33 真夜中の
午後になってパッドが手伝いに来て、陽が沈む前にジャウルが迎えに来た。
俺は彼らを夕食に誘った。
パッドはジャウルの腕に飛びつき、ねだるようにジャウルを見上げる。
「邪魔する」と短く答えた彼の手を、パッドが嬉しそうに引っ張っている。
橋が出来た日から、ジャウルは雰囲気が柔らかくなった───かもしれない。
彼らが来るようになったから、椅子を一脚増やした。親子は一緒に座り、俺が向かいに座る。
材料も少なく、簡素な料理ばかりなのに、「ライガのごはんおいしいね」とパッドがもりもりと口に運ぶ。
ジャウルは思ってもなさそうな声で、「ああ」と答えるだけだったが、素直じゃないのはもう分かっている。
「あ、あとな、明日から農業ギルドの集荷の人が17時に来る事になったんだ」
俺の言葉にパッドはきょとんと目を丸くし、ジャウルは眉を顰めた。
「しゅーか?」とパッドが首を傾ぐ。
「荷物を持っていってくれる人。家の端に大きな箱が出来てたろ。あそこに売りたい野菜を入れておくと、その人が持って行って、お金に換えてくれるんだ」
「お金!ぱぱ、お金だって」
「……なんで俺に言うんだよ」
「だって、ぱぱお金がないっていつも言う」
「………」
「おれたちもお金ほしいね」
頬をぱんぱんに膨らました子供にお金の心配をされている大人が少々おかしい。
俺はぐっと喉に詰まりかけたじゃがいもを必死に飲み下す事で、込み上げた笑いを噛み殺す。
ジャウルがジロリと目線を向けてくる。
「……で、どんな奴だ。その集荷係」
「どんな………黒とピンクの髪で若い男。バイク好きで……」
スクイッドの事を思い浮かべる。キャップのつばで顔を隠した姿しか思い出せない。
つばの影からこちらを値踏みしてくるピンクの瞳は、印象的だった。
だが、ジャウルが知りたがっているのはスクイッドの印象や見た目ではないだろう。
「ジャウルさんより小さくて細い子だった。もし2人が喧嘩するなら、ジャウルさんの圧勝だよ」
俺の言葉にジャウルの顔の強張りがほんのり緩んだ。
パッドは「ばいくってなに?」ってジャウルを振り返る。その顔を見下ろして、ジャウルは微笑んだ。
くしゃくしゃとパッドの頭を撫で、「車の仲間だ」とかなり適当な説明をする。
「……パッド、念のためにそいつが来る前に帰って来い。俺が居ない時は絶対に会うな」
「えー……ばいく、おれも見たい…」
「駄目だ」
「…………うん」
しぶしぶと頷いたパッドを庇ってあげたくもなるが、事情が事情だ。スクイッドがパッドのフェロモンに反応してよからぬ事をしては、互いの為にならない。
もちろん俺の為にも。
ジャウルの許可が出るまで────もっと言えば、パッドのフェロモンがどうにかなるまでは、我慢して貰いたい。
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今夜の月は、ブラッドムーン。
鮮血を垂れ落としそうな赤い月は、周囲をどんよりと赤く照らすだけで明るくはない。
暗く静まり返った森、生き物達も息を潜めている。
そんな森の中、木々の間を縫うように続く舗装跡を、音を立てずに進む影がある。
舗装跡は牧場に続いている。
影は橋の前に出た。小さなライトを握り締め、そっと橋を照らし、より慎重に足を進める。
川の音が随分と大きく耳に届く。
影はゆっくりと家に向かう。
ウッドデッキを爪先で踏み、音が鳴らないように慎重に上った。
窓がある。室内は真っ暗だ。
(草木も眠るなんとやら……起きてるワケねぇよな)
影は身を低く屈め、一度ライトを消して窓の下へと近付いた。
そっと窓を覗き込む。カーテンがない事に微かな違和感が浮かんだ。空き家でもなければ普通カーテンをするものだ。
しかし気にしてはいられない。
室内を見渡す事に集中するが、暗くて見えない。
ブラッドムーンの特徴でもある。暗がりをより暗く、赤をより紅く。
やりにくさを感じはするが、こちらが見えないと言う事は、向こうも見えないと言う事だ。
そっと玄関に近付き、ドアノブの前で片膝をついた。
ピッキングの必要があるかどうか、まずはノブを回してみる。
