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第二十五話 王城の帰火/空殿の場所

空殿へ向かう前に、王城にも帰火を灯す必要があった。


 王城は大きい。灰鴎城の礼拝室のような中心がどこにあるのか、簡単には分からない。礎石は地下にあるが、そこへそのまま火を置けば、傷口に触れることになる。


 王妃陛下は、エリアナ王妃の部屋を使うことを提案した。


「この部屋は、王妃たちが秘密を守ってきた場所です。閉じることで守った部屋を、今度は開くために使いましょう」


 私は頷いた。


 王城の帰火には、多くの人が関わった。


 厨房の料理人が火種を持ってきた。使用人食堂の暖炉から分けた火だ。昨日、王太子殿下も列に並んだあの食堂の火である。


 侍女たちは、王城の各所で見つけた黒い粉を包んだ布を持った。


 近衛は、地下で採取した削られた礎石の粉を封じた箱を持った。


 ユリウス殿下は、寝室の扉から外れた小さな木片を持ってきた。扉が黒い粉から自分を守るために割った部分だ。


 クラリス様は、閉じた祝福の光を細く保っている。


 カイル様は、灰鴎城の帰火を灯した小さな火皿を持っていた。


 二つの火を合わせる。


 王城の火と、灰鴎城の火。


 王都と北西、冠と潮。


 私は揺りかごの前に火皿を置いた。


「王城。あなたは長く、王家の秘密を抱えてきました」


 壁が静かに震える。


「でも、もう一人で抱え込まなくていい。ここにいる人たちが、一緒に覚えます」


 王妃陛下が壁画へ手を置く。


「王妃たちは、秘密を閉じて守りました。今日からは、開いて守ります」


 ユリウス殿下が寝室の木片を火皿のそばへ置いた。


「私は、聞かずに命じる王太子でした。これから、聞く練習をします。扉にも、人にも」


 クラリス様が光を火へ落とす。


「私は、不安を見えなくしました。これからは、傷を見るために光を使います」


 エドヴィン卿が近衛の箱を置いた。


「近衛は、王家だけでなく王城を守ります」


 カイル様が灰鴎城の火皿を近づける。


「灰鴎城から、火を渡す」


 私は二つの火の間に手をかざした。


 火は最初、混ざらなかった。


 王城の火は高く、青白い。灰鴎城の火は低く、橙色。互いに距離を置くように揺れている。


 王城は、まだ怖がっている。


 灰鴎城は、まだ遠慮している。


 私は火へささやいた。


「冠は潮を見下ろさず、潮は冠を拒まず」


 古書庫の石板の言葉だ。


「火を渡し、戸を開き、帰る者の名を問わず」


 火が、少し近づく。


 でも、まだ足りない。


 そのとき、部屋の外から声がした。


「リネア様」


 ニルだった。


 彼は本来、外で待つよう言われていた。だが、王妃陛下が扉へ頷くと、部屋の扉が開いた。


 ニルは両手で小さな木馬を持っていた。


 潮見町の宿で見つかった、昔彼がなくした木馬だ。


「これも、いいですか。宿が思い出したものだから」


 私は胸が熱くなった。


「もちろん」


 ニルは木馬を火皿のそばに置いた。


「ぼくは王族でも貴族でもないけど、灰鴎城に帰る場所があります。王都の子にも、そういう場所があった方がいいと思います」


 その言葉で、火が動いた。


 王城の火と灰鴎城の火が、ゆっくり重なる。


 青白さと橙が混じり、温かな金色になる。


 揺りかごの上に、淡い光が広がった。


 壁画のエリアナ王妃が、ほんの少し微笑んだように見えた。


 王城全体に、火の線が走る。


 大広間、使用人食堂、寝室の扉、地下階段、正門。


 正門で休んでいたアルクが、遠くで鳴いた。


 王城の帰火は灯った。


 だが、同時に旧王領の森から黒い衝撃が走った。


 窓が震え、火が一瞬小さくなる。


 空殿が、王城の帰火に気づいた。


 ヴィクターは、こちらが動くのを待っていたのかもしれない。


 王妃陛下が顔を上げる。


「行きなさい、リネア嬢」


 私は頷いた。


