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第二十二話 王都の家々が咳をする/裁きの広間

港の無人の扉を退けた翌日、王都から伝令が届いた。


 エドヴィン卿からのものだった。


 王城の傷は一時的に落ち着いている。ユリウス殿下は寝室に入れるようになったが、扉へ礼をするまで寝台が壁際へ寄り続けたらしい。クラリス様はその部分を聞いて、少しだけ笑った。


 しかし、伝令の後半は笑えなかった。


 王都の家々が、咳をする。


 そう書かれていた。


 実際に咳をするわけではない。暖炉が煙を返し、井戸の屋根が軋み、商家の倉庫が品物の場所を忘れ、いくつかの宿では客室の番号が入れ替わる。王都中の建物が、小さな不調を同時に起こし始めている。


 黒い粉も、複数箇所で見つかった。


 ヴィクターの姿は消えたまま。


 王城の地下から削られた礎石の記憶が、王都の建物へ流れている可能性がある。


「こちらの帰火に反応して、向こうも動きを早めたか」


 カイル様は伝令を読み終え、地図へ目を落とした。


 石板の地図では、王都周辺の火の線が弱く震えている。灰鴎城から伸ばした帰火は、まだ王都の中心までは届いていない。


 アルクは休ませる必要がある。


 それでも、王都へ行かなければならない。


「馬車で戻ります」


 私が言うと、カイル様は頷いた。


「アルクを使わない。道中の宿にも火を渡しながら行く」


「時間がかかります」


「急いで倒れるよりましだ」


 正論だった。


 私は素直に頷いた。


 アルクが食堂の入口で鳴る。


「一緒には来てもらいます。でも、大きな門は開かないでください」


 不満そうな音。


「約束です」


 さらに不満そうな音。


 ニルがアルクの横に立った。


「ぼくが見ています」


 アルクは沈黙した。


 ニルに見張られるのは、どうやら効くらしい。


 王都へ戻る準備は、前回より大掛かりになった。


 帰火を分けた小さな灯皿をいくつも用意し、黒い粉を包む布、煙を逃がすための薄板、扉の隙間を保つ楔、温かい食べ物。戦の支度ではなく、家を守るための支度だ。


 マルタさんが袋いっぱいのパンを渡してくれた。


「向こうの人にも食べさせな。空腹の人間は扉より頑固だよ」


「ありがとうございます」


 トマさんは工具を積み、漁師たちは港の倉庫へ帰火を守る人を置いた。クラリス様は灰鴎城に残るか迷ったが、王都の黒い筋を照らすため同行を選んだ。


「今度は、私が見えなくしたものを、見えるようにしに行きます」


 その声は、以前より少し強かった。


 出発のとき、灰鴎城は玄関広間を温かくしてくれた。


 帰ってくる場所を、出ていく人に見せるように。


 私は壁へ手を当てた。


「行ってきます」


 壁が、ゆっくり鳴る。


 いってらっしゃい。


 今度は、はっきり聞こえた。


 馬車は王都へ向かった。


 道中、私たちは小さな場所に帰火を渡していった。街道の祠、潮見町の宿、雨で軒が沈んだ農家、旅人が集まる井戸。どの場所でも、建物の不調だけでなく、人の不安があった。


 家が咳をすると、人も咳をする。


 家が眠れないと、人も眠れない。


 帰火を灯すたび、誰かが少しだけ肩の力を抜いた。


 王都へ近づくころには、同行する人が増えていた。


 潮見町のミラさんが、宿で使っていた古い灯皿を持ってついてきた。道端の祠を直した旅商人も、王都に知り合いの店があると言って同行した。漁師の若者二人は、港の倉庫から火を預かってきた。