うっかり施錠を忘れでもしない限りは、開く事などないだろうが────
ノブはゆっくりと回り続けた。
この軽い回り方。
「開いてんじゃん…」
あまりの事に思わず声が漏れた。
鍵を締めずに寝たのか。あまりの不用心さに本当に人が住んでいるのか不安になる。
回していたノブの回転が止まり、そっとドアを開く。隙間から中を覗く。暗い。やはり人の気配はない。
するりと中へと入り込む。ドアは逃げやすいように閉め切らない。
まんまと侵入出来た。
ゆっくりと息を吐き、室内を見渡す。覗き込んだ時よりは見えるが、どうにも閑散としている。
夜だからか?と思いつつ、忍び足で進んだ。
─────ガッ、と爪先が何かを蹴りつけた。
思わず出そうになった声を押し殺し、慌ててしゃがみ込む。ライトを点け、足元を照らした。
(………階段?……違う、床が一段上がってんのか)
灰色の床、段差、木目のフローリングとライトが照らし出す。
何の為の一段なのか分からないが、モタモタしている場合ではない。
段差を踏みしめ音が鳴らないか確認し、上がる。
奥に進みつつ、周囲をライトで見渡した。
右は壁。窓があり、ライトが照り返ってくる。
左はドアがひとつ、奥まったキッチン。そしてまたドア。
(…………嘘だろ)
影は絶望した。
(な、何もねぇ……まともな家具すらねぇじゃん、んな事あんの)
広いフローリングには絨毯やラグもなく、あるのはキッチン手前に置かれた小さなテーブルと椅子だけ。
こだわりと余裕がなければ、家の中を飾る事などないだろうが、それにしても、何もない。
(…………金目のもんは期待出来ねぇな。いい、メインはカタログだ。カタログさえ手に入れば……)
黒く分厚いカタログ。金字の装飾と文字。
見た事はなかった。だが、一目で分かった。
(アレがありゃ……)
動揺を落ち着かせつつ、ライトを部屋中に這わせた。
ドアのどちらかに家主がいる筈だ。だが変化はない。静かな室内に、自分の呼吸だけがくぐもって聞こえるだけ。
その時、ライトが奥の何かをチカリと反射させた。
一際明るい光に思えた。
(………金庫とか、か?)
光を弾いた物を目指し、更に奥へと進む。ライトを当てるが光が反射するだけで、何かよく分からない。
ただ下は暖炉になっていると気付いた。
暖炉の上に何かを置いている。
近付いて、光の正体へと手を伸ばした。
「………写真…?」
ライトを当てて浮かび上がったのは、綺麗な女の写真だ。
写真立てのガラス面がライトを反射していたのか。
ライトを上げた。写真が置いてあった場所を照らす。
柔らかい木目の小さな棚のような物が置いてある。
もうひとつ、女の写真より小さい写真立てが置いてあった。
老夫婦が笑っている。
「………」
そっと女の写真を戻し、戻ろうと片足を引いた時だ。────バチンッ!!!と鼓膜を震わせる音と共に、視界が白く弾けた。
「ああ゛ッ!!!」
全身を貫く痺れ、雷が駆け巡るような熱。
喉から勝手に声が押し出され、立っていられずに倒れ込んだ。
ゴンッ!と硬い音が、床と頭に響く。
痺れのせいで身動きが取れないまま、背後を見上げる事になる。
足音も、気配もなかった。
まるで幽霊のように現れた影。
天井に向かって伸びる影は高く、頭の部分が闇に溶けていて見えない。
ただ、手に持ったスタンガンだけは、やけにはっきりと目に入ってくる。
「…………ヘルメット…?」
闇から声が降ってくる。
ふたつの雷光が揺らめいた、気がした。
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スタンガンとは逆の手に持っていたライトをつけ、横たわるフルフェイスヘルメットの男を照らす。
先程まで聞こえていた呻き声も途切れ、ぴくりとも動かない。
「……気絶した?」
俺の呟きに、ピロンと言う音が答える。
『うむ、無力化成功だ。………しかし、魔物用スタンガンを魔人相手に本気で撃ち込むとはな。お前の事だから、もっと躊躇うかと思っていた。と監視者が驚いています』
「深夜に人んちに入ってくる奴は魔物と同じくらいやばいでしょ…。こいつが武器持ってる可能性もあるんだし、やられる前にやらないと」
