75~ノーラ流・身ぐるみ剥ぎ交渉回2
「その件については、当商会としても強く抗議したい」
ドフォールの代理人は静かに言った。
「金貨袋に印章があったからといって、当商会が黒魔術師と関係しているとは限らない。商会の貨幣は市場を巡るし、それに盗まれた可能性もある」
ノーラは微笑んだ。
その言い訳は、予想通りだった。
「ええ。そうね。盗まれた可能性はある」
代理人の目がわずかに動く。
ノーラは続けた。
「だから、ドフォール商会の台帳を出して」
「……何?」
「商会印入りの金貨袋なんて、大口取引用でしょ。袋の作成数、払い出し先、回収記録、紛失届け。それがあれば、盗まれたのか、誰に渡したのか、すぐ分かる」
会議室が静まり返る。
ノーラは笑みを消さない。
「潔白なら一番早い証明よね?」
代理人は一拍置いた。
「商会の台帳は機密だ」
「でしょうね」
ノーラはすぐに頷いた。
「でも、クリオに資金提供していない証明にもなる。出せないなら、商会印付きの金貨袋が黒魔術師の懐にあった事実だけが残る」
「それは脅しかね」
「違うわ。帳簿の話よ」
ノーラは指先で机を軽く叩く。
「商売では、記録できるものが強い。記録できない金は、疑われる。簡単でしょ?」
フレアリスが小さく笑った。
「帳簿で殴っていますわね」
ミントがぼそりと言う。
「いつものことよ」
代理人は表情を崩さなかったが、指先だけが机の上でわずかに動いた。
効いている。
ノーラはそう判断した。
ここで相手を完全に追い詰めてはいけない。
ドフォール商会は大きい。今この場で黒幕と断定して潰そうとすれば、証拠不足で逆に反撃される。
だから、逃げ道を用意してやる。
ただし、その逃げ道は有料だ。
「そこで提案」
ノーラは請求書束の上に、一枚の新しい紙を置いた。
「ドフォール商会は、今回の橋梁復旧基金に一時保証金を出す」
代理人の眉が動く。
「なぜ当商会が?」
「潔白を主張するなら、街への誠意を見せるため。もし後で無関係だと証明されれば、保証金は橋梁復旧協力金として商会の名誉になる。もし関与が見つかれば、そのまま被害補填の一部に充当される」
「……随分都合の良い提案だ」
「商売って、そういうものよ」
ノーラはにっこり笑う。
「しかも、あなたたちにとっても悪い話じゃない。ここで何もしなければ、街の商人たちはこう思うわ。ドフォール商会は、黒魔術師の懐に自分の印章入り金貨袋があったのに、橋の復旧に一フローも出さなかった、と」
商人たちの視線が、代理人へ向く。
それは言葉より重い圧だった。
ドフォール商会は大きい。
だが大きい商会ほど、信用を食って生きている。
疑惑だけでも傷になる。
その疑惑を放置すれば、傷口は広がる。
代理人は静かに息を吐いた。
「金額は?」
ノーラは即答した。
「十ソル」
室内に小さなざわめきが起きた。
「十ソルだと?」
代理人の声が少し低くなる。
「仮橋設置と初期警備の一部よ。大商会の誠意としては控えめでしょ?」
「控えめとは言えない」
「なら八ソル」
代理人が目を細める。
ノーラは間髪入れずに続けた。
「ただし、台帳の確認協力を本日中に出すこと。あと、橋梁復旧に必要な資材の優先供出。買い叩きはしない。適正価格でいい。でも出し渋ったら、十ソルに戻す」
「君は何の権限でそれを言っている?」
「被害を受けた商人の一人として。討伐協力者として。あと、ここにいる商人たちが今、だいたい同じことを思ってる顔をしてるから」
ノーラは会議室を見回した。
香辛料商が小さく頷いた。
布商も、薬草商も、黙っているが否定しない。
ギルド支部長も腕を組んだまま口を挟まない。
行政役人は、むしろ紙に何かを書き足している。
シエナは、無表情に近い顔で代理人を見ていた。
ドフォール商会の代理人は、そこで初めて笑った。
感情のない、薄い笑みだった。
「銀刻交易連合。噂には聞いていたが、ずいぶん強欲な商会だ」
「褒め言葉として受け取るわ」
「八ソルは大きい」
「橋はもっと大きいわ」
「台帳の全面開示はできない」
「全面とは言ってない。該当する金貨袋の払い出し記録と紛失記録でいい」
「資材の優先供出は、在庫次第だ」
「在庫一覧も出して」
「それも機密だ」
「じゃあ、出せる範囲でいい。ただし嘘をついたら、異典執行局と商人組合の両方を敵に回す」
代理人は黙った。
ノーラも黙った。
会議室に、紙の擦れる音だけが残る。
こういう沈黙は、嫌いではない。
