第二十四話 王太子の席/クラリス様の選択
旧王領の森から立ち上がった黒い輪郭は、王城の塔からも見えた。
城というにはまだ不完全だった。壁は薄く、屋根はなく、窓の形だけが空中に浮いている。だが、そこには確かに建物の意思のようなものがあった。
ただし、温度がない。
喜びも痛みも、待つ気配もない。
空殿。
帰る者のいない、空っぽの城。
王都の人々は、黒い輪郭を見て騒ぎ始めた。王城の中も混乱した。貴族たちは自分の屋敷へ戻ろうとし、重臣たちは王を守るための部隊を集めようとする。
その中で、ユリウス殿下は立ち尽くしていた。
私は彼へ近づいた。
「殿下」
「私は、あれを望んだのか」
彼は黒い輪郭を見たまま言った。
「王城に従ってほしいと思った。私を見てほしいと思った。王太子として認めてほしいと思った。ヴィクターは、それを形にしたのか」
「殿下の望みだけではありません。ヴィクター自身の考えです」
「だが、私の弱さを使われた」
私はすぐに慰めなかった。
使われたのは事実だ。
けれど、弱さがあること自体は罪ではない。弱さを理由に誰かを傷つけたことが、向き合うべき問題なのだ。
「これから何をするかです」
私が言うと、殿下は私を見た。
「私は、どうすればいい」
その問いを、彼が私に投げたのは初めてかもしれない。
命令でも、非難でも、言い訳でもない。
助言を求める問い。
「まず、席を選んでください」
「席?」
「王太子として高い場所から命じる席か、家を守る人たちと同じ長卓につく席か」
殿下は一瞬戸惑った。
だが、すぐに意味を理解したようだった。
王城の大広間では、重臣たちが円卓を用意しようとしていた。王と王太子は上座、貴族は序列順、家守である私は説明役として脇に立つ。いつもの形だ。
けれど、空殿に対抗する作戦は、その形では進まない。
灰鴎城での会議のように、火を守る人、扉を見る人、道を知る人、光を照らす人、すべての声が必要だ。
殿下は大広間を見渡した。
そして、上座ではなく、使用人食堂から運ばれた長卓の端に座った。
貴族たちがざわめく。
殿下は顔を赤くしたが、立たなかった。
「ここで聞く」
短い言葉だった。
王城の床が、温かくなる。
カイル様が長卓の反対側に座り、王妃陛下も静かに席へついた。陛下はしばらく迷ったが、結局、王妃陛下の隣ではなく、少し離れた席に座った。
クラリス様は殿下の隣ではなく、私の近くに座った。
その選択を、殿下は黙って受け止めた。
作戦は、まず王都の帰火を確保するところから始まった。
空殿が起きると、王都の建物から記憶が吸われる。だから、王城、商家、宿、祠、井戸、倉庫、それぞれに火を分け、黒い筋が伸びたらすぐ断つ必要がある。
エドヴィン卿は近衛を、剣だけでなく火皿の運搬へ配置した。
重臣の一人が不満そうに言った。
「近衛に火を運ばせるなど」
ユリウス殿下が即座に言った。
「王都を守る仕事だ」
その一言で、重臣は黙った。
マルタさんが持たせてくれたパンは、王城の厨房へ渡された。厨房の火を落ち着かせるためだ。王城の料理人たちは最初戸惑っていたが、マルタさんの「空腹の人間は扉より頑固」という伝言を聞くと、なぜか納得した顔で鍋を火にかけた。
ニルは、王都の子どもたちへ伝える役を任された。
扉を蹴らない。
寒い部屋を我慢しない。
黒い粉を触らない。
簡単で、大事なことだ。
アルクは王城の正門で休みながら、残った正門と一緒に門の開閉を調整している。本人は不満そうだが、ニルに見張られているので無理はしない。
私は長卓の地図へ帰火の線を描いた。
王城から王都へ、王都から旧王領の森へ。
空殿へ向かうには、森の入口まで帰火をつなぐ必要がある。
ユリウス殿下が地図を見た。
「私も行く」
エドヴィン卿が即座に止めようとした。
殿下は続けた。
「王太子としてではない。私の弱さが使われたなら、私も見届ける必要がある」
私は彼を見る。
昨日までなら、危険を理由に止めたかもしれない。
でも、彼にも選ぶ権利がある。
「行くなら、命令ではなく、手伝いとして来てください」