本気で殺す気はないが、躊躇っている場合でもない。
怒涛のピロン音で叩き起こされ、侵入者の存在を監視者から教えられた時は心臓が冷える程にゾッとした。
うるさい心音とは裏腹に、頭の中は妙に冷静で、スタンガンを握るまでは早かった。
元々制圧用で殺傷能力のないスタンガンだ。
おまけに効果は使用者の魔力に依存するらしく、俺の魔力では頑張っても最弱の威力しか発揮しなかった。
遠慮する必要がどこにある。
スタンガンを右手に持ったまま、口でライトを噛んで男のヘルメットを掴んだ。
真っ黒いパーカーに真っ黒いスウェット、真っ黒いスニーカーと全身で不審者を表現している怪し気な男。
優しくする意味はないだろうと、思いっ切り引っ張ったが二度三度振っても外れない。
ピロン
『顎紐がある。お前の力では引っ張るだけでは外れんだろう。と監視者が首を振っています』
「俺じゃなけりゃ外せんのか」
悲しい事実を知った。
確かに顎の下で揺れる紐があった。しっかり締めていた訳ではなかったようで、メットを戻すと微かに撓む。
顎紐を外してから再度メットを揺らすように引っ張った。
数回目で、やっと男の頭が出て来た。そのまま、ゴンと音を立てて床に頭を落とす。
ごろりと仰向けになった顔に、俺は動きを止めた。
「───………スクイッド?……え、なんで…?」
白目を剥いているが、どう見ても農業ギルドの集荷担当者のスクイッドだ。
赤黒い闇の中では黒にしか見えなかった髪色も、ライトで照らせばピンクのメッシュが浮き立つ。
今日初めて会った男。これから世話になる予定の業者。
俺は困惑しつつ、ウィンドウへと目を向けた。
ピロン
『尋問しかあるまい!と監視者が手錠を送りました』
銀色の光と共に現れ、スクイッドの腹の上に落ちた手錠。
ヘルメットを置いて、手錠を拾い上げる時、俺はちょっとばかし胸が高鳴った。
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「─────はっ…!!」
「あ、起きた」
スクイッドは息を大きく吐き、ベッドの上で跳ねた。
ベッド脇で椅子に座り(キッチンの椅子を持ってきた)起きるのを待っていた俺は顔を上げた。
跳ねはしたが起き上がれず、スクイッドは跳ね返されて枕に頭を沈めた。
自分の両手が手錠された上、頭の上で縛られている事を見上げて愕然としている。
「悪いけど拘束させて貰った。こんな時間に何の用で忍び込んだのか、直接聞きたくて」
眺めていたカタログを閉じ、ベッド横のサイドテーブルへと乗せようとした。
しかし上には彼のヘルメットも置いているので、乗せるスペースがない。
引き出しにでも入れるかと開いた時に、ふと見られている事に気付いた。
スクイッドの目がカタログを凝視している。その視線に既視感があった。
不意に朝の事が過った。スクイッドが畑を見渡しながら、ギルドについて説明してくれている光景。
────そうだ、あの時の視線だ。
ウッドデッキの上を見下ろしていた、あの時。
散らかっているから気になっているのかと思っていたが、置いていたカタログを見ていたのか。
俺はカタログを引き出しに入れずに引き戻す。スクイッドの視線がついてくる。
「………もしかして、コレが目当て?」
カタログへと注がれていたスクイッドの視線が、ゆっくりと俺の顔へと持ち上がる。
「……そうだよ」
「え?なんで?ただのカタログだぞ」
「……ボンボンが。こんな世間知らずに捕まるとか最悪」
視線がふいっと逸らされた。煌々とついている天井の照明の光を反射していたスクイッドのピンクの目が、忌々しそうに固く閉ざされた。
手が自由だったなら、きっと目を擦っていただろう。
俺は一瞬戸惑った。彼の言葉の意味が分からなくて。
「ぼ、ぼんぼん?俺が?」
情けない声が出た。スクイッドは瞼を少し上げ、視線だけを向けてくる。
さっきから悪びれもなく、反省もなく、不安や焦燥すらない彼の態度は、朝に見た時そのままだ。
違うとすれば、瞳に微かな侮蔑が滲むくらいか。いや────嫉妬か?