値段が動く音がするからだ。
代理人はやがて、ゆっくりと言った。
「五ソル」
「八ソル」
「六ソル。台帳確認は三日後」
「八ソル。台帳確認は明日昼まで」
「七ソル。台帳確認は明後日」
「七ソル五十フロー。台帳確認は明日夕刻。資材供出一覧も同時」
代理人の目が細くなる。
ノーラはさらに一枚、紙を差し出した。
「加えて、ドフォール商会名義ではなく、商人組合管理の橋梁復旧基金へ拠出。つまり、あなたたちは黒幕疑惑を認めたわけではなく、街への協力として出した形にできる」
代理人はその紙を見た。
これは逃げ道だ。
ノーラははっきりそう示していた。
ここで払えば、ドフォール商会は即座に犯罪関与を認めたことにはならない。むしろ街へ協力したという建前が立つ。
だが同時に、金は出る。
台帳も動く。
資材も引き出せる。
ノーラにとっては、それで十分だった。
今この場で首を落とす必要はない。
まず財布を開けさせる。
それから帳簿を覗く。
代理人はしばらく沈黙し、やがて頷いた。
「……七ソル五十フロー。橋梁復旧基金への一時拠出。台帳確認は明日夕刻までに、該当範囲のみ。資材供出一覧も提出する」
会議室の空気がわずかに動いた。
ノーラはすぐに言った。
「書面にしましょう」
「準備がいいな」
「商人ですから」
ルチェアが慌てて紙と筆を用意する。
手は少し震えていたが、昨日の戦場の震えとは違う。今は緊張しながらも、ノーラの横で何かを学ぼうとしている顔だった。
ノーラはそれに気づき、少しだけ声を柔らかくする。
「ルチェア、記録。日付、出席者、金額、条件」
「はい」
ルチェアは真剣な顔で書き始めた。
ピョコマルもなぜか一緒に紙を覗き込む。
「ぴゃ」
「ピョコマルは判子押せないからね」
「ぴゃ……」
フレアリスが小さく吹き出す。
だが交渉はまだ終わっていない。
ノーラは次に、シエナの方を向いた。
「異典執行局にも確認」
「何?」
「クリオの押収資産のうち、換金可能なものはいつ被害補填に回せる?」
「正式鑑定後。本局の承認が必要になる」
「時間がかかる?」
「普通はかかる」
「普通じゃ困る」
リュシエルは眉を上げた。
「君は異典執行局にも値切る気?」
「値切るんじゃない。早払いをお願いしてるの」
「同じことに聞こえるわ」
「違うわよ。橋は今壊れてるの。十日後にお金が出ても、今日腐る薬草は救えない」
ノーラは帳簿をめくる。
「だから、押収資産の見込み額を担保にして、異典執行局名義の仮保証を出して。商人組合がそれをもとに短期資金を組む。橋の仮復旧と保管費に回す」
行政役人が目を丸くした。
「それは……できるのか?」
リュシエルは少し考え込んだ。
「制度上、まったく不可能ではない。異典犯罪による公共被害で、犯人資産が明確に押収されている場合、仮保証を出した例はある」
ノーラは即座に食いつく。
「あるのね?」
「ある。ただし審査が厳しい」
「審査資料なら作る。被害一覧、復旧計画、押収資産目録、関係者証言、全部まとめる」
「誰が?」
「銀刻が」
ミントが横で頭を抱えた。
「また仕事増やした」
フレアリスも呆れたように言う。
「あなた、昨日死にかけた人間の仕事量ではありませんわよ」
「死にかけてないし、これで橋が早く直れば銀刻の信用が上がる」
ノーラは当然のように言った。
「信用は資産よ。ここで取らない手はない」
シエナはノーラをじっと見た。
そして、わずかに笑った。
「いいわ。仮保証の申請を上げる。ただし、書類に不備があれば差し戻される」
「不備のない書類を出す」
「本当に?」
「ルチェアが清書するから」
「えっ」
ルチェアが顔を上げた。
「私ですか?」
「昨日のMVPで、今日の書記係よ。大丈夫。私が見る」
ルチェアは一瞬だけ驚いたが、すぐに背筋を伸ばした。
「はい。やります」
ノーラは頷く。
それでいい。
戦いの後に残るのは傷だけではない。
役割も、信用も、次の仕事も残る。
それを拾って形にするのが、銀刻のやり方だ。
会議はその後、細かな条件へ移った。
仮橋の資材は、ドフォール商会を含む複数商会から供出。
ギルドは警備隊を出し、費用は橋梁復旧基金から支払う。
異典執行局はクリオ押収資産の仮保証申請を行う。
銀刻交易連合は、被害一覧と補填申請書の取りまとめを補助する。
そして最後に、商人代表が一枚の証書を作成した。
銀刻交易連合を、橋梁復旧協力商会として記録する証書だった。