 王城の帰火を背に、空殿へ向かう時が来た。


 ◇


旧王領の森へ向かう隊は、以前の王家の討伐隊とはまったく違っていた。


 剣を持つ近衛もいる。カイル様の兵もいる。だが、中心にあるのは武器ではなく、火皿だった。


 王城の帰火。


 灰鴎城の帰火。


 潮見町の宿の火。


 港の倉庫の火。


 道端の祠の火。


 それぞれを小さな灯皿に入れ、風よけの箱に収めて運ぶ。火を運ぶ者は、兵士だけではない。料理人、侍女、漁師、旅商人、職人。身分も職も違う人々が、火を持って森へ向かう。


 ユリウス殿下も、その一つを持った。


 王太子が火皿を持って歩く姿に、貴族たちは複雑な顔をした。だが、殿下は上座へ戻らなかった。


 クラリス様は彼の隣ではなく、私の少し後ろで光を保っている。彼女の光は、黒い筋を見つけるために細く研がれていた。


 アルクは、王城の正門に残った。


 本人は強く不満を示したが、蝶番の傷を理由に、王城と灰鴎城の門たちをつなぐ役を任された。ニルも王城に残り、アルクが無理をしないよう見張る。


「帰ったら、必ず報告します」


 私が言うと、アルクはしぶしぶ鳴った。


 ニルは真剣な顔で頷いた。


「ぼくが聞いておきます」


 王城の正門は、私たちを送り出すとき、大きく開いた。


 行ってらっしゃい。


 それは、灰鴎城で聞いた音と少し似ていた。


 森へ入る道は、古い石畳がところどころ残っていた。かつては王家の狩場へ向かう道だったのだろう。今は木の根に持ち上げられ、苔に覆われている。


 森の中の空気は、妙に静かだった。


 鳥の声がない。


 風はあるのに、葉があまり鳴らない。


 建物ではない森まで、空殿に息を奪われているようだった。


 クラリス様の光が、足元の黒い筋を照らす。


「ここにもあります」


 黒い筋は、王都から森へ続く道の下に走っていた。王都の家々から吸い上げた記憶を、空殿へ運ぶ道だ。


 私は帰火を近づける。


 黒い筋は火を嫌がるように縮んだが、完全には消えない。森の奥から、さらに強い力で引っ張られている。


 カイル様が周囲を見た。


「近いな」


「はい」


 やがて、森が開けた。


 そこに、空殿があった。


 完成した城ではない。


 しかし、未完成とも言えない。


 壁はあるのに厚みがない。窓はあるのに外を映さない。扉は並んでいるのに、どれも誰かを迎える気配がない。石は灰色ではなく、記憶を抜かれた骨のように白い。


 中心には、大きな穴があった。


 王城の礎石を入れるための穴。


 そこへ、黒い粉と光の粒が集まっている。


 王都の家々の記憶。


 灰鴎城の子どもたちの悲しみ。


 潮見町の宿の温かさ。


 祠の帰り道。


 すべてが、空殿の中心へ吸われている。


 そして、その前にヴィクターが立っていた。


 彼は黒い杖を持ち、穏やかに礼をした。


「ようこそ。帰る場所を愛する皆様」


 カイル様が剣に手をかける。


 ヴィクターは微笑んだ。


「剣では止まりません。ここは、まだ城ではない。だから傷つけても痛がらない。泣きもしない。あなた方が大切にしている弱さが、ここにはない」


 私は空殿を見上げた。


 確かに、痛みがない。


 でも、それは強さではない。


 何も覚えていないだけだ。


「弱さがないのではありません」


 私は火皿を両手で持った。


「帰る場所を知らないのです」


 ヴィクターの笑みが、少しだけ冷たくなった。


「では、教えてみますか。空の城に、帰るという無駄を」


 空殿の扉が、一斉に開いた。


 向こうには、数えきれないほどの部屋があった。


 どの部屋も、誰かの家から奪われた記憶で作られている。


 私たちは、空殿の中へ入るしかなかった。

ここから最終章です。空殿内部で、これまで積んできた「帰る場所」の記憶をすべて支払いに使っていきます。

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