「分かった」
「扉に礼をすること」
「……分かった」
少し間があったが、返事はした。
王城の大広間が、かすかに鳴った。
王太子が選んだ席は、まだ頼りない。
けれど、少なくとも上から命じる席ではなかった。
◇
空殿へ向かう準備の中で、クラリス様は一つの決断をした。
妖精の祝福を、弱める。
彼女の光は、人を安心させる。黒い筋を照らすよう使い方を変えても、力の根には「不安を薄くする」性質が残っている。空殿の近くでは、それが逆に危険になるかもしれなかった。
空殿は、帰る場所の記憶を奪う。
不安や痛みが薄くなれば、人は奪われていることに気づきにくくなる。
「祝福を完全に消すことはできません」
クラリス様は王妃の部屋で言った。
「でも、私が無意識に広げている光を、閉じることはできます。そうすれば、必要な場所だけ照らせるはずです」
王妃陛下が彼女を見つめる。
「閉じれば、あなた自身にも不安が戻ります」
「はい」
「殿下のそばで、あなたはその不安を消すことで立っていたのではありませんか」
クラリス様は唇を噛んだ。
その言葉は少し厳しい。
けれど、王妃陛下は彼女を責めるために言ったのではない。自分が何を手放すのか、確認させている。
「そうです」
クラリス様は認めた。
「私は、殿下に選ばれたことが嬉しかった。でも、怖かった。リネア様から奪ったと言われるのも、王妃にふさわしくないと言われるのも、全部怖かった。だから、笑って、光で柔らかくして、私も周りも見ないふりをしました」
ユリウス殿下は部屋の入口で立ち尽くしていた。
クラリス様は彼を見た。
「殿下。私は、あなたの優しい人形ではありません」
殿下の顔が白くなる。
「そんなふうに思ったことは」
「思っていなくても、そう扱っていました。私が笑っていれば、殿下は安心していた。私が不安を言うと、聞かない顔をした」
殿下は反論しなかった。
以前なら、クラリスは優しいからそんなことは言わない、と言ったかもしれない。
今は、彼女の言葉を聞いている。
「私は、殿下の隣にいるかどうかを、今は決めません」
クラリス様は続けた。
「まず、自分の光を自分で扱えるようになりたい。誰かに選ばれたからではなく、自分で立つために」
王妃陛下が静かに頷いた。
「よい選択です」
クラリス様は私を見た。
「リネア様。私は、あなたにしたことを謝りたいです」
「受け取ります」
私は言った。
彼女は少しだけ笑った。
「許す、ではないのですね」
「簡単に許すと、また見ないふりになります」
「はい。そうですね」
彼女は目を閉じた。
妖精の光が、部屋いっぱいに薄く広がる。
王妃陛下が壁画の帰火へ手を置き、私はクラリス様の手首へ触れた。彼女の光は温かく、柔らかい。人の痛みを和らげようとする優しい力だ。
けれど、その優しさは、本人を守る鎧にもなっていた。
「閉じるのは、消すことではありません」
私は言った。
「必要なときに開くために、しまうのです」
クラリス様は頷いた。
光が少しずつ彼女の手の中へ戻っていく。
広がっていた甘さが消え、部屋の空気がはっきりした。壁の冷たさ、床の硬さ、遠くのざわめき。すべてが少し鋭く感じられる。
クラリス様は震えた。
不安が戻ってきたのだろう。
ユリウス殿下が一歩近づきかけ、止まった。
彼女が求めるまで、触れない。
それもまた、彼にとっては練習だった。
クラリス様は自分で息を整えた。
「怖いです」
彼女は小さく言った。
「でも、見えます。さっきまでより、ずっと」
彼女の指先から、細い光が一本だけ伸びた。
壁画の黒い筋を正確に照らす。
光はもう、部屋を甘く包まない。
必要な傷だけを、逃さず照らしている。
「行けます」
クラリス様は顔を上げた。
その目は赤いが、以前より強かった。
ユリウス殿下が低く言った。
「クラリス。私は、君を聞く練習をする」
「練習中の人ばかりですね」
クラリス様は少し笑った。
「私もです」
王妃の部屋の扉が、静かに開いた。
王城も、その選択を受け入れたようだった。




