76~煤まみれのフレアリスと銀刻式節約術
その日の銀刻事務所にはフレアリス、ミント、ジンジャー、カルメノが集まっていた。ソルトだけは最近見つかった珍しい遺跡のレリーフ調査に単独で出かけている。
事務所は朝から少しだけ煤臭かった。
原因は分かりきっている。
事務所の奥、洗濯用のたらいの前でフレアリス=ヴァン=ルクレールが仁王立ちしていた。赤い髪は昨日よりも幾分まとまりを欠き、いつもなら誇らしげに翻るローブの裾には、黒っぽい煤の跡が残っている。
本人はそれを、まるで一族の家宝に泥を塗られたかのような顔で、見下ろしていた。
「……屈辱ですわ」
低く、重々しい声だった。
ノーラは机の上で書類を整理しながら、視線だけを上げる。
「何が?」
「何ではありませんわ。見なさい、この袖を。この裾を。戦場帰りの煙突掃除人のような有様を」
「戦場帰りなのは合ってるでしょ」
「わたくしは、煙突掃除人ではありませんわ!」
フレアリスは勢いよく振り返った。
「わたくしはルクレール家の魔女。火を司る高貴なる血筋ですのよ。それが煤臭いなど、あってはならない屈辱ですわ!」
ミントがジンジャーの包帯を替えながら、ぼそりと言った。
「火を使ったら煤くらいつくでしょ」
「ミント! それは言ってはならない真理ですわ!」
「真理なら言っていいんじゃない?」
ルチェアがくすりと笑った。
昨日の戦いの後、ルチェアの顔色はまだ完全には戻っていなかった。肩には包帯が巻かれているし、ふとした瞬間に表情が硬くなることもある。けれど、フレアリスの大げさな嘆きを見ている今だけは、少しだけ緊張がほどけていた。
ノーラはそれを横目で確認してから、机の端に置いていた小さな計算板を引き寄せた。
「で、どうするつもりなの?」
「当然、高級洗浄屋に出しますわ。王都式の香油洗浄で、この煤と匂いを完璧に落として――」
「3フロー」
「……はい?」
「高級洗浄屋に出すと、だいたい3フロー。戦闘煤と魔力焦げつき込みなら、追加で50セン。香油仕上げまで頼むなら、4フロー近いわね」
フレアリスの表情が固まった。
ノーラは淡々と続ける。
「自分で洗えば、石鹸代と灰汁、井戸水、香草少々で20センちょっと。差額は約3フロー80セン」
「……」
「さて、ルクレールの誇りはいくら?」
フレアリスは口を開けたまま止まった。
普段なら即座に「誇りに値段などつけられませんわ!」と返してきそうなものだが、三フロー八十センという具体的な数字は、没落貴族の胸に妙に深く刺さったらしい。
彼女は袖の煤を見下ろし、次にノーラの計算板を見て、もう一度袖を見た。
「……洗いますわ」
「よろしい」
「ただし!」
フレアリスは指を突きつける。
「これは節約に屈したわけではありません。自らの手で汚れを落とすことにより、炎の魔女としての精神を鍛える修練ですわ」
「はいはい。修練なら水汲みからね」
「そこからですの!?」
「洗濯ってそういうものよ」
フレアリスはしばらく絶望的な顔をしていたが、やがて気高く顎を上げた。
「よろしいですわ。井戸水程度、このフレアリスにかかれば――」
数分後。
井戸から水を汲んで戻ってきたフレアリスは、桶を抱えたまま肩で息をしていた。
「……井戸水、なかなかの強敵ですわね」
「まだ一杯目だけど」
「水とは、これほど重いものでしたのね……」
ルチェアが慌てて立ち上がろうとする。
「あ、手伝います」
「座ってなさい」
ノーラが即座に止めた。
「あなたは怪我人。今日は書記と監督」
「監督ですか?」
「フレアリスが余計なことをしないか見てて」
「わたくしを何だと思っていますの?」
「高確率で余計なことをする火力担当」
「否定しきれないのが腹立たしいですわ」
ピョコマルが床の上で「ぴゃ」と鳴いた。
その声が妙に同意しているように聞こえたので、フレアリスはピョコマルを睨む。
「ピョコマルまで何ですの、その納得した顔は」
「ぴゃう」
「こら、ピョコマル。フレアリスさんを煽らないの」
ルチェアが小声で注意するが、その口元は少し笑っていた。
洗濯は、思ったより騒がしい作業になった。
ノーラが灰汁の分量を測る。ミントが染みの抜き方を教える。ルチェアがノートを開き、真面目な顔で手順を書き込む。ジンジャーは片腕を使えないため、椅子に座ったまま見守り役だ。カルメノはなぜか無言で水桶を運び、フレアリスに「そこまで気を遣わずともよろしくてよ」と言われて、少し困ったように頷いていた。
フレアリスは文句こそ多かったが、手つきは意外なほど丁寧だった。
袖口の煤を乱暴にこすらず、布地の目に沿って少しずつ落としていく。香草を使う時も、香りが強すぎないよう量を調整している。貴族育ちのわりに、衣類の扱いをよく分かっている動きだった。
ノーラは少し意外に思いながら、それを見ていた。
「……あんた、洗濯できるのね」
フレアリスがぴたりと手を止める。
「失礼ですわね。できますわよ」
「てっきり全部使用人任せかと」
「ルクレール家も、昔はそうでしたわ」
フレアリスは、少しだけ声を落とした。
「けれど、没落してからはそうも言っていられませんでしたもの。衣装の手入れくらい、自分でできなければ困りますわ」
その言葉は、いつもの大げさな調子ではなかった。
ノーラは少しだけ黙る。
フレアリスの高飛車さは、ただの虚勢ではない。失ったものを、それでも失っていないと言い張るための鎧でもあるのだろう。そう思うと、この煤まみれの洗濯騒動も少しだけ違って見える。
だが、しんみりしすぎるのも違う。
ノーラは計算板を指で叩いた。
「じゃあ、なおさら自分で洗えば3フロー80セン浮くわね」
「台無しですわ!」
「事実よ」
「せめて余韻というものを学びなさいな!」
ミントが笑う。
ルチェアもつられて笑った。
フレアリスは不満げに頬を膨らませたが、その手は止まっていなかった。
昼過ぎには、ローブの煤はかなり落ちていた。
完全に新品同様とはいかないが、焦げ臭さは薄れ、香草の柔らかな匂いが布に移っている。フレアリスは干されたローブを見上げ、腕を組んで満足げに頷いた。
「悪くありませんわね」
「20センで済んだしね」
「そこを強調しないでくださる?」
「大事なところよ」
ルチェアがノートに書き込む。
「高級洗浄屋に出す前に、自力洗浄の費用対効果を考える……」
「いいわね。大事」
「ただし、布地によっては素人洗いで価値を落とすから注意、と追記して」
「はい」
ノーラが言うと、ルチェアは真剣に頷いた。
フレアリスはその様子を見て、少し呆れたように笑う。
「ルチェア、あなた本当に何でも勉強しますのね」
「はい。ノーラさんのそばにいると、知らないことがたくさん出てくるので」
「そのうち値切り交渉まで覚えそうですわ」
「もう少しだけ覚えたいです」
「そこは否定しないのですわね」
ノーラは少しだけ満足した。
日常の中で学ぶ。
危険な戦いの後でも、こうして何かを積み上げる。
それは悪くない時間だった。




