第二十三話 王妃の鍵/エリアナ王妃の真実
王妃陛下が案内したのは、大広間の奥にある小さな扉だった。
その扉は、私は一度も見たことがない。王妃教育で大広間を何度も使ったのに、壁の装飾だと思っていた場所だ。王妃陛下が近づくと、装飾の一部がずれ、古い鍵穴が現れた。
彼女は首にかけていた細い鎖を外した。
その先に、小さな灰色の鍵がある。
「王妃だけが持つ鍵です」
陛下が険しい顔をした。
「その部屋は、開けぬと決めていた」
「決めたのは、あなたではありません。歴代の王です」
王妃陛下は静かに答えた。
「私は、開けるべき時が来たと思います」
ユリウス殿下が息をのむ。
王妃陛下は鍵を差し込み、ゆっくり回した。
扉は、抵抗しなかった。
ただ、長く閉じていた息を吐くように開いた。
中は、小さな部屋だった。
窓はなく、壁には古い絵が描かれている。中央に置かれているのは、揺りかご。もちろん、三百年前のものがそのまま残っているわけではない。何度も手入れされ、布を替えられ、しかし使われることなく守られてきた揺りかごだ。
部屋の壁には、王城と一人の女性、そして幼い子どもが描かれていた。
エリアナ王妃。
肖像画の廊下で見た女性だ。
ただし、この部屋の壁画では、彼女は王冠を被っていない。裸足で、子どもを抱き、王城の礎石の前に立っている。
王妃陛下は壁画を見上げた。
「王妃たちの間でだけ、口伝がありました。エリアナ王妃は、病で亡くなったのではない。王城の礎石に、自分と子の記憶を封じられたのだと」
陛下が低く言う。
「なぜ、私に言わなかった」
「あなたが、王城を王家の所有物としてしか見ていなかったからです」
部屋の空気が張る。
王妃陛下の声は静かだが、長く積もったものがあった。
「王たちは、この話を恐れました。王城が王に逆らう理由になるから。王妃たちは、この話を守りました。二度と同じことを起こさせないために」
私は壁画へ近づいた。
エリアナ王妃の足元に、小さな火が描かれている。
帰火だ。
彼女は家守だったのかもしれない。
王家に嫁ぎ、王城を守ろうとした。しかし、誰かがその力を利用し、幼い王子の記憶を礎石へ閉じ込めた。
「ヴィクターは、この口伝を知っていたのでしょうか」
王妃陛下は頷いた。
「カンドルフ家は、代々王城の石守です。王妃の部屋には入れませんが、礎石の補修記録には触れられる。三百年前の儀式を、補修技術として読み替えたのでしょう」
「空殿は、その再現ですか」
「おそらく。ただし、今回は王族の記憶だけではなく、王国中の家から帰る場所の記憶を集めている。より従順で、より空っぽな城を作るために」
私は揺りかごに触れた。
柔らかい布の下に、古い木の温かさがある。
この部屋は、閉じ込められていたのではない。
守られていた。
王妃たちが、秘密を消さないために守っていた部屋だ。
壁画の下に、古い文字が刻まれていた。
私はそれを読んだ。
「城は王を飾る器にあらず。帰る者を抱く家なり。王が家を忘れる時、門は閉じよ」
ユリウス殿下が顔を上げる。
王が家を忘れる時、門は閉じよ。
王城が殿下を拒んだのは、古い約束に従ったのだ。
殿下は、壁画へ深く頭を下げた。
誰に言われたわけでもない。
私はその姿を見て、少しだけ胸の重さが軽くなるのを感じた。
陛下は、長く沈黙していた。
やがて、低い声で言った。
「私は、王城を信じていなかったのだな」
王妃陛下はすぐに慰めなかった。
「信じるには、まず聞く必要があります」
その言葉に、灰鴎城でのカイル様を思い出した。
聞くこと。
それが、城にも人にも必要なのだ。
クラリス様が部屋の隅を照らす。
「リネア様、ここに黒い筋があります」
壁画の端に、細い黒い線があった。
ヴィクターは、この部屋にも入っていたのだろうか。
だが、鍵は王妃陛下しか持っていない。
王妃陛下の顔が青ざめる。
「鍵を使わずに入ったのではありません。鍵の記憶を削ったのです」
私は黒い筋を見た。
