういうものが粒になって閉じ込められている。
火皿の中で、灰鴎城の火が強く揺れた。
「戻しましょう」
私は台所の炉へ近づいた。
だが、空殿の床から白い手のようなものが伸びる。石でも煙でもない。形だけの手。それが火皿へ向かってくる。
カイル様が剣で黒い筋を断つ。
クラリス様の光が白い手の輪郭を照らし、ユリウス殿下が火皿を後ろへ下げた。
「火を取らせない」
殿下の声は震えたが、足は引かなかった。
私は炉に手を当てる。
「台所は、命令で温かくなる場所ではありません」
何もない炉へ、灰鴎城の厨房を思い出す。
マルタさんの怒鳴り声。ニルが火吹き筒を渡した手。煙が戻らなくなった日の湯気。疲れた人たちがパンを分けた朝。
「火は、誰かを待つために残るものです」
火皿から小さな火が跳ねた。
炉に落ちる。
白い台所に、初めて匂いが生まれた。
焼けたパンの匂い。
豆のスープの湯気。
黒い粒が割れ、中から灰鴎城の厨房の記憶が流れ出す。
それは空殿のものではない。
火は壁を抜け、灰鴎城の方角へ帰っていった。
台所は崩れず、形だけを残して薄くなる。
空殿が小さく震えた。
初めて、嫌がったように見えた。
ヴィクターの声が、どこからともなく響く。
「一つ戻しただけです。部屋は、まだいくらでもあります」
私は火皿を持ち直した。
「一つずつ戻します」
空殿の次の扉が開いた。
◇
次の部屋も台所だった。
ただし、灰鴎城の厨房ではない。王都の商家の台所、潮見町の宿の台所、港の小屋で火鉢を囲んだ場所。それらが少しずつ混ざり合い、どこの家とも言えない台所になっている。
空殿は、部屋を作るために記憶を整えていない。
混ぜて、形だけを並べている。
棚には器があるのに、誰が使った器か分からない。炉には薪があるのに、誰のために燃えたのか分からない。水場には桶があるのに、誰が朝一番に水を汲んだのか分からない。
「これは、ひどい」
クラリス様が小さく言った。
彼女の光が震えている。
以前の彼女なら、怖さを柔らかく包んだかもしれない。今は、怖いものを怖いまま照らしている。
ユリウス殿下が炉の前に立った。
「何をすればいい」
「王都の家の記憶が混じっています。殿下が知っている台所はありますか」
「私は、王城の厨房にもほとんど入ったことがない」
彼は苦い顔をした。
それは恥ずかしさの顔だった。
「だが、使用人食堂の火は見た。スープも食べた」
「それで十分です」
私は王城の帰火を彼の火皿へ近づけた。
「思い出してください。列に並んだこと。木の椀の重さ。ご苦労、と言った相手の手」
殿下は目を閉じた。
「椀は、思ったより熱かった。侍女の手が震えていた。私は、震えさせていたのが自分だと、その時初めて考えた」
火が強くなる。
台所の棚の一部が王城の使用人食堂へ戻っていく。
次に、潮見町の宿の火を持ったミラさんが前へ出た。彼女は王都まで同行していたが、空殿へ入ることにはカイル様が反対した。けれど彼女は、宿の台所を奪われたなら自分が行くと言った。
「うちの台所は、朝が一番忙しいの」
ミラさんは火皿を掲げた。
「旅人が出る前に、硬いパンを少しでも食べやすくする。子どもが熱を出したら粥を作る。ニルが小さいころ、鍋の蓋を太鼓みたいに叩いて怒られた」
「それ、覚えてます」
ニルは王城で待っているが、彼の声を思い出したのか、ミラさんは泣き笑いの顔になった。
宿の記憶が戻る。
台所の輪郭がさらに薄くなる。
空殿の床が白く波打った。
今度は、こちらを押し返そうとするのではなく、部屋そのものを閉じようとしている。
「戻される前に、忘れさせるつもりです!」
クラリス様が叫んだ。
白い壁から、音のない霧が流れ出す。
霧に触れた兵士の一人が、自分の持っている火皿を見て首を傾げた。
「これは、何の火だったか」
記憶を薄くする霧だ。
私は慌てて彼の手を取る。
「誰から預かりましたか」
「誰、から……」
彼はぼんやりする。
カイル様が近づき、低く言った。
「お前の妹が、港の倉庫で渡した火だ。出る前に、必ず戻してと言った」
兵士の目が戻る。
「そうです。妹が。倉庫の火です」
火皿が再び明るくなる。
空殿の霧は、人の記憶を奪う。
だが、誰かがその人を覚えていれば、引き戻せる。
私は声を張った。
「一人で火を持たないでください! 隣の人の火が何の火か、互いに言い合ってください!」
長い列の中で、人々が声を上げ始めた。
「これは祠の火」
「潮見町の宿の火」
「王城の食堂の火」
「港の倉庫の火」
声が重なる。
霧が薄くなる。
空殿の台所は、完全に形を失った。
奪われた火は、それぞれの場所へ帰っていく。
けれど、その先に開いた扉の向こうには、今度は寝室が並んでいた。
眠る場所の記憶。
そこには、もっと深い孤独が待っている気がした。




