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第二十一話 港に現れた無人の扉/アルクの蝶番

帰火の明かりが港へ届いた翌朝、海辺に扉が流れ着いた。


 板きれではない。


 扉だった。


 人の背丈ほどの古い木扉が三枚、波打ち際に立っている。枠も壁もないのに、扉だけが砂浜へ垂直に立ち、潮風を受けても倒れない。取っ手は黒く、鍵穴の周りには黒い塩がこびりついていた。


 漁師たちは距離を取り、子どもたちは家へ戻された。


 カイル様と私が港へ下りると、扉の一枚がゆっくり開いた。


 向こう側は海ではなかった。


 暗い廊下だ。


 どこの建物とも分からない、空っぽの廊下。壁も床もあるのに、匂いがない。人が歩いた記憶も、雨の日に湿った記憶も、誰かが掃除した記憶もない。


「空殿の一部か」


 カイル様が低く言った。


「まだ城ではありません。集めた扉を、仮につないでいるのだと思います」


 扉の向こうから、冷たい風が吹いた。


 砂浜に置いてあった漁具の小屋が、ぎしりと鳴る。小屋の扉が勝手に開きかけた。黒い扉が、その記憶を引き寄せようとしている。


「閉めて!」


 漁師の一人が走り、小屋の扉を押さえた。


 だが、黒い扉の力が強い。小屋の中に積まれた網、浮き、濡れた長靴。それらの記憶が、薄くなり始める。


 私は砂浜に膝をついた。


「その小屋で、最後に笑った人は誰ですか」


 漁師たちが戸惑う。


「早く!」


 私が叫ぶと、年配の漁師が声を張った。


「昨日の夕方だ! 若いのが網に足を取られて転んだ。皆で笑った!」


 別の男が続ける。


「雨の日に、ここで火鉢を囲んだ。濡れた靴下を乾かして、臭いって怒られた」


「うちの娘が、初めて針を結べたのもこの小屋だ!」


 生活の声が、砂浜に重なる。


 小屋の扉が踏みとどまった。


 黒い扉は、ぎい、と不満そうに鳴る。


 私は帰火を入れた小さな灯皿を取り出した。灰鴎城の礼拝室から分けた火だ。砂浜の風で消えそうになるが、漁師たちが外套で風を遮る。


「この火を、小屋へ」


 漁師の娘が、震える手で灯皿を受け取った。


 彼女は小屋の入口へ火を置き、扉に向かって言った。


「ここは、うちの父さんが帰ってくる場所です。持っていかないで」


 小屋が、ぎしりと鳴った。


 黒い扉の一枚に、ひびが入る。


 しかし、残りの二枚が同時に開いた。


 今度は港の倉庫と、海辺の祠が引き寄せられる。


 クラリス様の光が扉の縁を照らし、黒い筋を浮かび上がらせる。


「三枚とも同じところへつながっています!」


 彼女が叫ぶ。


「切れますか」


「照らすことはできます。でも、切るのは」


 アルクが、灰鴎城から港へ下りてきた。


 昨日までのひびは残っている。それでも、小さな門の姿で砂浜に立ち、黒い扉たちへ向かって鳴った。


 その音には、怒りがあった。


 扉として、許せないのだ。


 帰る場所を守るための扉が、帰る場所を奪う道具にされている。


「アルク、無理は」


 言い終える前に、アルクは門を開いた。


 向こう側に、王城の正門と灰鴎城の玄関が同時に見える。二つの城の気配が砂浜へ流れ込み、黒い扉の冷たい廊下を押し返した。


 カイル様が剣を抜く。


 普通の剣で扉が斬れるのかと思ったが、彼は扉そのものではなく、砂に伸びた黒い筋を断った。剣先に帰火の光が反射する。


 一本、二本。


 黒い筋が切れるたび、扉の向こうの廊下が薄くなる。


 最後の一本は、私の足元へ伸びていた。


 私は灯皿の火を指先に近づける。


 熱い。


 でも、痛みではない。


「ここへ帰る人たちの記憶は、あなたのものではありません」


 黒い筋へ火を落とす。


 砂が小さく鳴り、黒い筋が焼き切れた。


 三枚の扉は、力を失って砂浜へ倒れた。


 向こう側の廊下は消えている。


 港の人々が息を吐いた。


 アルクは、少し得意げに鳴った。


 だが、その直後、ひびの入った鉄飾りがまた細く割れた。


 私は駆け寄る。


「アルク!」


 門扉は、平気だと言うように鳴った。


 けれど、その音は弱かった。


 黒い扉は退けた。


 しかしヴィクターは、こちらの帰火に反応して攻撃を変えてきている。


 空殿は、ただ待っている未完成の城ではない。


 こちらの帰る場所を、一つずつ奪い返そうとしている。


 ◇


アルクのひびは、今度は蝶番まで達していた。


 門扉にとって蝶番は、人でいえば関節に近い。そこが傷つくと、開くことも閉じることも苦しくなる。アルクは平気そうに鳴っているが、鉄飾りの動きは明らかに鈍かった。