「そーだよ、何がただのカタログだよ。本当のただのカタログ見た事ねぇだろ」
「………どう言う意味」
「ボンボンは知らないだろうが、カタログにはグレードがあるんだよ。お前が持ってるそれは、俺クラスの田舎者じゃ、到底お目にかかる事のない最上級のカタログって事。持ってんのは大金持ちか、主要都市の役場くらいだ」
「役場……?」
「役場にカタログがある事も知らねぇの」
役場がある事すら知らなかった。いや、別にあっても変ではないが、考えた事がなかった。
「カタログってのは、一番下のグレードでもかなり高額だ。だからみんなで金を持ち寄って1冊買う。大体がその役割を役場がやってんだ。………一個人がカタログを持ってんのはありえねぇんだよ。しかもそのカタログを。お前が大金持ちの息子でもない限り。なのに……なんで何もねぇの。俺の家より空っぽじゃん」
そら金持ちじゃないからだよ。大金持ちの息子の可能性は、まあ、あるが。アビスは魔神だから、大金持ちと称するものか分からない。
俺はカタログを見て、眉を寄せた。
アビスも、監視者も、このカタログの価値については何も言わなかった。
ふと、視界に青いウィンドウの端が入り込む。汗マークが並んでいた。
恐らく、2人にとってカタログと言えばコレだったのだろう。
だから説明などしないし、何なら価値など気にした事もなかったのかもしれない。
セレブと貧民じゃ標準が違う。どこの世界だってそれは常識なのだろう。
しかし、そうだとしてもやはり疑問だ。
「…………これが最上級のカタログだってのは分かったけど、これを盗んで何がしたかったんだ?転売?」
「……確かにどっかの成金野郎には売れるだろうな。魔貴族の真似事をしたがる金持ちは多いし。俺はんなもったいない事しねぇけど」
スクイッドの視線が天井へと戻った。腰の位置を整え、ギッとベッドを鳴らす。
「もったいない?」
「………世界中のショップが載ってんだぞ。魔貴族御用達の専門ショップなんかもあるって噂だ」
魔貴族は随分と特別らしい。
スクイッドの声にはやはり嫉妬心が滲んでいた。金持ちが嫌いなのだろうな。
それとも、金持ちではない自分が嫌いなのか。
その感覚は、ちょっと分かる。
だからと人んちに盗みに入る気持ちは分からんが。
改めてカタログを引き出しに戻した。スクイッドの顔があからさまに落胆し、拗ねたように歪んだ。
「欲しいもんでもあんの?」
引き出しを閉めると、スクイッドは顔ごと背けた。
「………ある」
「…………バイク用品?」
「………だったら何」
「………言ってくれりゃ、代行してやるのに」
「…………他人に借り作るなんて、バカがやる事だぜ」
「夜中に不法侵入する方がバカだろ」
「………鈍臭そうだから」
「俺が?」
心外だ。そりゃ俊敏とは言えないが、別に鈍臭くはないだろう。
スクイッドは顔を向け直す。その視線は冷ややかだ。「お前以外誰がいんの」と言いたげなピンクの目線に、俺は声が詰まった。
鈍臭いのか、俺。
無言を肯定と受け取ったのか、スクイッドは少しだけ満足そうに鼻を鳴らす。
縛り上げられているのに余裕だ。
「盗めるなら盗んだが楽。いちいち借り作らず好き放題買えんじゃん」
「………あんま反省してないな」
「してる。全部話したし、そろそろ帰っていい?腕痺れて来たし」
ベッドフレームの格子を潜らせた手錠を、ジャラリと鳴らすスクイッド。
当たり前に帰れると思っている空気がぷんぷんする。
「………本気で帰れると思ってんの?」
呆れた俺の問いにスクイッドは答えなかった。微かに頬を引き攣らせ、不満そうに目を細めるだけだ。
無言で暫く見詰め合った後、わざとゆっくりと立ち上がり、口元を覆うように手で撫でる。
視界からスクイッドが外れない程度に顔を背けて、出来るだけ小さな声で呟いた。
「……監視者様、こう言う場合ってどうすりゃ良いんです?」
ピロンと、ウィンドウが開いた。
『だからナメられるなとあれほど…!と監視者が呆れています』