鍵が、いつ誰に開けられたかを覚えている。その記憶を削れば、扉は開いたことを忘れる。
ヴィクターは、王妃の秘密すら材料にしていた。
黒い筋は、壁画の下へ伸びている。
そこに、地図の一部が描かれていた。
森の中の空白。
王妃陛下が息をのむ。
「そこは、旧王領の狩場です。今は立ち入りを禁じています」
空殿の場所が、ようやく見えた。
◇
王妃の部屋の壁画は、ただの絵ではなかった。
クラリス様の光が黒い筋を照らすと、絵の奥に隠れていた線が浮かび上がった。王城から旧王領の森へ、森から灰鴎城へ、さらに海辺の潮門洞へ。家守の地図と同じ線が、壁画の中にも刻まれている。
エリアナ王妃は、王城だけを守ろうとしたのではない。
王国中の家を、帰火でつなごうとしていた。
だが、その計画は途中で断たれた。
私は壁画へ手を当てた。
王妃陛下が静かに見守る。陛下も、ユリウス殿下も、重臣たちも部屋の外で待っている。中に入ったのは、王妃陛下、私、カイル様、クラリス様だけだ。
壁画の記憶が、ゆっくり開いた。
三百年前。
王城は、今より若かった。
エリアナ王妃は、王族の中で異質な存在だった。彼女は扉の前で立ち止まり、暖炉の灰を見て、井戸の屋根を気にした。王からは変わり者と言われたが、使用人たちは彼女を慕った。
彼女は、王城だけでなく、王都の家々、港、砦、宿場を帰火で結ぼうとした。
王国が飢饉や戦で揺れたとき、人が帰る場所を失わないように。
しかし、当時の石守たちは別の考えを持っていた。
城は王に従うべきだ。
家が人の感情に左右されれば、王国は弱くなる。
帰火の線は、民の声を王城へ届けてしまう。それは、王にとって危険だ。
石守たちは、エリアナ王妃の力を奪い、幼い王子の記憶を礎石へ封じた。
王城は、王家を守るために人の心を抱く城になった。
けれど同時に、王へ逆らう力を得た。
それはエリアナ王妃の願いではなかった。
彼女が願ったのは、城を従順にすることでも、王へ逆らわせることでもない。
人が帰れる場所を、互いに守り合うことだった。
私は手を離した。
目の奥が熱い。
「エリアナ様は、失敗したのではありません。途中で奪われたのです」
王妃陛下は壁画を見上げた。
「王妃たちは、秘密を守ることしかできなかった。私も、部屋を閉じることしか」
「閉じていたから、消えませんでした」
私は言った。
「守り方は、時に閉じることでもあります。でも、今は開く時です」
王妃陛下は目を閉じ、深く息を吸った。
「そうですね」
彼女は部屋の外へ出た。
大広間に戻ると、貴族たちがざわめく中、王妃陛下は静かに立った。
「エリアナ王妃の真実を、王家は隠してきました」
陛下が顔を上げる。
重臣たちが慌てる。
王妃陛下は止まらなかった。
「王城は王家の所有物ではありません。王国に生きる者たちの帰る場所を、冠として預かるものです。王がそれを忘れた時、王城は閉じる。その古い約束を、私は王妃として認めます」
大広間が揺れた。
それは人のざわめきだけではない。
王城そのものが反応した。
高い窓が明るくなり、長く曇っていた天井画の色が少し戻る。壁の奥から、誰かが息を吐くような音がする。
ユリウス殿下が立ち上がった。
「私も認めます」
彼は声を張った。
「王太子として、王城を従わせるのではなく、聞くことを学びます。昨日、私はそれを怠った。リネア・ファルスター嬢を辱め、王城も傷つけた。ここで、改めて謝罪します」
大広間が静まり返る。
私に向けられた謝罪ではあるが、殿下は私だけを見ていなかった。広間、使用人、王城、クラリス様、自分の両親。すべての前で言っていた。
「すまなかった」
私は膝を折らず、立ったまま頷いた。
「受け取ります」
許す、とはまだ言わなかった。
それでよいのだと思う。
王城の大広間が、静かに温かくなった。
しかし、その温かさを裂くように、外から号砲ではない重い音が響いた。
地面が揺れる。
王都の外、旧王領の森の方角から、黒い柱が立ち上っていた。
煙ではない。
城の輪郭だ。
空殿が、起き始めている。