 灰鴎城へ戻ると、ニルが真っ先に駆け寄った。


「アルク様、また無理したんですか」


 アルクは不満そうに鳴る。


「したんですね」


 ニルは泣きそうな顔で、でも怒っていた。


「リネア様もそうですけど、どうして皆、平気じゃないのに平気みたいにするんですか」


 厨房にいた大人たちが、何となく私を見た。


「なぜ私を見るのですか」


 マルタさんが鍋をかき混ぜながら言う。


「心当たりがあるからじゃないかい」


 私は黙った。


 カイル様は、アルクの傷を見て眉を寄せた。


「直せるか」


「完全には分かりません。クラリス様の光で黒い粉は押し出せます。でも蝶番そのものは、アルクの記憶を戻す必要があります」


「前に言っていたな。王城の門だった記憶、灰鴎城で守った記憶」


「はい」


 アルクは少し落ち着かなさそうに鳴った。


 自分のことを皆で話されるのが苦手なのだろう。


 私はアルクの前に座る。


「嫌なら、やめます」


 門扉は黙った。


「でも、痛いまま無理をすると、次に開けなくなるかもしれません。あなたが開けなくなると、王城も灰鴎城も困ります。私も困ります」


 アルクが小さく鳴る。


 最後の一言に反応したらしい。


 ニルが両手を握った。


「ぼくも困ります」


 マルタさんが続く。


「厨房の火を運べなくなると困るね」


 トマさんも頷いた。


「港の扉も止めてもらった。職人としても困る」


 クラリス様が優しく言った。


「私も、光を当てる相手がいないと困ります」


 アルクは、だんだん小さくなった。


 照れているのか、隠れたいのか、両方だろう。


 カイル様が最後に言う。


「無理をする門は、閉め出す」


 アルクが強く鳴った。


「脅しではない。灰鴎城の決まりにする。傷ついた者は休む」


 灰鴎城の壁が、同意するように鳴った。


 私は思わずカイル様を見る。


「それ、私にも適用されますか」


「当然だ」


「聞かなければよかった気がします」


「聞かなくても適用する」


 逃げ道がなかった。


 けれど、その逃げ道のなさは少し温かかった。


 アルクの修復は、食堂で行うことになった。


 長卓を空け、アルクを中央に据える。クラリス様が黒い粉を照らし、私は蝶番に手を当てる。ニルはアルクがこの城で守ったことを一つずつ読み上げる役になった。


 読み上げるといっても、紙は使わない。


 ニル自身の言葉だ。


「王城からリネア様についてきたこと。馬車の後ろで石畳を傷つけないように歩いたこと。宿の馬小屋で邪魔にならない場所に立ったこと。灰鴎城で、ぼくたちを見張ってくれたこと」


 アルクが小さく鳴る。


 蝶番のひびに、光が入る。


「王城と灰鴎城をつないだこと。黒い粉を受け止めたこと。港の無人の扉を怒ったこと。……あと、偉そうな使者の靴を押したこと」


 厨房の方で、誰かが笑った。


 アルクの鉄飾りが得意げに揺れる。


 私は蝶番に触れたまま、アルクの中へ沈む記憶を感じた。


 王城の正門だったころ。


 馬車が通り、王族が通り、兵士が通り、祝いの日には花が飾られた。門扉は誇り高かった。誰を入れるか、誰を止めるか。王城の顔として立っていた。


 けれど、いつからか、門はただ開けと言われるだけになった。


 中で何が起きても、外から客が来れば開く。


 誰かが泣きながら出ていっても、次の馬車が来れば開く。


 祝宴の夜、私が別れを告げたとき、アルクは初めて自分で決めた。


 ついていく、と。


 私はその記憶に触れ、胸が熱くなった。


「ありがとう。あの夜、私を一人にしないでくれて」


 蝶番のひびが、少しずつ塞がる。


 完全ではない。


 でも、開閉できるだけの強さは戻った。


 クラリス様が息を吐く。


「できました。しばらくは、大きな門を開くのは避けた方がいいと思います」


 アルクが不満そうに鳴る。


 カイル様が即座に言った。


「禁止だ」


 さらに不満そうに鳴る。


「不満は受け付ける。許可はしない」


 灰鴎城の食堂が、楽しそうに鳴った。


 アルクはすねたように小さくなったが、食堂の入口から出ていこうとはしなかった。


 誰かに休めと言われ、それでも置いていかれない。


 それは、門扉にとっても初めての経験なのかもしれない。


 私はその姿を見て、自分も少しだけ反省した。


 無理をして守ることと、守るために休むことは、たぶん同じくらい大事なのだ。

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