ノーラはそれを受け取り、しばらく黙って見つめた。
紙一枚。
だが、これはただの紙ではない。
商人組合が銀刻の働きを認めた証だ。
これがあれば、今後の取引で銀刻の名は少し通りやすくなる。
信用状ほど強くはないが、最初の足がかりとしては十分だ。
フレアリスが横から覗き込む。
「嬉しそうですわね」
「嬉しいわよ」
ノーラは素直に言った。
「これ、お金になるもの」
「結局そこですのね」
「信用は未来のお金よ」
ノーラは証書を丁寧に畳み、懐へしまった。
その瞬間、ドフォール商会の代理人が立ち上がった。
「銀刻交易連合の手腕、よく分かった」
「それはどうも」
「だが、あまり大きな商流に首を突っ込みすぎると、流れに呑まれることもある」
露骨な脅しではない。
けれど、忠告というには冷たい。
ノーラは代理人を見上げた。
怖くないわけではない。
ドフォール商会は大きい。こちらが今、ようやく立ち上がりかけた小さな商会であることは、ノーラ自身が一番分かっている。
真正面から潰し合えば、資金力も人脈も違いすぎる。
だが、だからといって退く理由にはならない。
「流れに呑まれそうなら、通行料を取るわ」
ノーラは笑った。
「それが商人だから」
代理人は一瞬だけ目を細め、それ以上何も言わずに会議室を出ていった。
扉が閉まる。
張りつめていた空気が、ようやく少し緩んだ。
ミントが長く息を吐く。
「心臓に悪い交渉するわね」
「勝ったでしょ」
「勝ったというか、相手の財布に手を突っ込んだというか」
「合法よ」
フレアリスが肩をすくめる。
「まさしくノーラ流の身ぐるみ剥ぎですわね」
「失礼ね。身ぐるみは剥いでないわ」
「では何ですの?」
「正当な被害補填、信用回復協力金、仮保証申請、資材供出、そして銀刻の信用獲得」
ノーラは指折り数える。
「身ぐるみじゃなくて、必要なものを必要なだけ剥いだだけよ」
「それを身ぐるみ剥ぎと言うのでは?」
「言い方は大事」
ピョコマルがなぜか得意げに鳴いた。
「ぴゃう」
ルチェアはノートに書き込む手を止め、ぽつりと言った。
「交渉って、戦いみたいですね」
ノーラは少し考えた。
「似てるわね。でも、戦いより面倒よ」
「どうしてですか?」
「勝ちすぎても駄目だから」
ルチェアが首を傾げる。
ノーラは会議室の扉を見る。
ドフォール商会の代理人が去った先を。
「相手を叩き潰すだけなら簡単な時もある。でも商売は、その後も街が回らないと困る。橋を直す資材も、荷を運ぶ馬車も、人も、金も、どこかの商会が持ってる。だから相手を逃がす道を作りながら、払うものは払わせる」
「逃がす道を作る……」
「そう。完全に追い詰めるのは、最後の最後でいい」
ノーラは帳簿を閉じた。
「今回は財布を少し開けさせた。次は帳簿を覗く。その次に、誰へ金が流れたかを見る」
ルチェアの表情が引き締まる。
「ドフォール商会が、本当にクリオのスポンサーだったかどうか」
「ええ」
ノーラの声は少し低くなった。
「クリオは捕まった。でも、あいつに金を出した奴がいるなら、次はそいつの番よ」
窓の外では、朝の光が街路に差し込んでいた。
橋はまだ壊れている。
街道はまだ詰まっている。
ドフォール商会の疑惑も晴れていない。
けれど、銀刻は一つ、確かなものを得た。
信用。
交渉の足場。
そして、次の敵へ伸びる金の糸。
ノーラは懐の証書を軽く叩き、満足げに笑った。
「さて、帰るわよ。今日中に書類を仕上げる」
ミントがげんなりする。
「休む気ないの?」
「休むわよ。書類を書きながら」
「それは休むって言わない」
フレアリスが扇子を開く。
「世界の危機でも帳簿は待ってくれない、でしたわね」
「その通り」
ノーラは堂々と胸を張る。
「そして帳簿は、敵の首根っこも掴めるのよ」
ルチェアがその言葉を、今度は迷わずノートに書き込んだ。
帳簿は敵の首根っこも掴める。
ノーラはそれを見て、苦笑する。
「……そこは書かなくていいってば」
「大事なことだと思ったので」
「ぴゃう」
ピョコマルまで同意するように鳴いた。
ノーラはため息をつきながらも、どこか満足そうに歩き出した。
クリオの身ぐるみは、まだ半分しか剥げていない。
けれど、まずは十分。
黒魔術師の押収資産。
ドフォール商会の保証金。
橋梁復旧基金。
そして銀刻の信用。
昨日の戦いで掴んだ勝利を、今日の交渉で金と未来に変える。
それが、ノーラ流だった。




