幕間~古の風の記憶
ジルコールの外れ、土のアナグラの天井に貼った古い板が、時折ミシ、と鳴る。
ノーラは寝台代わりの藁束の上で横になり、薄い毛布代わりに――灰色のローブを肩まで引き上げた。
足元では、ピョコマルが丸くなって眠っている。
ふわふわの毛並みが、息に合わせてわずかに上下していた。
「……今日はよく働いたわね、あんたも」
ノーラが小声でつぶやき、ピョコマルの背を指でつつくと、「ぴょ」と寝言のような声が返ってきた。
そのとき――胸元に、鈍い熱が灯る。
「……ん?」 ノーラは目を細めた。灰のローブの内側、胸のあたりが、かすかに脈打つように温かい。まるで生き物の心臓がもう一つ増えたかのように。
同じ瞬間、隣の寝台で眠っていたルチェアが、うなされるように身じろぎした。
「……あっつ……胸が……」
寝間着の隙間からのぞく、淡い光の刻印。ルチェアの祝福印が薄闇の中でじわりと輝きはじめていた。
それに反応するようにピョコマルの耳がぴくりと動く。
ノーラの灰のローブ、祝福印、ピョコマル――三つのあいだを、目に見えない糸が結び直されたかのように、空気がねじれた。
(……あ、来る)
ノーラは、過去に一度だけ経験したあの感覚を思い出す。
視界の端がぐにゃりと歪み、アナグラの土壁が溶けていくような――
廃教会で体験した記憶石のような感覚ではない。
灰のローブ特有の幻視だった。
そして世界は、音もなく裏返った。
脳裏に浮かぶのは寒い塔の中だった。
石壁はひび割れ、窓から吹きこむ風が、古い書物のページをばらばらとめくっていく。
壁一面の棚に並ぶ羊皮紙と本。部屋の中心には、背の高い机。
その前に、一人の女が腰掛けている。
年若い――けれど、目だけが異様に静かだ。
深い焦茶の髪を一つにまとめ、灰色のローブを羽織っている。
そのローブの質感は、ノーラが今まさに着ているものとまったく同じだった。
ノーラは無意識に息を呑む。自分たちは影のような存在で、見ているだけで触れることはできない。
それでも、女の横顔の輪郭は、ありありと見えた。 「さあ、もう一度」 柔らかな声。女の足元で、小さな影がぴょん、と跳ねた。 ――それは、ピョコマルだった。 いや、正確には【よく似た何か】だ。
今より少し細身で、角の名残のような小さな突起が額にある。
でも、鹿のような顔立ちと、猫のようなふさふさの毛並み、丸い瞳。
「ぴゃう」と鳴くその声まで、今ルチェアのそばにいるピョコマルと同じだった。
「魔力をゆっくり流しなさい。あなたの風をこの子に貸して」
女の向かいには、幼い少女が立っていた。
痩せた腕、何度も書き直した跡のあるルーンの羊皮紙。
少女はぎこちない動きで息を整え、ピョコマル似の獣の額にそっと手を当てる。
「……風よ……」
かすかな魔力が伝わる。
その瞬間、獣の背中の毛がふわりと逆立ち――部屋の中を、やわらかな風が一周した。
紙が揺れ、ランプの火が大きく揺らめく。だが炎は消えない。
風はきれいに丸い軌道を描き、女の頬を撫でて静かに消えた。
「……できた」
少女が小さく呟くと、女は黙って頭を撫でた。
「媒介獣は、魔女の負担を軽くしてくれる。けれど――」
女の視線が、窓の外の灰色の空へ向かう。
「記録する者がいなければ、いつかこの力も、意味も、消えてしまうわ」
その言葉が不思議なくらい胸に刺さった。
少女が獣を抱きしめる。その背には、今のルチェアとよく似た、淡い光の印が浮かび上がっていた。
――
――――
――――――
視界がぱん、と弾けるように戻った。
ノーラははっと上体を起こした。胸元のローブの鼓動は収まりつつあり、ルチェアの祝福印の光も、ゆっくりと弱まっていく。
ピョコマルはというと、ノーラの顔の真横に来ており、じっと覗き込んでいた。
丸い瞳の奥で、さっき見た古い個体の残像が重なる。
「……あんた」
ノーラはその額に指を置いた。
「やっぱり、ただのかわいい魔獣じゃないわね」
「ぴょ?」
ピョコマルが首をかしげる。その仕草が、さっきの少女の足元で跳ねていた獣とまったく同じで、ノーラは思わず苦笑した。
寝ぼけまなこでルチェアが身を起こす。
「ノーラさん……今、変な夢を……古い塔で、知らない女の人と、小さな獣が……」
胸元の印を押さえながら、言葉を探すように。
ノーラは一瞬だけ黙り、やがて肩をすくめた。
「……たぶん、同じものを見てたわね。詳しくは、朝ご飯のあとで聞かせて」
ピョコマルは二人のあいだで「ぴゃう」と鳴き、しっぽを揺らした。
風が一瞬だけアナグラの中を巡り、棚の紙片を一枚だけふわりと浮かせて、そっと床に戻す。
(古い魔女たちが作った媒介獣)
(そして、祝福印持ちの少女に引き寄せられた、最後の一体)
そこまで言葉にすることはない。ただ、ノーラはピョコマルの頭を撫でながら、心の中でだけ結論を出した。
「……あんたの秘密も、そのうちちゃんと記録してあげるから。逃げないでよね、ピョコ」
「ぴょ!」
元気よく鳴くその声を聞きながら、風の夜は、ゆっくりと更けていった。