 これは、行軍ではない。


 帰る場所を持ち寄る行列だ。


 王都の外門が見えたとき、空は曇っていた。


 城壁の向こうから、いくつもの煙が上がっている。火事ではない。煙突から戻った煙が、街の上に低く溜まっているのだ。


 王都が咳をしている。


 私は灯皿の火を両手で包み、門を見上げた。


 今度は、私一人ではない。


 灰鴎城の火と、港の火と、宿場の火と、祠の火を持った人たちが一緒にいる。


 王都の門は、重そうに開いた。


 中から、煙と不安の匂いが流れてきた。


 ◇


王都へ入ると、噂はすでに私たちより先に走っていた。


 城を連れて逃げた令嬢。


 辺境伯と共に王城へ戻った家守。


 港の無人扉を止めた女。


 王太子に扉へ謝らせた女。


 最後の噂は、かなり形を変えていた。私が王太子殿下を扉の前に跪かせた、という話になっているらしい。事実ではないが、殿下が聞いたらまた不機嫌になりそうだ。


 王城へ向かう途中、商家の軒先で黒い粉を見つけた。


 そこでは、店主が倉庫の扉を押さえていた。中に入れた品物の場所が分からなくなり、棚の奥へ吸い込まれるように消えていくという。


 私は馬車を止めた。


 王城での会議に遅れる、とエドヴィン卿からの迎えの騎士が言ったが、カイル様が一言で止めた。


「王城へ行く途中の家を見捨てる家守を、王城は信用しない」


 騎士は口を閉じた。


 商家の倉庫は、忙しさに疲れていた。毎日物が出入りし、誰も棚へ礼を言わない。そこへ黒い粉が入り、倉庫は自分が何を預かる場所なのか忘れかけていた。


 店主の妻が、古い帳面ではなく、自分の記憶で棚を語った。


「あの棚には冬用の布を置くの。去年、娘の嫁入り布を選んだ場所よ。こっちは雨の日に濡れた袋を乾かした場所。奥の棚は、父が生きていたころから塩を置いていた」


 倉庫は少しずつ落ち着いた。


 帰火を灯し、黒い粉を布で包むと、店主は深く頭を下げた。


「王城へ急がれているのに、うちなどに」


「うちなど、ではありません」


 私は言った。


「王城も、こういう場所の上に立っています」


 その言葉を、周囲の人々が聞いていた。


 王城へ着いたころには、私たちの後ろに小さな人だかりができていた。皆が中へ入れるわけではない。けれど、王都の家々が咳をしていることを、誰も他人事だと思えなくなっていた。


 王城の大広間は、裁きの場のように整えられていた。


 陛下、王妃陛下、ユリウス殿下、重臣たち、貴族たち。昨日まで祝宴の笑い声が響いていた場所に、今日は硬い沈黙がある。


 私が入ると、視線が集まった。


 嘲笑ではない。


 警戒と期待と、少しの恐れ。


 王妃陛下は、初めて近くで見ると、とても静かな女性だった。銀色の髪を結い、淡い紫の衣をまとっている。表情は穏やかだが、目は王城の壁を見ていた。


 この方も、何かを知っている。


 そう思った。


 会議は、予想通り厳しいものになった。


 重臣の一人が立ち上がる。


「リネア・ファルスター嬢。あなたは王城の不調を利用し、王家に条件を突きつけた。さらに北西で独自に火を配り、民を扇動しているとの報告がある」


「火を配ったのは、建物の不調を抑えるためです」


「民があなたを家守様と呼び始めている。王家の権威を損なう行為ではないか」


 私は一度、広間を見渡した。


 この場で負ければ、帰火は迷信として封じられる。ヴィクターを止める前に、人々の協力が切られる。


 私は手元の灯皿を見た。


 小さな火が、静かに燃えている。


「では、伺います」


 私は言った。


「この広間で働く方々は、昨夜、よく眠れましたか」


 重臣が眉をひそめる。


「何を」


「王城の廊下で煙が戻り、扉が開かず、使用人食堂の火が弱ったと聞きました。ここにいる皆様の家でも、同じことが起きているのではありませんか」


 貴族たちの間にざわめきが広がる。


 誰かが目をそらした。


 私は続けた。


「王家の権威を守るために、家の不調を黙って見過ごすことが、王国を守ることですか」


 広間の壁が、低く鳴った。


 王城が、私の言葉を聞いている。


 カイル様が後ろで静かに立っている。クラリス様は黒い筋を照らす準備をしている。アルクは休ませているため王城の正門に残ったが、正門の残った扉が外から気配を送ってくる。


 ユリウス殿下が立ち上がった。


 広間が静まる。


「父上。私は、リネアの言葉を支持します」


 重臣たちが驚く。


 殿下は顔を強張らせながらも、続けた。


「王城は私を拒みました。私はそれに怒った。だが、地下を見て分かった。王城は、私を困らせるために拒んだのではない。傷を見せるために拒んだのです」


 彼は私を見なかった。


 自分で言うべきこととして言っている。


「家守の火を禁じれば、王都の家々はもっと傷む。王家の権威は、民の家が咳をする中で保てるものではありません」


 大広間が揺れた。


 王太子が、家守を擁護した。


 昨日までなら、考えられないことだ。


 王妃陛下が静かに立ち上がった。


「では、古い鍵を開けましょう」


 その声は大きくなかった。


 だが、広間の全員が聞いた。


「リネア嬢。私が、エリアナ王妃の部屋へ案内します」


 王城の壁が、長い眠りから覚めるように鳴った。

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