「俺の話は今度しましょう。今はこいつをどうするか、ですよ」
流石にこのまま放流するのは気が治まらない。それこそナメられてしまうだろう。
『魔人は強さが何よりの序列になる。ボッコボコに殴ってやれ。と監視者が彼を指差しています』
「………俺がボッコボコになるまで殴れると思います?」
『…………警察に突き出すか?町に1人くらいは駐在していると思うが。しかし呼び出す手段がない。と監視者が唸っています』
「警察?」
思わぬ単語に声が大きくなった。
はたと口を手が隠した。また一人で喋るやばい奴になってしまう。
「……警察がいんの?」
『お前が思うような警察ではないと思うがな。と監視者が肩を竦めています』
「……ちょ、ちょっと」
突然、スクイッドが声を掛けてきた。
「うん?」
振り返ると明らかに顔が強張っていた。初めて見せた彼の感情らしい感情に、僅かに目を見開いてしまう。
「警察は、……勘弁して」
「………」
「マジで、警察以外ならあんたの好きなようにして良いから。警察は、行きたくない」
「…………こんなに怖がるもん?」
そりゃ行きたがる奴はいないだろうが。
ぼそりと監視者へと向けて呟いた。ピロン、と音が再度鳴る。
『魔界の警察はストレス発散で囚人を殴るような奴ばっかりだからな。と監視者が頷いています』
「大問題だろそれ」
『殴らんと言う事を聞かん囚人ばかりだからな。と監視者が致し方ないと首を振っています』
「地獄絵図過ぎる」
”警察”は翻訳ガバか。人間界、いや日本の警察とは全然違うが、警察に近しい存在なのだろう。全くもってどんな存在なのか想像もつかんが。
「警察に行ったら仕事に行けなくなる。せっかく農業ギルドに入れたんだ、やめたくない」
縋るような声だ。スクイッドにとって仕事は大事なのか。少し意外に感じた。なんせ始終怠そうだったから。
眉尻の下がった彼の顔を暫く眺めていたが、むくりと新たな疑問が湧いた。
「………ん?クビになるのが嫌って事?捕まる事じゃなくて?」
『警察に捕まるとなかなか出てこられなくなるからな。無断欠勤も数年単位では流石に復帰は難しい。と監視者が彼の気持ちを汲んでいます』
「………捕まっても無断欠勤の扱いなんだ」
捕まったからクビになる訳ですらないらしい。どういう事やねんと似非関西弁の突っ込みが出かかる。
ここにきて人間界と魔界の倫理観や常識のズレが際立って来た。司法はどうなってんだ、もしかして裁判すらないのか。
魔界の社会的理念に思いを馳せていると、ジャラとまた手錠が鳴った。
スクイッドが身を起こしていた。手錠のせいで中途半端な姿勢で、辛そうだ。
それでも俺に顔を近付けようとしている。
「なあ、頼む。バイクに乗れるだけの体力を残してくれれば、後はどれだけボコッてもいい」
「いや殴んのは俺も痛いじゃん。そういう趣味は………」
本当に暴力こそが罰みたいな世界観なのか。どんなアウトローだ。
しかし何かしら罰は与えておきたい。
二度と盗みに入ろうなんて思わないように。
懇願するスクイッドを見下ろす。
スニーカーは脱がせているので靴下だ。柔らかいスウェットのパンツに、少しダボついたフードのついたパーカー。
よく見ると彼は肌も薄っすらと桃色がかっていると気付いた。なのに唇は血色が落ちたくすんだピンクの唇。
人間では見た事のない色味をしてる。なのに妙に色気を感じた。
おまけにその薄い唇から覗く歯は、ギザ歯に見える。
興味がむくむくと湧き出る。
「…………マジで何してもいいの?」
「………警察に行かねぇなら」
「うん、そか。じゃあ……」
まさか自分にこんなシチュエーションが来る日があるとは思ってもなかった。
スクイッドの唇を見詰めた。その奥が何色なのか、ずっと気になっていた。
俺は気付かない内に笑っていた。
ピンクの瞳の中に映る、俺の笑顔。
くすんだピンクの唇がほんのりと色味を強めて、微かに震えている。




